[#表紙(表紙.jpg)] 柴田よしき Close to You 目 次  試練の幕開け  最 低 の 朝  承 服 困 難  前 途 多 難  油 断 大 敵  天 罰 覿 面  消 息 不 明  事 態 緊 迫  絶 対 服 従  五 里 霧 中  光 明 一 筋  最 終 段 階  試練を越えて [#改ページ]    試練の幕開け  一触即発の状態でもそれが長く続いていると感覚が鈍化して、気にならなくなっているものである。  草薙雄大《くさなぎゆうだい》と直属の上司である坂田の場合もそうだった。雄大は、上司の坂田との間にあるぴりぴりとした緊張関係にすっかり慣れ切って、最近では坂田に対して逆説的な親近感までおぼえるようになっていた。そうした気分的余裕にはもちろん、優越感という裏付けがあった。雄大にとって、坂田はもはや敗北が決定した老将であり、あえて早急に追い討ちをかけて首をはねるまでのこともない相手だったのである。そう、雄大は過信していた。自分の実力とそして、自分の運を。  ある朝、雄大は知ることになる。  情勢は一夜にして逆転し、今や敗北が決定的になったのは坂田ではなく自分の方であることを。  そんなことは会社という組織の中では珍しいことでもないのだ。よくあることだったのだ。その朝の取締役会で動議が叫ばれ、現執行部数名が退陣を余儀なくされた。その中に、雄大の所属していた派閥の長とも言うべき専務が混じっていた。それだけのことだった。もちろん、謀略は前夜までに完成していたのであって、その朝に起こったことはまさに結末でしかなかった。  その日、雄大は茫然自失のままで夜の街に繰り出し、深夜まで酒を飲んで始発で家に戻り、そのまま病欠の届けを出して三日間会社を休んだ。布団にくるまり、がんがんと、ステンレスのバケツを被せられてその上からバットで殴られているような頭の痛みに耐えながら必死で考えた。どうにかして坂田との関係を修復し、生き残る術《すべ》はないものかと。だが何をどう考えても想像しても、希望は薄かった。坂田はもう五十代で、今さらあの意固地で意地悪で矮小《わいしよう》な性格が矯正される見込みはゼロに等しく、奇跡のように雄大のことを好きになってくれる可能性は、ゼロ以下であった。この月末までには、坂田はどうすれば積年の恨みを雄大に対して晴らすことが出来るかとっくりと考え、嬉々としてその熟考の結論を実行に移すだろう。実際、雄大は坂田に対して、この二年近くの間逆らい続け、恥をかかせ続けてきたのだ。しかしもちろんそれは、単に坂田とはウマが合わなかったとかそうしたレベルの話ではなく、半ば業務命令に近い「非公式な通達」が、雄大の派閥の上の方から雄大に下りてきたという類《たぐ》いの話である。つまり雄大は、個人的に坂田に対して強い恨みもなければ、憎悪も持ってはいなかったのだ。ただ、もはや息の根が止まるのは時間の問題と思われていた会長派の残党の最右翼である坂田の存在が、その時点で主流派になりつつあった専務一派にとって非常に鬱陶《うつとう》しく、何とかして自分から辞表を出させる方法はないかという陰謀の一端として、雄大を直属の部下においてねちねちと下からのイジメをさせていびり出す、という作戦が取られていたわけである。そんな面倒なことをせずに坂田を左遷することが出来ていれば事は簡単だったのだが、会長が生きている間はあからさまにそうした報復人事が出来ないデリケートな事情が何やらあったようで、結局、雄大に坂田いびり出しの陰の指令が下ったわけである。  自分に言い訳をしても仕方がないので布団の中で認めるしかなかったのだが、雄大は、そんないびりを楽しんで暮らしてきた。坂田は実に我慢強く陰湿で、雄大のいびりに耐え抜いたばかりかねちねちと報復のジャブも繰り出してくる。油断すると雄大の方が大恥をかかされることもままあった。それが適度な刺激を生み、雄大は毎朝、戦場に赴《おもむ》く武士の高揚を持って通勤電車に乗ることが出来た。どちらにしても最終的な勝敗は決まっている。その暗黙の保証があったからこそ、雄大はある意味では気楽に、坂田との小競り合いを楽しんでいたのだ。いずれ老会長が病にでも倒れれば坂田は即、左遷である。定年間際の数年間、坂田は地方支社の窓際の席に座って雲でも眺めて過ごすかまたは、東京郊外にある在庫倉庫の管理でもさせられながら軍手を埃だらけにして過ごすことになるだろう。だがそれだって、この不況下に路頭に迷っているリストラ犠牲者に比較すれば、そう悪い人生ではないのではないか。そして坂田の座っているあの椅子は、もちろん、自分のものになる。それでいいのだ。雄大は、そうした結末を疑ったことは一度もなかった。そうなることが当然だと信じていた。だからこそ、良心の呵責《かしやく》のひとかけらも感じることなく、子供じみたイジメに精力をつかうことが出来たのだ。これも仕事なんだ、そう自分に納得させることはいとも簡単なことだったのだから。  神の審判は下った。  負けたのは自分の方だった。  布団の中で、雄大は最後の決断をしようとしていた。耐え難きを耐え、しのび難きをしのんで屈辱を受け、それでも毎月の給料だけは確保する為に惨めな姿をさらして会社の片隅でひっそりと定年まで棲息するか、きっぱりと辞表を出して、職安の列に並ぶか。  しかし、現実はもっと厳しいだろう、と雄大は思った。どんな惨めな姿であってもひっそりと定年まで棲息させてくれるならいいが、それほど甘くはないに違いない。こうなった以上、坂田との立場は完全に逆転したのだ。今度は自分が、早く辞めろとこづきまわされる番なのだ。しかも坂田の場合とは違って、左遷も報復人事もし放題なのだ。どんなに粘って頑張ったところで、次の決算期までにはリストラ要員に入れられて退職勧告を受けるだろう。従わなければ給料は半分以下に減らされ、どれほど過酷なイジメにさらされるか、想像しただけで背筋が凍る。  出るも地獄、残るも地獄。  雄大は布団の中で大きな、大きな溜息をひとつ、ついた。  不覚にも、涙が一粒、ぽろっと落ちた。 [#改ページ]    最 低 の 朝      1  ゆうべの酒が非情にも脳内に残っている。  雄大は痛みに顔をしかめたまま手を伸ばしてベッドサイドを探り、頭痛薬の箱を手にした。カプセルをふたつ、ペットボトルのミネラルウォーターで飲み下すのがこのところの毎朝の日課になっている。もちろん、からだには良くない。良くないどころか最低だろう。朝一番の空《す》きっ腹に鎮痛剤。自殺行為に等しい。こんなことを続けていればその内、胃に穴があくに違いない。だがこうしなければ、半日はベッドから起きあがれないのだから仕方がない。もともと雄大は酒に弱い。弱いどころか、アセトアルデヒドの分解酵素を微量しか持たない遺伝体質を父親から受け継いでいるので、酒を飲むと拷問《ごうもん》のような苦しみを体験することになる。だったら飲まなければいいのであるが、飲まないと眠れない。眠れないだけではなく、くよくよと考え続けてしまいにイライラし、部屋の中のものを手当たり次第に壊したい衝動にかられてしまう。結局毎晩、雄大は無理して酒を飲み、吐き気と眩暈《めまい》の中で気絶するように眠り込み、ひどい頭痛で目覚めて鎮痛剤を飲むのである。こんな毎日がもうひと月以上近くも続いている。  さんざ悩み抜き、悔し涙も枯れ果てるまで布団にもぐって考えたあげく辞表を出したのは先月の末だった。たまたまボーナスの支給月より後だったことだけが、不運に終わった雄大の会社生活最後の幸運だった。おかげで、失業状態でもしばらくは生きていくことが出来る。  いや、その考え方はフェアではないだろうな、と雄大は自分で認めた。実際問題としては、雄大がこのまま失業状態を永久に続けたところで、生きて食べていくだけなら何とかなるのだ。なぜなら、草薙家の稼ぎ頭はもともと、雄大ではなかったからである。  草薙家は、ひどく古風な言い方をすれば共稼ぎの子供無し、ちょっと古い言い回しなら|DINKS《デインクス》、別の言い方をするなら、個々自立型夫婦で扶養家族無し。実際のところ雄大は、妻の鮎美《あゆみ》の年収額の正確なところは把握していない。結婚前からずっとそうだった通りに結婚後も、雄大は鮎美の財布の中身を覗《のぞ》くような真似はしないことに決めていたし、鮎美もまた、雄大の稼ぎをあてにすることは一切なかったのだ。二人は光熱費などの引き落としや家賃、家計雑費の支払い用につくった口座に毎月十五万ずつを振り込み、残りの収入はボーナスも含めて完全に自分たちでそれぞれ管理していた。共同口座に毎月少しずつ残る金がそのまま二人の貯金になる。それでも一切合切を引き算した純粋手取りで二十万七千円あった雄大の月給ならば、毎月五万円以上が小遣いにつかえたし、ボーナスは自由になるわけだから、何も不自由はなかった。鮎美もまた不自由している素振りはなく、それどころか、けっこう優雅にやっているのは確かだった。何しろ結婚前から鮎美の方が給料は多かったのだから、結婚して五年経った今でもその差がまだあったとしても何ら不思議はない。  つまり、雄大の失業は、即座に草薙家の経済的崩壊を意味するものではなかった。早い話が、雄大が失業しようとどうしようと、鮎美はいつもと変わらずに会社に行き、いつもと変わらずに帰宅する。草薙家では食事はおのおのが食べたい時に作ることになっているので、その点でも何も問題はなく、掃除は週に一度ハウスクリーニングの専門会社から派遣される人たちが徹底的にやってくれるので、後は気づいたところをちょっと掃《は》くぐらいで済んでしまう。洗濯は鮎美の分担で、その代わり、ゴミ出しとベランダの植木の水やりは雄大の担当になっていたが、どちらにしても大した労働ではない。要するに、失業して家にいても雄大にはこれといってやる事がなかったのだ。  この不況下に、これはかなり優雅な失業状態であることは間違いないだろう。その点では雄大は不満を言うつもりはないし、そんなことをすれば罰が当たる。だが実際に体験してみると、はたから見れば呑気そのもののこの状況だって辛いことに変わりはない。失業は失業なのである。  何が最も辛いのか。  それはつまり……自分が失業したというのに、草薙家の生活が根本的に何も変わっていないように見える、そのことがいちばん辛いのだ、と、雄大は気づいた。  鮎美が何も言わないのである。何も言わず、淡々といつもの通り出勤し、いつもの通り帰宅する。まるで雄大などいてもいなくてもさほど気にならない、とでも言うように。  ある意味では、それはフェアな見方ではないことを雄大はいちおう自覚している。鮎美には鮎美の生活があり、仕事がある。そんなことはこの五年間ずっと続いていた草薙家のしきたりであり、草薙家の家風なのだ。今さら文句を付けるなどというのは卑怯《ひきよう》だった。  だがそれでも、雄大は不機嫌だった。面白くないのだ、何もかも。  俺は失業したのだぞ! と、雄大は出勤する鮎美の背中に向かって声を出さずに怒鳴ってみる。普通の家庭だったら、一大事どころか、一家心中の可能性だって出てくるほどの大騒ぎなはずだ。別に騒いでほしいというのではないが、それにしたって、なぜそんなに淡々とした顔で俺の失業を受け止めてしまうのだ、おまえは!  声に出す勇気などはもちろんない。自分の怒りがひどく身勝手で不当なものだというのはわかっていた。だからこそ、腹の中に憤懣《ふんまん》が溜まる。  雄大は、鮎美が出勤するまでベッドから出なくなった。顔を見ているとしまいにとんでもないことを口走ってしまいそうで、恐かったのだ。毎朝じっと寝た振りを通し、鮎美の気配が家から完全に消えると起き出して、気の乗らない朝食を作って食べた。それから顔を洗って身支度をして、職安に出掛ける。そこでまた、惨めな思いをする。  一週間で雄大は、食欲がなくなり、宵っぱりになり、朝寝坊になった。半月経つ頃にはからだを動かすのが億劫《おつくう》になり、職安までの距離を電車やバスで移動するのが辛くなった。退職して二十一日目、雄大は、池袋で電車を乗り換えずにそのまま街に繰り出し、パチンコ屋に入った。二十六日目、雄大はとうとう、開店と同時にパチンコ屋に入り、コンビニの握り飯で昼食を済ませ、夕方五時までパチンコ屋で過ごしてしまった。  家路は遠く感じられた。駅からマンションまで、徒歩十五分。その無限にも思えた距離の果てに、雄大は、生まれてから最低の気分でドアを開けた。そして、酒を飲んだ。意識がなくなるまで、家中の酒を飲み尽くした。翌朝、いや目覚めた時はもう昼で、頭は割れるように痛かった。頭痛薬を飲み、顔を洗って着替え、池袋まで出てパチンコ屋に行った。夕方までいて、電車で戻って来ると駅前の酒屋に寄った。家に戻り、買って帰った酒を飲んだ。夜はどんどん長くなり、鮎美と顔を合わせる時間はどんどん少なくなった。明け方になってもまだ眠れずにいることが多く、そんな時には意識を失うまで飲むしかなかった。  そうして一カ月と七日目、昨夜のことである。  突然、もう家の中には酒がないと気づいた雄大は、真夜中の一時だというのに家を抜け出した。酒を扱っている駅向こうのコンビニまで行くつもりだったらしいのだが、自分でもよく憶えていない。途中で何があったのかまったく思い出せないまま、今朝目覚めると、ベッドの中にいた。いちおうパジャマは着ていたが、第一ボタンまできっちりとめられていたので、自分で着たのではないことがわかった。      2  雄大は今、ゆうべ何があったのか思い出そうと必死だった。鮎美はとっくに出勤していて、もうベッドから這《は》い出してもいいのだが、それすらしたくないほどに気持ちがへこんでいる。何かやらかしたのは確かなのだ。なぜなら、からだ中のあちらこちらがしくしくと痛むのである。長い間迷ってから、雄大は意を決して布団から這い出した。そして、恐る恐る自分の両腕のパジャマからはみ出している部分を見つめた。そこに、「証拠」があった。右腕の外側、手首に近い辺りにどす黒く変色した青痣《あおあざ》がある。卵ほどもある大きさの楕円形の痣だ。おまけに、その周囲には擦《す》りむいたような傷。  現実からいつまでも目をそむけているわけにはいかなかった。雄大は寝室のドレッサーのドアを開け、そこに取り付けられている全身鏡の前でパジャマを脱いだ。 「ああ」  思わず、声が出た。 「何だこりゃ……」  からだ中に痣と傷があった。深い切り傷のようなものではなく、擦りむいた傷ばかりだが、無数と言っていいほどあちらこちらについている。痣もすさまじかった。腹部は濃い紫からブルーベリーのような色合いの痣が大小十数個もついていて、中のひとつは腫《は》れ上がっている。この分だと、同じ様な痛みをさっきから感じている背中も似たり寄ったりの惨状だろう。手足には赤くて小さな痣が、これも無数についている。自分本来の肌の色が判別出来る部分の方が少ないくらいだ。だがからだよりもっとすごいのが顔だった。目覚めてからどうも視界が狭いと思っていたが、両方の瞼《まぶた》が赤く腫れて垂れ下がっているのである。お岩さんのメークを両方の目にほどこしてしまったかのようだと表現すればいちばん近いかも知れない。他の部分も色とりどりの痣が並び、鼻血も大量に出したのだろう、鼻は腫れ上がって鼻の下は擦れて荒れていた。  想像を超えたその有り様に、雄大は瞬間、我を忘れたようになって自分の姿に見入っていた。それが自分の顔やからだでなかったとしたら、よくもここまでしつこめにメークしたもんだ、とニセモノだと信じて疑わなかっただろう。ここまでやられたからには、ただの喧嘩《けんか》のはずはない。何とまあ、自分は、リンチされてしまったのだ……だけど、なんで?  呆気《あつけ》に取られている雄大の耳に、電話の呼び出し音が鳴り響いた。寝室にも子機が置いてある。 「もしもし?」  子機を通して、聞き覚えのない男の声がした。 「草薙さんですか」 「はい」 「草薙雄大さんはいらっしゃいますかね」  中年の男の声だった。 「わたしですが、どちら様でしょう?」 「緑が丘交番です。駅前の。昨夜のことで、二、三お尋ねしたいことがありますんで、これから係官が行きますが、ご都合はよろしいですかね」  雄大は絶句した。駅前の交番。交番が昨夜のことについて訊きたい。交番とは警察だ。警察が昨夜のことで…… 「もしもし、もしもし?」 「は、はい」 「おからだはいかがですか。係官と話は出来そうですか?」 「……あ、はい、何とか」 「それでは今から三十分後ぐらいに行かせますので、よろしくお願いしますね。そんなにお手間は取らせませんので」  電話は切れた。  雄大の全身から冷や汗が噴き出した。子機を戻す手が震える。  雄大はよろよろした足取りで寝室を出るとキッチンに行き、冷蔵庫に入っていたウーロン茶のペットボトルをラッパ飲みした。水分に唇が湿ると、途端に激しい喉《のど》の渇きをおぼえ、そのままごくごくと二リットルボトルの半分近くを飲んでしまった。目覚めた時に感じていた激しい頭痛は、自分のあまりの姿と警察からの電話がショック療法になったのか、だいぶ収まって今は頭の奥の方に鈍痛が貼り付いている感じがする程度だ。だが逆に、その正体を知ってしまって全身の痣の痛みは強くなっていた。まるでちろちろとした炎で全身を焼かれているような具合だ。ウーロン茶のボトルを抱えたままダイニングの椅子に座り、ゆうべのことを思い出そうと必死になった。警察が事情を訊きに来るというのだから何もしなかったはずはないが、かと言って、逮捕もされずに自分の家で目を覚ましたところから察すれば、恐ろしい犯罪を引き起こした、というわけでもないらしい。しかしいったい、何があったんだろう?  うなり声が出るほど考えても、思い出せるのは酔った頭で酒が切れたことに気づき、サンダル履《ば》きでマンションを出たところまでだった。駅向こうの酒をおいているコンビニへ行こうと考えていたのは間違いないのだが、エレベーターに乗った辺りからの記憶がぼんやりして霧の中だった。  ドアが開く音がした。一瞬、もう警察がやって来たのかと緊張したが、呼び鈴も鳴らさずに鍵でドアを開けて入って来るとしたら鮎美以外にはいない、と思い直した。 「あ、雄ちゃん」  鮎美はスーパーの袋を片手に下げていた。 「駄目よ、まだ寝てないと!」 「おまえ、会社は?」 「いやね」  鮎美は苦笑いした。 「休んだわよ、もちろん。今ね、斎藤先生のところに保険証を持って行ったの。ゆうべはあたしも気が動転しちゃって、あなたの保険証がどこにあるのかわからなかったもんだから。社会保険だとばっかり思って探してたけど、よく考えたら、先月から国保になってたのよね、あなた」 「鮎美」  雄大はウーロン茶をもう少し飲んで、弱々しく訊いた。 「ゆうべいったい、何があったんだい? 今さっき警察から、事情を訊きに来るって電話があったよ……俺、警察に迷惑かけるようなこと、何かやらかしたのか?」  鮎美はスーパーの袋から野菜だの何だのを取り出して冷蔵庫に入れ始めた。雄大は鮎美の言葉を待った。鮎美は、冷蔵庫の方を向いたままで言った。 「やっぱり憶えてないのね。ものすごい酔い方だったから、たぶん起きたら何も憶えてないだろうなって思ってた」  鮎美は冷蔵庫から梨をひとつ取り出してドアを閉めた。 「冷たい梨なら食べられる? それとも、何かもっとちゃんとしたもの食べる?」 「……梨でいい」  鮎美は流しに向かった。 「何があったのかはあたしにもよくわからないの。ゆうべあたし、仕事で接待があったから、家に帰ったのが午前二時前だったのね。それでシャワーを浴びてたら電話が鳴って。駅前の緑が丘交番からだった。おたくの旦那さんが泥酔して転がり込んで来たんで、迎えに来てくれって。たまたま夜勤についていたおまわりさんが、あなたの顔を知っていたの。ほら、去年の町内運動会の時、あなた、二キロ走で三着だったでしょ。あの時優勝したのがそのおまわりさんだったの。憶えてる?」  雄大はまったく憶えていなかった。  子供のいない共稼ぎ夫婦でしかもマンション暮らしの常として、町内会などとはほとんど関わりを持ったことのない雄大と鮎美だったのだが、たまたま昨年、マンションの自治会長から、マンションの住人は町内会の活動に非協力的だと突き上げられているので何とか参加してくれないかと頼まれて、しぶしぶ町内運動会とやらに出たのだ。自治会長の話ではパン喰い競走か何かでお茶を濁して帰ればいいと思っていたのだが、いざ行ってみると、ある程度若い、というだけで過酷な競技への参加が半強制されるような雰囲気が厳然とあった。そして、普段町内のゴミ拾いにも公園清掃にも顔を出したことのない雄大は、当然のように、もっとも過酷でもっとも人気のある二キロ走に出場させられてしまった。一キロ程度なら全力疾走する自信もあった雄大も、二キロとなると最後には目の前が暗くなったことだけしっかり憶えている。町内には毎朝ジョギングを欠かさず、青梅マラソンにも出ているという強者《つわもの》がいたりして、そうした連中を相手に三位になったというのはなかなかすごいことだったらしく、あれ以来、町内を歩いていてこちらにはほとんど覚えのない人から軽く会釈などされることもたまにある。だが優勝したという警察官のことについては、かけらも記憶にない。 「それで慌てて迎えに行ったら、あなたは交番の奥の部屋で大きなイビキかいて寝ていたのね。その時は、ただ酔ってるだけと思ったんだけど、よく見たら顔にいっぱい痣みたいなものがあるじゃない。おまわりさんの話では、酔った勢いで喧嘩でもしたんだろうけれど自分でここまでやって来て、大したことはないと言い張って寝てしまった、って。あたし、取りあえずあなたのことタクシーでここまで運んだの。おまわりさんが一緒に来てくれて担いでくれて。でも何となく心配だったから斎藤先生に連絡して来ていただいたのよ。それで、斎藤先生が診察しようとしてあなたを裸にしたら、みるみる内に痣が色づいてはっきりしてきて……本当に驚いたわよ。先生の話ではね、打ち身っていうのはつくってすぐは痣にならなくて、後で内出血した血が鬱血して色づいてくることが多いんですって。だからおまわりさんは気づかなかったのね。でもおかしかったの。顔とか手足に無数についていた小さい赤い痣は、痣じゃなかったのよ」 「……痣じゃ、ない?」  雄大は顔にそっと掌《てのひら》をあてて、熱を持っているような腫れに触れてみた。 「それね、蚊らしいわよ、蚊」 「……か?」  鮎美はけらけらと笑った。 「お酒の匂いをぷんぷんさせたまま、九月の草むらに三十分も横たわっていたら、隙間がないくらいびっしりと蚊に刺されても不思議じゃないでしょうねって斎藤先生も笑ってた」  蚊。  そう聞いた途端、それまで痛みだと思っていた感覚が実は、痒《かゆ》みだと気がついた。猛烈に痒い。 「じゃ、この瞼も?」 「それも蚊よ。ひどい顔よねぇ、本当に。あたし、さっきあなたが寝ている間にインスタントカメラで顔を撮影しておいたの。一生の思い出ね」  悪趣味な女だ、と雄大は思った。それにしても、赤い小さな腫れは蚊でいいとして、それ以外の青いのや紫のや黒いのは? 「全部が蚊に喰われたわけじゃないよな」  雄大は、右手の青黒い痣を眺めながら言った。 「俺……誰かに殴られてるよな、確かに」 「ええ、たぶんね。鼻血も出てるし」  鮎美の顔が曇った。 「ゆうべ、斎藤先生にもそう診断されて、それで慌《あわ》ててまた交番に連絡してね。おまわりさんが来てくれてあなたから事情を聞こうとしたのよ。でもあなたったら、どうやっても起きてくれなくて。あたし、頭でも打ったんじゃないかって本当に心配になったわ。でも斎藤先生が調べてくれて、頭には打撲傷はないみたいだって。全身の痣も、お酒で血管が膨れていたから内出血がひどくなったんだろう、打撲自体は軽いって言ってくださったの。それで安心したのよ。骨にも異常はないみたいだって言うし。斎藤先生の見立てではね、金属バットや木刀みたいな物騒なものじゃなくって、木の棒だとか竹刀《しない》みたいなもので、大勢で一斉にあなたを叩いたんじゃないかって。それも、力のそんなにない連中だっただろうって言うの」 「どういうこと……なんだろう?」 「さあ。見当もつかない」  鮎美は肩をすくめた。 「いずれにしても、見た目ほどひどい怪我じゃなくて本当にホッとしたわよ。あ、ただね、脇腹にだけ少し強く打ったらしい部分があるんですって。痣が四角いから、何かにぶつけたんじゃないかってことだけど。念のため、目が覚めたら診察に来てくださいって言われたわ。警察が帰ったら一緒に行きましょうね」  雄大はますます混乱する頭を振りながら、ボトルに残っていたウーロン茶を飲み干した。酔っぱらって駅向こうまで歩いていて、途中で誰か、たぶん複数の人間を相手に大立ち回りを演じたというのは想像出来るとしても、それにしては怪我の程度が奇妙だった。非力で木の棒か何かを持ったグループに袋叩き? 何だかさっぱりわからない。  水分の補給が終わると少し空腹を感じた。夕飯を食べたのは昨夜の六時頃、それもビールのつまみに買って来たゲソの揚げ物と枝豆だけだったから、腹が減るのは当然だった。何しろもう、午前十一時を過ぎるところだ。雄大が空腹を告げると、鮎美は嫌な顔ひとつしないで中華粥を作ってくれた。と言っても、鮎美が自分の朝食用に買い溜めてある冷凍食品を解凍しただけなのだが、自分の食事は自分で作ることが原則の草薙家においては、電子レンジで冷凍食品を温め、それを器に盛りつけてくれるというだけでも、破格のサービスなのだ。しかも、あさつきの小口切りまで添えて。これが本物の病気の時だったら、夫婦なんだし助け合うのは当たり前、と言えるところだが、酔っぱらって喧嘩をしたあげくのていたらくだと、鮎美に罵倒《ばとう》され見捨てられても文句は言えないところだった。特にこのところずっと、鮎美の顔を見るのを避けるようにして暮らしていたこともあって、雄大は身の縮むような申し訳なさと情けなさを味わっていた。  警察は電話があってからきっちり三十分後にやって来た。緑が丘交番の巡査が来るものと思っていたのだが、現れたのは私服刑事がふたり。雄大は緊張した。刑事が担当しているということは、ただの酔っぱらいの喧嘩ではないということか?  自己紹介が済むと、須原《すはら》と名乗った若い刑事が質問を始めた。と言っても、何を訊かれても雄大はただ、すみません、憶えていないんです、と繰り返すしかなかった。本当に憶えていないのだからどうしようもない。逆に雄大の方が、刑事の口からゆうべのことについていろいろと情報を与えられ、納得しているような始末だった。 「交番に来られた時にすぐ救急車を手配しなかったのは当方の落ち度です。誠に申し訳ない」  高村という年輩の刑事は座ったまま頭を下げた。 「その時点では、顔が蚊に喰われている以外の異変というのは認められなかったようなんですよ。いや、衣服を脱がせてちゃんと調べれば良かったんですが、草薙さんが割合にしっかりした口調で、何でもないから大丈夫だと言い張り、からだに触られるのを嫌がられたということでしてね」 「そんな、こちらこそどうも本当に」  雄大はソファテーブルに額が付くまで頭を下げた。 「怪我の方は大したことないみたいです。午後からいちおう診察には行きますが」 「結果が出たらぜひご連絡ください。入院が必要ということになりましたら、あらためて署の方からお詫《わ》びに伺います」 「いえそんな、滅相もない」  雄大は必死に頭を振った。 「お、お詫びはこちらの方がその、緑が丘交番へ伺います」 「そう言っていただけると助かります。何しろこのところ、世間からの風当たりが強いですからね、我々には」  高村が苦笑いし、また須原が口を開いた。 「ところでですね、何も憶えておられないということなんですが、本当に何も心当たりはありませんか。いや、酔っておられる時のことではなく、それ以外も含めてお考えください」 「……と、おっしゃいますと?」 「つまりですね、そのお怪我の具合から考えて、草薙さんが昨夜誰かと喧嘩をした、或いは誰かに暴力をふるわれたのは間違いがないと思いますが、それにしては、見た目より草薙さんがお元気です」 「打ち身はひどいが、骨だの何だのには異常はないそうです」 「大の男が相手の喧嘩なら、それだけほうぼう殴られればアバラにひびが入るぐらいのことはあっても不思議ではないし、悪くすれば生死に関わるような大怪我にもなります。ところが幸い、そうはならなかった。考えるに、草薙さんを殴った連中は草薙さんをひどく傷つけるつもりは最初からなかったのかも知れない。だがそうだとしたら、それだけの数の打ち身傷は何とも奇妙です。ひどく痛めつけるつもりがなかったにしては遣《や》り口が執拗《しつよう》だ。どうもね、アンバランスなんですよ」 「アン、バランス、ですか」 「はい。それで我々としては、草薙さんを襲った連中は、大人の男ではないのかも知れない、と考えました」  雄大は、刑事の言葉の意味がわからずに首を傾《かし》げていた。刑事ふたりは目配せを交わしている。話そうか話すまいか、躊躇《ためら》っているようだ。 「草薙さんは、ここ二カ月余りに何件か起こっている市中での連続傷害事件をご存じですか」 「市中の連続障害……あ、あのオヤジ狩りのことですか?」  雄大は新聞の社会面を賑《にぎ》わせていた事件について思い出した。確かに、三十代以上の男性ばかりを狙った集団暴行事件が連続して起こっているという記事を読んだ記憶がある。襲った連中はパーティ仮装用のゴムやシリコン製の面をかぶっていて顔がわからず、声も発しないので年齢も定かではないが、かなり若い連中らしいということは、被害者の証言から判っていた。骨格が成人のようではなく、しかも、動作が機敏で、よく笑っていた、ということらしい。幸い死者は出ていないが、脳挫傷で意識不明のままの被害者もいるのではなかったか? 「まさか、わ、わたしもそのオヤジ狩りに……」 「可能性はある、というのが我々の判断なんです。ですからこうしてお話を伺いに参りました。一連の事件は明らかに愉快犯の仕業です。奴らはゲーム感覚で、酔った成人男性を狙っています。ただし、十日ほど前に意識不明の重体者が出てしまい、連中は少し自重した、というより、ひるんで臆病になったのではないか、という見方が出来るのです。ですから草薙さんに対しては、決して死んだりしないよう、頭は狙わず、手加減もしたのではないか。連中はこのゲームを出来るだけ長く続けたい。もし死者が出てしまったりすれば、警察がそれだけ本腰を入れることになり、ゲームが終わってしまう危険性が高まると、連中は考えているのではないかと」  雄大は、思いもよらない方向に話が進んでしまうのに唖然《あぜん》としていた。自分がまさか、オヤジ狩りの対象にされてしまうなどとは、今の今まで考えたこともなかったのだ。だが一歩引いてみればなるほど、失業して毎日パチンコと酒にあけくれ、しょぼくれて泥酔し、真夜中にふらふらと歩いていた自分はまさに、狩りの獲物にふさわしいという気もしてくる。しかし刑事の話はもっと意外な方向へと突き進んだ。 「いずれにしても、草薙さん、あなたはそれだけ殴られていながら自力で交番までたどり着きました。しかしあなたは交番まで出向いておきながら、結局は事情を説明しようとしなかった。我々は、もしかしたらあなたが、自分を袋叩きにした連中の正体を知っているのではないかと考えたんですが」 「ええっ」  雄大は思わず大声を出した。 「ど、どど、どうしてそんなことになるんですかっ!」 「つまりですね、あなたの中に迷いが生じた、ということです。犯人の正体は知っているものの、それを警察に告げることを迷った。迷ったあげく、何も言わないことに決めた」 「じょ、冗談じゃない!」  雄大はぶるぶると首を振った。 「そんなことあるはずないじゃないですか。わたしは何も憶えていないんですよ。自分がオヤジ狩りにやられたってだけでも信じられない気持ちなのに、犯人を知っていて黙っているだなんてそんな……勘弁してくださいよ、刑事さん。わたしは本当に何も知らない、思い出せない。ただの酔っぱらいだったんです。それだけなんですから!」  雄大は、下手をしたら自分がオヤジ狩りの仲間と思われるのではないかと恐れながら、必死で抗弁した。  警察がどう思おうと、交番に行ったことすら記憶にないほど泥酔していたのだ。事情を説明するより先に寝てしまっただけのことだ! ともかく言えることはひとつしかない。何も憶えていない。わたしは何も、知りません。  ふたりの刑事がようやく帰って行ったのは一時間以上経ってからだった。ぐったりと疲れが出て、雄大はソファに横になった。全身の痒みと痛みが増したような気がする。 「雄ちゃん」  鮎美の心配そうな顔が、顔の上にあった。 「大丈夫?」 「……気が変になりそうだ」  雄大はあえぐように言った。 「俺、オヤジ狩りされちゃったらしい。しかも警察は、俺がそいつらを知ってるんじゃないかと疑ってる」 「うん……キッチンにいたけど、だいたい聞こえた」 「鮎美、俺……知らないよ。本当に、何も知らない」 「そんなこと、わかってる」  鮎美は微笑《ほほえ》んでくれた。 「わかってるから、安心して。それより、雄ちゃん。起き上がれるようなら病院に行かないと」 「うん」  雄大は小さな子供に戻ったように素直に頷くと起き上がった。惨めさがまた一気に、雄大の心を包み込んだ。      3  レントゲン写真を見て、医師は骨に異常がないことを請け合った。CTスキャンも問題なかった。頭は殴られていない。腹部の打撲も、内臓に影響を与えるほどのものではなかった。要するに雄大は、ただ全身に痣と虫刺されをつくっているだけで、医学的には健康の部類に入っていた。どちらかと言えば入院でもしてしばらくふて寝していたい気分だったが、異常がないのに入院させてくださいと頼むわけにもいかず、結局そのまま我が家に戻って来た。  行き帰りの車の中では、鮎美はほとんど何も言わず、好きな音楽を流して聴き入っている振りをしていた。が、雄大には、鮎美は何か自分に告げたいことがあるのだ、とわかった。本当なら、自分の方から鮎美が話し易くなるように水を向けなくてはならないのだろう。そのくらいのことはしても当然なのだ。それでも雄大は、頑《かたく》なに口を閉ざし、鮎美と視線を合わせないように窓の外の景色に見入った演技を続けた。  衣服から露出していた部分に無数についていた赤い虫刺されの痕跡は、時間が経つにつれて次第に小さくなり、痒みも感じなくなっていった。九月の蚊は刺し痕の痒さが夏の蚊の比ではなくきつい、と言われているが、医者に処方された抗ヒスタミン剤が効いたのだろう。逆に痣の方は、刻一刻と不気味な色に変わっていく。これでは当分、職安にもパチンコ屋にも行かれそうにない。  雄大はベッドに戻り、夕方まで本を読んだ。本の内容などは一行も頭に入って来ない、ただ漠然と文字を目で追うだけ。それでも、何もすることがない、という自分の境遇を一時考えなくて済むのが有り難かった。だが鮎美がドアを開け、遠慮がちに、夕飯は食べられる? と訊いた時、雄大は観念した。これ以上鮎美との「話し合い」を引き延ばすことは出来ないし、引き延ばす権利など自分にはないのだ。 「少しなら。作ってくれたの?」 「久しぶりに、あなたの好きな飛鳥鍋《あすかなべ》なの。ふたりでお夕飯食べられるのなんてほんとに何カ月ぶりかでしょ、だから、ちょっと暑いけどお鍋」  鮎美は照れ隠しなのか、ペロッと舌を出して先に階下へと降りて行った。  メゾネット形式の3LDK、二階は寝室と雄大の書斎、一階にはリビングと和室があり、和室は特別なことがない限り、鮎美の書斎になっている。西武池袋線のK駅から徒歩十五分、小さな自然公園を中心にしたマンション団地の一角の、外観からして凝《こ》ったデザインの建物だった。メゾネットというスタイルが互いのプライバシーを守るのに都合良く、また、階段があった方が変化が出ていい、というふたりの意見が一致して、その部屋に決めたことを思い出す。ふたりの収入からローンを払えば持ち家も充分可能だったのだが、子供が出来るまでは身軽に動ける方がいいと賃貸にした。都心から乗り換え無しで通えるのだが、埼玉県と隣り合っていて、周辺を田畑に囲まれ、東京都内という雰囲気に乏しいせいか、家賃は安い。リビングは十五畳あって、南向きで明るい陽射しがふんだんに入る。あらためて腫れたまぶたを無理に開けて眺めてみれば、失業中の身には贅沢《ぜいたく》過ぎる住まいだった。  残暑も日暮れと共に弱まって、リビングのサッシを開けると涼しい風が入り込んで来る。虫の音はうるさいほどで、昼間はまだ蝉も元気に鳴いているから、昼も夜も賑やかなことだ。  それにしても、鍋はまだ少し早い。わかっていてそれでもふたりで火を囲もうとするところに、鮎美の決心が感じられた。 「まだ痛む?」  卓上コンロの火加減を調整しながら、鮎美が心配そうに訊く。 「大したことないよ。斎藤先生の診断通りだった。ちょっとずきずきしてるのは脇腹ぐらいで、後はほとんど、指で押さないと痛くない」 「複数の人に殴られたにしては、軽かったわね、ほんとに」 「警察はゲームだと言ってた」 「ゲーム?」 「うん。ほら、テレビゲーム感覚なんだよ。敵を見つけてバンバン撃ちながら次のステージを目指す。人間を相手にしてるって自覚はないんだね、犯人連中には」 「でもそれならかえって、手加減はしないんじゃない?」 「だから一連の連続集団暴行事件と犯人が同じなんじゃないかって。ほら、最後の被害者は意識不明の重体になっちゃってるだろ。万が一死んだら、ただの暴行事件じゃなくて殺人になる。犯人たちはそれを警戒して、加減したんじゃないかって」 「随分、小ずるいのね」 「何だかな……俺たちには想像出来ないよね、こういうことする奴らの頭ん中って。それにしてもほんと……情けない。そんな馬鹿の標的にされるほど、俺は醜態をさらしてたわけだ」 「仕方ないわよ、泥酔してたんだし……と言いたいとこだけど、泥酔が言い訳になるのって世界中でも日本ぐらいなんですってね。日本は酔っぱらいに甘い社会らしいわ。アメリカ人なんて酔って醜態をさらす人を何より軽蔑するって何かで読んだことがある」  雄大は下を向いた。鮎美の言うことは正しい。日本人には体質的に酒に弱い人間が多いのでそうなったのだろうが、日本では酒の上でのしくじりは大目に見て貰えることが多い。だが外国ではそうはいかない。海外旅行先で泥酔して、寝間着のままホテルをうろうろする日本人男性というのは、ゴキブリより嫌われているのだ。 「ただね、雄ちゃん。確かにお酒の上とは言え今度のことはみっともなかったけど、でも、雄ちゃんがそれだけ追いつめられてたんだってあたし、あらためて身に染みたの」  追いつめられていた、というのとはニュアンスが違う、と雄大は思った。ある意味では、追いつめられていなかったから、いや、追いつめられもしなかったから、わけのわからない虚しさに溺《おぼ》れ込んでこんなていたらくになってしまった、というのが近いのかも。そうした状態が「追いつめられていた」ということなのかも知れないが、少なくとも、世間一般の追いつめられた失業者よりは、格段に甘ったれで馬鹿者であることは間違いないだろう。雄大は下を向いたまま溜息をついた。鮎美はそんな雄大の気持ちを察してかどうか、しばらく黙って鍋の世話に専念した。  飛鳥鍋は、特殊な食べ物だ。和食なのか洋食なのか、その正体がいまひとつはっきりしない。奈良で生まれた料理らしいが、和風|出汁《だし》で白菜や鳥肉などを煮た後で、出汁に牛乳を流し込み、味噌《みそ》をとく。初めて見た時にはゲテモノ系のように思えてなかなか箸を付ける気になれなかったのだが、一口食べてみて驚いた。牛乳の独特な臭いやクセは、和風の出汁と味噌のおかげですっかり洗練され、白菜や鳥肉としっくりなじんでいる。ホワイトシチューやミルクシチューと同じ仲間の料理なのに、後口の良さはしっかり和食なのだ。しかしなぜこの牛乳鍋が「飛鳥鍋」と名付けられているのかそれが長いことわからなかったのだが、どうやら、飛鳥時代に人々はすでに牛乳を飲み、牛乳を煮詰めた「蘇《そ》」や「醍醐《だいご》」などを最上級の食材としてもてはやしていたから、という、何だかよくわからない理由らしい。  ともかく、この鍋料理は雄大の好物だった。新婚の頃には、建て前だけはそれぞれ自分の食事に責任を持つ、というものであったにしても、出来るだけ時間をやりくりして、ふたりで食事を楽しむことが多かった。だが調理の手間をどちらか片方だけが負うのはふたりのポリシーに反したので、必然的に、支度が簡単でふたりで出来る鍋料理が多くなる。飛鳥鍋は草薙家の定番中の定番だったのだ。だがそれも、この数年の間は本当に数えるほどしか食べていない。そもそも、ふたりで夕食を一緒にとること自体、鮎美が言うように久しぶりの出来事になっていた。  土鍋の中ではクリーム色の出汁がうまそうにぐつぐつと音をたてていた。鮎美が菜箸で小皿に中身を取り分け、雄大の前に置いた。 「食欲なくても、少しは食べてね」  鮎美がにっこりした。何となくぎこちなく、悲しそうにすら見える微笑みだった。 「旨《うま》い」  雄大は白菜を口に入れて呟《つぶや》いた。嘘偽りなく、旨かった。 「あたしね」  鮎美も自分の小皿から食べながら、言った。 「恐かったのよ、本当は」 「……恐い?」 「うん。雄ちゃんが会社を辞めた時、円満退職じゃないなってことはわかってた。次の仕事のアテがないことも。でも、辞めないでって言う権利はあたしにはなかった。普通の夫婦なら、どちらが稼いでいるにしたって、会社を辞めて収入がなくなるというのは大変なことよね。夫婦なら、反対する権利は持っているでしょうし、話し合って決めて当然。でもうちは違っていた……あたしたち、お互いに自由にやりたかった。束縛されず、自分の分は自分で稼ぐ。それが結婚前の取り決めだったものね……だけどあたしたち……少し、やり過ぎたような気がする」 「どういう意味だい?」  雄大は面食らった。鮎美に今の自分のだらしなさを責められ、ちゃんと自立してくれないなら結婚生活は続けられない、と宣告されるのを覚悟の上で飛鳥鍋を食べ始めたのに、鮎美が考えていたことは何となく、雄大の考えていたこととはまるっきり違うことらしい。 「何をやり過ぎたのさ」 「うん……あたしたち、新しい形の夫婦像みたいなもの、追い求め過ぎたのかもって。互いに完全に自立して相手に一切頼らない、どちらかが失業したってもう片方の生活に何の変化もない……それって、夫婦って呼べるんだろうかって」 「鮎美、いったい、何を言い出すんだ? そんな話は五年前に結論が出てることじゃないか。君には仕事があって、俺より収入が多かった。そしてそのことを俺は尊重したいと思った。だからお互い、生活費を折半して家事も出来るだけ他人に任せて、好きな仕事をめいっぱいやっていこう、そう決めたんだろう? お互いの自由を尊重して、必要以上に干渉せず、でも必要な時には助け合っていこうって。なのに」 「でも雄ちゃん」  鮎美は雄大の言葉を遮った。 「雄ちゃん、淋しくなかった?」 「え?」 「仕事がなくなったのに、あたし、慰めの言葉ひとつかけてあげていない。生活費だって、仕事がなければ雄ちゃんは払えないのに、貯金を取り崩して払ってくれればいいって顔で。雄ちゃん、自分で気づいてなかったと思うけど、とってもつまらなそうな顔をしてたのよ、ずっと」 「そりゃ当たり前だろう、失業したんだから、つまらなそうな顔してるのなんて……」 「そうじゃなくって」  鮎美は首を横に振った。 「そうじゃない。とってもつまらなそうな顔で、あたしのことちらちらって見ていたの。でもあたしが振り向くと、さっと目をそらして。あたしはあたしで、雄ちゃんと向き合うのが恐かったのよ。何か訊けば雄ちゃんの生活に干渉することになりそうで、雄ちゃんに怒鳴られるかも知れないって。だけど……変よね。そんなの、夫婦って呼べるのかしら。夫婦ってもっと……もっとお互いに絡み合っているもんじゃないのかな……だってね、もしも赤ちゃんが欲しくなったとして、お腹が大きくなってきたら何もかも半分こに分担なんて出来なくなるし、産休は取らないとならないし、産後は産後で、体力が回復するまでは家事の分担だって出来なくなるし」 「なんだ、そういうことか」  雄大は鳥肉の塊を口に押し込み、ぐっと呑み込んだ。 「鮎美、子供が欲しくなった? だったらいいよ、つくろう。大丈夫だ、いくら何だって失業保険が切れるまでには次の仕事、見つかるよ。俺は別に子供、欲しくなかったわけじゃないんだ。ただ鮎美が欲しくなるまでは、鮎美の生活を壊すことになるだろうからって言い出さなかっただけさ。家事の分担だなんて、ケチくさいこと言うなよ。妊娠と出産っていう大事業を分担してくれるんだから、他のことはみんな俺がやるよ。それでいいだろう? そうだ、いっそ家政婦を雇おうよ。そうすれば俺に気兼ねしないで済むだろ」 「違うんだってば!」  鮎美の声が大きくなった。雄大は驚いて瞬きした。 「違うって……何が言いたいんだ? どう違う? 子供が欲しくなったんだろ? まさか鮎美、子供を産みたいから仕事は辞めて専業主婦になりたいの?」  鮎美は、首を激しく横に振った。 「仕事は辞めない。子供も、別に今すぐ欲しいわけじゃない」 「じゃ、どうしたいのさ。鮎美、ちゃんとわかるように言ってくれよ。いったいこのライフスタイルのどこが不満なんだ? 俺が恨みがましい目で君のこと見ていた、それが気に入らないのか? だったら謝るよ。そうだ、確かに俺は、君に対してちょっとひねくれた感情を持った。世間一般の家庭だったら、夫が失業したら家族みんなで真っ青になって大騒ぎだろうに、君は気にも留めてない。それが腹立たしかったことは認めるよ。だけどさ、それはただの、俺の甘えだ。今度のことでよくわかった、骨身に染みたよ。ちゃんと立ち直るよ。酒も控えるし、職安にも通う。知り合いに電話しまくって、土下座してでも仕事を見つける。そしてまた以前のように、互いに自由を尊重しながら楽しく生活出来るようになるよ。それでいいだろう? 別にこの生活は間違ってなんていない。やり過ぎたなんてことはないよ。別居結婚するカップルだってどんどん増えてるんだし、俺たちみたいなのは、理想的なんだ。俺はこの生活を誇りに思ってる。立派な社会人として仕事してる君のことが好きなんだから、俺は。専業主婦なんかになって、毎日愚痴ばっかり言って、近所の奥さんのあら探しに夢中になるようなそんな女に、君にはなってほしくないんだ」 「専業主婦ってそんなに悪いものかしら」  鮎美が、独り言のように言った。 「家事ってきっちり身を入れたらとても大変な仕事でしょう? 今、家政婦さんを一カ月雇ったら、三十万、四十万ってお金をとられるのよ」 「家政婦は立派な仕事だよ。彼女たちはプロだからね。でも世間の奥さん連中は、毎日そんなに身を入れて家事をやってやしないだろう? 君だって言ってたじゃないか、ほら、フレックスの君が遅い時間に部屋を出ると、マンションの前で幼稚園バスに子供たちを送り込んだ奥さん連中と顔を合わせる。そうすると、こんな時間に出勤なんて昼サロにでも勤めてるのかしら、なんて陰口叩かれるって。その程度の連中なんだぜ、専業主婦なんて」 「みんながみんな、そんな人たちばかりじゃないわよ」 「そりゃそうだろうさ、どんな物事にだって、ピンとキリはあるんだ。ご立派で非の打ち所のない奥様だっていらっしゃるさ。だけどどっちが多いか、言うまでもないじゃないか。手抜きをしようと思えば家事なんて、いくらでも手抜きは出来る。暇《ひま》をいくらでも作れるんだよ、主婦なんて。その暇に本でも読むならまだしも、集まって噂話だのテレビの前に陣取ってワイドショー。総理大臣の名前はかろうじて知ってても、文部科学大臣が誰かは知らないんだ、それで平気なんだ、彼女たちは。君はそうなりたいのかい? 仕事は辞めないって言ったくせに、どうしてこんな時に専業主婦の肩を持ったりするんだ? 俺たち、ああいう人種とは一線を画して生きたい、だからこんなライフスタイルを選んだんだろう、そうだろう?」 「あのね」  鮎美は、不思議な目つきで雄大を見ていた。雄大の熱弁など少しも聞いていなかったかのように、それでいて、雄大の言いたいことはすべて理解して、理解した上で、今から否定しようとしているのがはっきりとわかる、そんな目で。 「あのね」  鮎美がもう一度言った。  雄大は黙った。 「あたし、考えたの。ずっと考えて……それで決心したの。だからあなたにお願いします……お願い、あなた、家庭に入ってください。家庭のことを総《すべ》て、雄ちゃんに任せたいの。家政婦を雇うとかそういうのじゃなくって、ふたりの家庭を、あなたに守ってほしいの」 「それって」  雄大の声はかすれていた。 「それってまさか、この俺に……主夫になれって……」 「ええ」  鮎美は頭を下げた。 「お願いします。雄ちゃん、仕事はもう探さないで、家にいてください」  雄大は、このまま倒れそうだ、と思った。 [#改ページ]    承 服 困 難      1  鮎美の考えていることが、雄大にはさっぱりわからなかった。  早く仕事を見つけて働いてくれ、怠けてパチンコばかりされていたのでは鬱陶しい、と言われたのなら充分納得出来るし、その通りなので反論もしない。実際、自分でもいい加減にしないと俺は駄目になるぞ、と恐怖に似た焦りを感じていた時に、天の配剤のようにオヤジ狩りに遭《あ》った。これで目が覚めて、仕事探しに奔走するぞ、と思った矢先に、鮎美から主夫になってくれと頼まれてしまったのだ。  専業主夫。世の中に、様々の事情からそうしたライフスタイルを選択した男が存在することは知っていたし、他人の生活にとやかく口出しする気はなかったので、本人がいいならそれもいいんじゃない、とは思っていた。だが雄大自身がそうした立場になることなど、まったく、一切、想像すらしたことはなかったのだ。大体、どうして男が家事をしてまで「主婦」なんてものが家庭に必要なのかが理解出来なかった。家事なんて、要するに掃除と洗濯と飯の支度だけじゃないか。そんなものをどうして、専任として担当する要員が必要なのだ? 最近の全自動洗濯機の性能というのはものすごく、洗濯物の仕分けすら必要がない。洗う力や洗い方まで洗濯機が勝手に判断してくれる。掃除は面倒と言えば面倒だが、部屋が汚れていたって死ぬわけじゃないんだから、忙しい時はしなければいいのだ。暇な時にやればいい。飯なんて、定食屋なら六百円で何とか食える。子供が大勢いるとか、看護の必要な病人や年寄りと同居しているとか、何か特殊な事情がない限りは、健康でばりばり働ける夫婦のどちらかひとりが家事に専念する必要など、ないじゃないか。  鮎美は何が不満だったのだろう。  失業前の状態に戻りたいというのではなく、わざわざ夫に家庭を守ってくれと言い出したからには、以前の生活に対して不満があったことは確かなのだ。  雄大は、飛鳥鍋を前にして派手な夫婦喧嘩をやらかした翌朝、鮎美が仕事に出てしまってひとりきりになったマンションで、頭を抱えて考えていた。  喧嘩、とは言っても、まくしたてていたのは一方的に雄大の方だった。そうしなければ、頭の中がごちゃごちゃになって、いても立ってもいられないような感じだったのだ。なにしろ鮎美の言いたいことが理解出来ない。彼女がどうしてそんなことを言い出したのか、真意がさっぱり、掴《つか》めない。雄大は、失業してからここ最近のていたらくについて繰り返し謝りながらも、だから勤め口を探すと言っているのに、どうして俺が家で家事をしなくちゃいけないんだ、と再三訊いた。だが鮎美は、その方がいいと思うの、とか、そうしてほしいの、と言うばかりで、筋道の立ったことをひとつも言おうとしないのだ。鮎美が何か、言いたいことが他にあることは察しが付いていた。だがそれが何なのかは想像もつかない。  考えるだけ無駄だという気がした。要するに、鮎美はストレスを溜《た》めているのだ。働かない男が家の中にごろごろしていることに対して、やり場のないいらだちをおぼえている。経済的にすぐ困ることはないとしても、世間体だって悪いし、自分ばかりが大変な思いをしている、という不公平感だってつのらせているだろう。それで、それなら家の中のことぐらい全部やってくれ、という意思表示をしたのだ。それ以外には考えられない。  雄大はひとまず仮の結論を出すと、ともかくそれなら、と、立ち上がった。仕事を見つけなくては。何としてでも。  職安が頼りにならないことは、最初の一カ月で身に染みた。ノートパソコンをたちあげ、住所録を呼び出す。それを膝の上に置いて居間の電話機の前に陣取った。友人知人、取引先で親しかった人間。コネが使えそうなところならどこでも、ともかく当たってみるしかなかった。  午前中いっぱい電話をかけまくって、あてに出来る可能性が高い知人のストックはすっかりなくなったが、就職のことで相談に乗って貰う約束を取り付けられたのはわずかに三人、その内の二人については向こうからの連絡待ちということになったので、実質、期待していいのは一人だけしかいなかった。電話を掛けた相手のほとんどは職場にいたのだが、あからさまに迷惑だという口振りこそ示さなかったものの、雄大が会社を辞めて休職中だと言うと、途端に声のトーンが下がった。職探しの電話だということがわかってしまえば、景気のいい声など出してはいられないのだ。みな、雄大を気の毒だと思う気持ちに嘘はないとしても、だからと言ってどうにもならないわけだった。  それでもやっと一人とだけアポイントメントが取れて、ともかく雄大はパソコンを膝からおろして一息ついた。相手は大学時代の先輩だったが、銀行に勤めていて中小企業向けの貸し付け業務を担当している。それだけに付き合いのある会社は多いようで、ともかく明日、時間を作って会ってくれるという。  雄大は時計を見て、もう午後一時に近いことを発見した。それに朝食もとっていなかった。コンビニでパンでも買うことにした。  殴られた痕は、一晩で随分おとなしい感じにはなったが、痣の色が濃くなったので、前よりもずっと無気味だった。雄大はサングラスをかけ、帽子をまぶかに被った。かなり怪しいスタイルだったが仕方がない。噂好きの近所の主婦連中に、痣だらけの顔をじろじろ見られるよりはましだろう。  部屋から出てエレベーターを待っていると、二軒隣の部屋のドアが開いて、顔見知りの主婦が現れた。伏見《ふしみ》、という家の奥さんだ。鮎美より少し年下ぐらいだろうか、いつもブラウスにスカートといった地味なかっこうで、それでも薄化粧をきちんとしているような女性だった。子供はいないらしいと鮎美に聞いた覚えがあったが、あまり興味がなかったので正確なことはわからない。  伏見夫人は、雄大に気づいて軽く会釈した。 「こんにちは。一昨日の晩は大変でしたね」  雄大はぎょっとした。もうマンション中に知れ渡っているのか、オヤジ狩りのことが…… 「あ、ええ、まあ」  エレベーターのドアが開いた。先に乗り込んだ雄大が礼儀からドアを押さえてやると、伏見夫人はまた頭を下げた。 「お怪我の方はもう、よろしいんですの?」 「大したことはなかったんです」 「そうですか……それにしても、本当に物騒だわ。主人にも、バスのない時間に着いたらタクシーを使って貰うことにしたんです。もったいないと言って、歩いて戻るんですけど」 「犯人が捕まるまでは、その方がいいかも知れませんね」 「いったいどんな人たちがやってることなのかしら。最近の犯罪って、ほんとにわけがわかりませんね」 「ほんとに」  エレベーターが一階に着いたので、雄大はホッとした。伏見夫人の声は上品で、聞いていて別に気に障《さわ》るということはなかったのだが、事件のことを蒸し返されるのは神経にこたえる。 「会社はお休みになられていらっしゃいますの?」  見かけによらず、伏見夫人は詮索好きのようだ。 「あ……その、いえ。実は最近、転職しまして」  嘘をついたところで、噂にはかなわないだろう。雄大は言葉を選びながら嘘にならないことだけ言った。 「次の会社に出社する日まで少し、時間があるものですから」 「有給休暇が残ってらっしゃったんですね。それで最近お姿をよくお見かけしたんですのね」  伏見夫人は懐かしそうに頷いた。 「わたしも会社を辞めた時、残った有給休暇を月末までとったんです。それで、生まれてはじめて海外旅行をしましたわ」 「どちらへご旅行に?」  会話を発展させる意図などはまるでなかったのだが、伏見夫人がそう訊かれたがっていることは明らかだったので、雄大はつい、そう訊いてしまった。 「ハワイへ参りましたの」  伏見夫人は嬉しそうに、だが少し恥ずかしそうに言った。 「月並みなんですけど。でも会社でも同僚の女の子はみんな行ったことがあったのに、わたしだけなかったんです。それでどうしても行ってみたくて」 「ご結婚が決まった時ですか」 「ええ」  伏見夫人は遠くを見る目つきをした。 「独身最後の夏でした……もう、八年も前のことになるのね。早いものね」  マンションの玄関前には幸い、幼稚園バスのお迎え組の姿がなかった。雄大は、そこで当然駅の方向へ行くだろう伏見夫人と離れられると思ったのだが、意外なことに伏見夫人は雄大と同じ方向に歩き出した。その時雄大はやっと気づいた。伏見夫人はサンダル履きなのだ。彼女の目的地も、徒歩三分のところにあるコンビニだ。  雄大は諦《あきら》めて、伏見夫人と並んでコンビニに向かった。彼女の方は雄大がコンビニを目指していることにとっくに気づいていたようで、どこに行くのかと尋ねもしない。  昼休みは終わった時間だったが、もともとこの辺りには会社や商店は少ないので、昼だからといってレジが混んでどうしようもない、ということはない。近所の主婦やら、どうしてこんな時間にここにいるのだ、と問いつめたくなるような、明らかに授業をさぼったらしい高校生のグループが店内にいた。  伏見夫人は迷わずに冷蔵品の棚に向かい、粉チーズをカゴに入れる。雄大はおにぎりや弁当が置かれた棚の前でしばし考え込んだ。昨夜は結局、口論ばかりしていてろくに食べなかったし、今朝も抜いていたから空腹感はあるのだが、どうも、何を食べてもまずそうに思えてしまうのだ。 「あの、草薙さん」  不意に伏見夫人が雄大の肩越しに声を掛けた。 「もしかしたらこれから、お昼ですの?」 「ええ、まあ。いろいろ並んでいるんで迷いますね」 「もしよろしかったら、うちでお昼、召し上がりません?」  雄大は驚いてからだごと振り返った。伏見夫人は躊躇《ためら》いも屈託もない。 「わたしもさっき、自分用にナポリタンを作ったところだったんですけど、粉チーズを切らしていることに気づいて買いに出たんですのよ。ナポリタン、お嫌いかしら」 「いや、そんなことは」 「残り物を処分しただけなんですけど、作る時は二、三人分作ることにしているんです。そうして冷凍しておけば、またお昼に食べるのに便利でしょ。ソースは出来てますけど、戻ってからスパゲティをゆでるので十分ほどお待ちいただくことになりますが、それでよろしかったら」 「でも……ご迷惑では」 「あら、どうして?」  伏見夫人は、クスッと笑った。 「たまにはよろしいじゃありません? お隣みたいなものなのに、これまでうちにお招きしたこともありませんでしたし、この機会に。それとも、そういうことすると奥様に叱られます?」  雄大は、それまで伏見夫人に対して抱いていたイメージを大幅に訂正した。楚々《そそ》として地味な人妻、だと思っていたのだが、どうやらかなり大胆な性格のようだ。それにいたずら好きでもあるらしい。 「ね、そうしましょうよ。わたしもひとりで食事するよりお客様があった方が楽しいし」  雄大が逃げ出す口実を思いつかない内に、伏見夫人はすべてを取り決めて、デザート用にシャーベットの半パイントカップと、雄大の為にとペリエをカゴに追加して、会計を済ませてしまった。雄大は必死に伏見夫人を説得したが、彼女は金を受け取ろうとしない。雄大は諦め、後で何か謝礼の品を届けることに決めた。  コンビニの袋を持つことだけは何とかやらせて貰えたが、二人並んでマンションのエレベーターに乗るのはかなり恥ずかしかった。他の住人に見られたら、どんな噂のネタにされるのだろう。まあどんな噂をされたところで、失業してアル中、パチンコ狂いしたあげくにオヤジ狩りにリンチされた、という「真実」よりはましなのだから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだが。  伏見家は、間取りは雄大のところと同じだったが、部屋の印象がまるで違っていた。家というのは住む人間の好みによってこうも変わるものなのか、とあらためて驚く。鮎美は仕事をばりばりこなすいわゆるキャリアウーマン型の女なのだが、その実はキャラクターものだとかバービー人形だとかが大好きで、流行のものはいちおう何でも手に取ってみるタイプだ。目下のところはポストペットのキャラクターであるピンクの熊に凝っていて、玄関の靴箱の上に貼り付けられた鏡の隅にもピンク色の熊のシールが貼ってある。玄関に鏡を置いているのは、狭い玄関を広く見せる為の月並みな工夫ではなく、鮎美が外出前の最後の点検をするのに便利だからである。鮎美は芸能系の月刊誌の記者で、始終人と会っているのだ。  伏見家の玄関はしっとりと落ち着いた雰囲気があって、インテリア雑誌の写真に使われそうな感じだった。と言っても狭いことは狭いので、雑誌に使われるとしたら読者の投稿コーナーだろう。靴箱はあったが、草薙家の玄関に置かれているようなシンプルなスチールの棚ではなかった。木製のどっしりした物で、狭い玄関がよけい狭く見えるような暗い色だが、全体ではなく靴箱だけ見つめていれば、その上に置かれたフラワーアレンジメントと共に、優雅な雰囲気にひたることが出来る。  玄関から続く廊下はさすがに草薙家と同じ印象だったが、正面のドアを開けてリビングに入ると、また驚いた。草薙家の場合には、大きなソファがでんと置かれていて、そこに寝転がって昼寝でもカウチポテトでも好きなことが出来るようになっているのだが、伏見家の場合には、十畳ほどのリビングの真ん中に大きなダイニングテーブルを置き、その周囲に椅子が整然と並べられているのだ。テレビを見る時もくつろぐ時も、伏見家では背筋を伸ばして座っているのである。確かに、狭いLDにソファと小さなダイニングセットの両方が置いてある自分の家と比べると、ずっとすっきりして洗練された印象があるが、疲れて仕事から戻った伏見家の主人は、背中も足も投げ出す為には寝室にこもらなくてはならないのだな、と思うと、ちょっと同情した。もっとも、LDの脇には和室があるから、まあそちらで横になればいいだけのことかも知れないが。だがどうも、この伏見家のインテリア感覚からして、和室の方も、だらしなく下着姿になって横になることが簡単にゆるされる雰囲気ではないだろうな、と想像出来た。和室に通じる襖《ふすま》はしっかり閉められていて、中は覗けない。  部屋の中はびっくりするほど綺麗《きれい》に片づいていた。雄大が客として来ることがあらかじめわかっていたわけはないのだから、普段からこの家ではこうなのだろう。伏見夫人はもしかしたら、いわゆる潔癖症なのかも知れない。きっと、椅子に座る前に洗面所で手を洗ってこいと言われるのだろう。  と思って身構えていたのだが、彼女は何も要求しなかった。雄大は何となく手近の椅子に座った。 「スパゲティをゆであげる間、これでもつまんでいてくださいな」  伏見夫人が白い小皿にきゅうりのピクルスを盛って出してくれた。信じられないほど小さなきゅうりだ。間引きしたきゅうりで作るのだろうか。 「おビールになさる? それとも、白ワインか何か?」 「い、いえ」雄大は慌てて言った。「さっきのペリエをいただきます」 「あら、遠慮なさらなくても」 「いやその、あの、まだ傷が……」 「まあ、そうでしたわね」  伏見夫人は一瞬だけ同情する顔つきになってから、陽気に言った。 「でも本当に、大したことがなくて良かったですわね。不幸中の幸いね」 「まったくです。運が良かったんだと思います。犯人たちにも、殺意まではなかったみたいで」 「やっぱり遊び感覚なんでしょうねえ」  氷の入れられたグラスとペリエが出てきて、雄大はホッとして冷たいペリエをぐっと飲んだ。伏見夫人のペースに巻き込まれてからずっと、喉が異様に渇いていたのだ。  キッチンから熱気が漂ってくる。スパゲティが鍋に入れられたらしい。 「犯人は子供かしらね」 「子供、ですか」 「中学生よ、中学生。前にもあったじゃないですか、路上生活の人を中学生が襲った事件。草薙さん、犯人の姿はご覧になったんでしょう」  伏見夫人による昼食御招待の魂胆はこれか。雄大は覚悟を決めた。慎重に答えないと、とんでもない噂がマンション中に広まるかも知れないぞ。 「犯人の顔は見てないんですよ。いきなり後ろから殴られて、昏倒したところを次々やられたみたいで、頭を庇《かば》うのに必死でしたから」  完全に嘘というわけではないだろう。酔っぱらってぐでんぐでんでも、頭を庇ったからこそこの程度の怪我で済んだのだから。 「そうでしたの。不意打ちだったのね。じゃあ、連続犯の仕業かどうかわからないわねぇ。このところ続いている暴行事件だと、犯人はゴムのお面を被っているんでしょう」 「そうらしいですね」 「その上、一言も言葉を発しないんですってね。随分悪賢いわ。声が聞こえないと、年齢がわかりませんものね。でもね、だからこそわたし、中学生の犯行じゃないかって気がしますの。中学生だとほら、声変わりして間もないから、声がガラガラかすれていたり変に低かったり、ともかく大人の男の声とは区別出来るじゃありませんか。だから、ね」 「しかし中学生の場合、愉快犯というか、自己顕示欲とゲーム感覚とが合体してそういうことをするんでしょうから、自分たちの犯行だとある程度わからないと面白くないんじゃないかな。少なくとも、中学生の犯行だと世間がわかって驚くのは見たいんじゃないかと」 「最近の子は、もっと狡《ずる》いのよ。それに気が小さいわ。だから捕まって少年院に行くのは恐いのよ。昔はね、大人に対して反抗心をいちばん強く抱くのって、十代の終わり、高校生の頃だったわよね。でもきっと今の子はませてるから、その年齢が下がってしまったのよ。いずれにしても、ほんと、嫌だわ。子供を持つのも考えものよね。うちも欲しいとは思っているんだけど……草薙さんのところは、お子さんはどうなさるおつもり?」  どうするのか、と訊かれても、こればっかりは自分ひとりで決められることではない。 「あってもいいとは思っているんですが……妻もフルタイムで働いていますから」 「雑誌の記者さんですってねえ。どんな雑誌なんですの」 「今は、『楽園時代』にいます」  伏見夫人の目が輝いた。 「まあ! あれ、わたし、ほとんど毎月買っていますのよ!」 『楽園時代』は芸能系月刊誌だが、いわゆる芸能界ネタ、スターの恋愛問題やスキャンダル記事は少なく、歌舞伎や能、狂言、クラシックバレエ、劇団の芝居やミュージカルなどの、本来の意味での「芸能界」にスポットを当てている点が新しい感覚の雑誌といわれるゆえんになっていて、固定ファンは多い。しかし昨今の雑誌受難時代にあっては売れ行きの方は今ひとつで、低迷している。それでも、伏見夫人の「毎月買っている」は決してお世辞やお愛想ではないことがわかった。彼女の熱心さがさっきまでとは断然、違うのだ。スパゲティのことを忘れていないか心配になるほど真剣な眼差しで雄大を見ながら、鮎美の仕事について矢継ぎ早に質問してくる。だが雄大は実のところ、鮎美がどんな仕事をしているのかよく知らなかった。仕事のことで相談されたこともないし、仮に相談されていたとしても、畑違いの雄大には適切なアドバイスなど出来なかっただろう。愚痴の聞き役に回ることはあったが、鮎美は具体的な内容まで突っ込んで愚痴をこぼすこともほとんどなかった。その点では雄大もまったく同じで、鮎美に自分の仕事について詳しく話してやったという記憶はない。 「あ、いけない!」  伏見夫人がようやくスパゲティのことを思い出してくれて雄大は安心した。キッチンからは、スパゲティが笊《ざる》にゆであげられた白い蒸気がもわっと漂ってきて、雄大の腹の虫がぐうと鳴いた。 「お待たせしました」  伏見夫人は、自家製ナポリタンソースであえたゆでたてのスパゲティを二皿、盆に載せて戻ってきた。 「どうぞ召し上がれ」  味は素晴らしかった。最近は喫茶店のメニューにも、あの真っ赤な「ナポリタン」は見かけなくなってしまったが、トマトソースと野菜でつくった自家製ナポリタンは、甘ったるいケチャップの味などしない、ちゃんとしたイタリア料理だった。これで残り物の整理だというのが、ちょっと信じられない。 「でも、本当にうらやましいわ」  伏見夫人は、上品にフォークにまきとったスパゲティを器用に口に押し込みながら、溜息をついた。 「わたし、寿退社なんてして損したなあって、最近よく、思うんですよ。これでもね、わたし、テレビ局に勤めていて」 「へえ」雄大は思わず声を出した。「そうなんですか」 「意外でしょう」  伏見夫人は照れたように微笑んだ。 「地方のローカル局だったんですけどね……いちおう、アナウンサーとして入社して、天気予報だとか地元の行事の案内だとかで、画面にも少しだけ出たことはあったんです」  雄大はあらためて伏見夫人の顔かたちを見た。確かに、薄化粧のせいで地味な感じには見えるが、整った綺麗な顔をしている。これできちんと化粧してテレビ画面に映してみたら、なかなかいい女だろう。 「でも入社して三年目に、主人と出逢って。主人が東京に転勤が決まった時、それなら結婚しましょうってことになってしまったの……もし結婚せずにあのまま勤めていたとしたら、わたしの人生はどんなふうに変わっていたのかしらって、最近よく考えてみるんです。草薙さんの奥様みたいにキャリアウーマンと呼ばれて、外に出てばりばり働く人生……隣の芝生は青く見えるだけのことで、きっと、そんなに簡単なものではないんでしょうけれど。第一、あのまま局に残っていたら今頃はアナウンス部のお局《つぼね》様になっちゃって、みんなに煙たがられていたんでしょうしねぇ。やっぱり若くて綺麗じゃないと、テレビは無理ですものね」 「いや、まだ充分お」  綺麗ですよ、と言いかけて、雄大は危うくやめた。この展開ではまるで、不倫男が人妻を口説くの図、じゃないか。 「……その、いや……共稼ぎというのはどうしても家のことが二の次になりますからね。うちなんてとても、こんなに綺麗にしてはおけないです」 「つまらないものですよ」  伏見夫人は、フォークを持ったままで大きな溜息をもうひとつついた。 「いくら朝から頑張って家中を磨きたてたところで、誰が褒《ほ》めてくれるわけでもなし。主人は毎晩帰りが午前様でしょう、最近では、起きて待ってられると気がせいていけないから、先に寝てくれって言われてしまって。晩御飯だって、せっかく作っておいても、食べてきたからって朝まで手つかずで置きっぱなし。せめて冷蔵庫に戻しておくぐらいのこと、してくれてもいいと思いません?」  伏見夫人は、夫についての愚痴をこぼし始めると止まらなくなるタチらしい。 「毎朝だけですもの、顔を合わせるのって。日曜日は接待ゴルフだし。今時珍しいですわよね、毎週日曜ごとに接待ゴルフだなんて。バブルの頃ならいざ知らず。主人の会社は考え方が古いんです。最近では経費節約の為に残業は出来るだけしないようにって指導してる会社が多いと聞きますけど、主人のところは毎晩残業ですもの。出張も多いし」  伏見夫人はフォークを宙に浮かせたままで、考え込んでしまった。 「そういう会社だってありますよ。わたしが勤めていたところも残業は毎日でしたよ」  雄大は慰めるつもりで言ってみた。だが伏見夫人は、何か自分だけの考えに囚われているかのようで、雄大の言葉を聞いていなかった。仕方なく、雄大はナポリタンを食べることに専念した。食べ終わったらさっさと退散しよう。 「ご馳走さまでした」 「あら」  伏見夫人は、空になった皿を見てにっこりした。 「お口に合いました?」 「すごくおいしかったです」  お世辞ではなかった。伏見夫人の料理の腕前は大したものだ。 「良かったわ、そう言っていただけて。じゃ、デザートにしましょうね。お紅茶とコーヒーと、どちらがよろしいかしら」 「いや、その」  雄大は立ち上がり、空の皿とコップを手に持った。 「実は午後からちょっと約束が。あのこれ、流しでいいですか」 「いやだわ、そんなことなさらないで」  伏見夫人は雄大の手から皿をもぎ取った。 「デザートを召し上がる時間もありませんの?」 「申し訳ないんですが」  伏見夫人は残念そうな顔になったが、雄大は深々と頭を下げて玄関に向かった。 「後かたづけもお手伝いしないで」 「男性がそんなこと、気にするものじゃありませんわ」  伏見夫人の言葉は別段皮肉ではないのだろうが、雄大にはひどく耳触りが悪かった。彼女と鮎美とは少なくとも、男性観が合致することはないかも知れない。 「またあらためてお礼します」 「だから」伏見夫人はちょっと睨《にら》む真似をして笑った。「そんなことおっしゃらないでくださいな。ひとりで食事するのって本当につまらないものですもの、来ていただけて楽しかったのよ。料理をおいしいと褒められたのも本当に久しぶりなの。うちの主人なんて、最近、わたしが作る食べ物にまるで興味ないみたいですもの」  信じられないな、と雄大は思う。あれだけの腕前で。伏見家の旦那は味音痴なんだろうか。  雄大はもう一度礼を言ってドアの外に出た。  廊下で誰かに見られはしないか警戒しながら数歩歩いて自分の家のドアを開けた時、ようやく力が抜けた。自分にはとてもじゃないが、同じマンションの人妻と不倫などは出来そうにないな、と雄大は思った。      2  長い午後になった。  伏見夫人のナポリタンのおかげで腹は満たされていたが、十数本も立て続けにかけた電話のせいで、気持ちはすっかり滅入ってしまった。すでにあてに出来そうな知人への電話はほとんどかけ尽くしていたので、午後は昔の知り合いだとか親戚筋、大学の先輩などへの電話になったのだが、つかまらなかった人も多いし、運良くつかまえることが出来ても、失業していることを話すといついつに会おうとは言ってくれない。今は忙しいのでその内にぜひ、飲みましょう、で終わってしまうのだ。  バブル経済が崩壊して不況という言葉が耳慣れた言葉になってからすでに十年近い時間が経ち、最近では一部の業種が不況を脱して上向きに転じているという話も聞くようになった。だが、こと就職という問題に関しては、トンネルの出口はまだだいぶ先にある。そのことは会社を辞める前にも頭ではわかっていたつもりだったが、やはり自分はどこかで甘い夢を見ていたのだな、と雄大は思い知った。精密機器のメーカーで販売企画の仕事をして十年。雄大が手掛けた業界キャンペーンは数多く、広告代理店とチームを組んで行なったシリーズ広告で、通産省関連の賞を受けたこともある。自分でも、自分が無能な社員だと思ったことはなかったし、ボーナスの査定などでも社内でそれなりに評価されていることは客観的に確認出来ていた。仕事の出来る男の範疇《はんちゆう》に自分が入っていることは確かだと信じていたのだ。それが総て自惚《うぬぼ》れだったわけではないだろう。だがどこかの会社の中である程度仕事が出来た、というだけでは、他の会社に期待を持って迎えられるには不十分だった。それが雄大の大きな計算違いだった。  しかし、今さら会社を辞めたことを悔《く》やんでもどうしようもないし、あの状況では辞めなくても地獄を見ることは明らかだったのだから、いずれ同じ境遇になっていたに違いないのだ。  明日、残っている考えつく限りの知り合いに連絡を付けてだめだったら、また職安通いだ。雄大は情けない思いで受話器をおいた。  それにしても。  雄大はソファにひっくり返った。  やっぱり、主婦なんて面白くない仕事らしいな。  伏見夫人の端正な顔が思い出される。その昔は、ローカル局とはいえ、テレビ画面で天気予報をやっていた女性。訊かなかったが、大学もそこそこのところを出ているだろうし、成績だって良かったはずだ。テレビ局なんてエリートじゃないか。今だってまだまだ充分、見栄えのする顔をしているし、頭の回転も速そうだ。すっきりと片づいた家の中といい、残り物であれだけの料理を作る手際といい、頭が良くて創意工夫も出来るタイプの人間なのは間違いない。それなのに彼女は、あの部屋の中でくすぶったまま、毎日を退屈に過ごしている。旨いものを作っても一言の褒め言葉も貰えず、家中をぴかぴかに磨きたてても、気にしても貰えずに。  そういうものなのだ、専業主婦なんて。だのに、鮎美はどうして俺に、そんなものになってくれなどと言い出したのだろう?  承服出来るわけがない。たとえ望み通りの仕事が見つからなくても、俺は絶対に、家の中にいて伏見夫人のような生活をおくるのはまっぴらだ。そんなことをするくらいなら、肉体労働でも歩合制の飛び込み営業でも、覚悟さえ決めたらどこかに仕事はあるはずだ。何と言ってもまだ三十三歳、すこぶる健康だし、体力には自信があるんだから。  呼び鈴が鳴った。また警察かな。雄大は憂鬱になりながら玄関に向かった。 「こんにちは」  誰何《すいか》に答えた声が柔らかな女性のものだったので、雄大はどぎまぎした。 「鳴尾《なるお》です」  鳴尾……鳴尾って誰だったっけ? あ、確か、自治会の会計をやってるあの…… 「ちょっとお待ちください」  慌ててドアを開けると、鳴尾夫人がにこやかに微笑みながら立っていた。 「あの、すみません、何か払い忘れてるものがありましたか」  雄大があまり焦って訊いたからか、鳴尾夫人はケラケラと陽気に笑った。 「ごめんなさい、違うんですの。会計のことで伺ったのではないんですのよ」 「はあ」 「あの、奥様は、まだ?」 「あ、はい、家内はたぶん、九時を過ぎると思いますが」 「あらそうですの。いえね……まあよろしいわね、ご主人様から奥様に伝えていただければ。あのこれ、ちょっとご覧になっていただけません?」  鳴尾夫人は手に一抱えのパンフレットのようなものを持っていて、玄関先に立ったまま雄大にそれを手渡そうとした。 「あ、良かったらどうぞ、中へ。散らかってますが」  本当に散らかっているのでかなり気が引けたが、玄関先で長話をされるよりはましだ。 「いいえいいえ、ここでいいんですの。すぐ済みますし」 「いや、あの、それじゃともかく中へどうぞ。ドアを閉めます」  鳴尾夫人は雄大に言われてやっと玄関の内側に入り、雄大はドアを閉めることが出来た。どうしようかと迷っている内に鳴尾夫人は、慣れた調子でしゃがみ込み、廊下に腰掛けてしまった。からだを半分ひねるようにしてパンフレットを広げる。雄大も仕方なく膝をついて廊下に座った。 「これね、無農薬有機栽培野菜と自然食品の共同購入のご案内なんですの」 「……はあ」 「実はこれまで、わたしたち数名が団地の中にある購入グループに入れて貰って、ここの品物を買っていたんですけどね、配達が団地のいちばん奥の方で、週に一回、そこまで品物を取りに行くのがとっても大変でしたのよ」  雄大は頷いた。このマンションは緑が丘団地の中ではいちばん駅に近いところに建てられているが、民間のマンションなので、正確に言えば団地の一部ではない。道路一本隔てて団地の敷地外にあるのだ。住宅公団と都営団地の建物は、共に数棟ずつ、道路の向こう側の広大な敷地に並んでいる。その敷地の中央辺りに、団地の住民が好きに使える屋根のついた広場のような建物があり、生協の共同購入やラジオ体操、夏の子供祭りなどはみなそこで行なわれている。鳴尾夫人が言っているのはその広場のことだろう。確かに、あそこまで品物を取りに行って持ち帰るとすれば、けっこう大変だった。 「それでね、何とかうちのマンションだけ配達を別にして貰えないかと業者に頼んでみたんです。そしたら、参加者が十軒以上なら一グループとして登録出来るので、無料で配達してもらえるそうなんです。そうでなければ個別配達料として、一回につき各人二百円かかると言われてしまったんですの。たった二百円でも、毎週のことでしょう、月に八百円ですものねえ。何とか十軒参加者を募《つの》ってみようってことになりましたの。とりあえず今、わたしたちだけで六軒なので、あと四軒なんですけど」 「あのつまり、うちにもこれに参加してほしいと?」 「だめかしら」  鳴尾夫人は哀願するような顔になった。 「奥様に訊いてみていただけません? ほら、お野菜はみんな完全無農薬有機栽培で安心して食べられますしね、その他にも、添加物の入っていない調味料とかお菓子もあるでしょう、卵も自然農園の平飼いだし、牛乳とかお豆腐も……」  鳴尾夫人がパンフレットをいちいち指さして説明する間、雄大は呆気に取られてそれを見ていた。説明される事柄はみな、新聞などで読んだことがありそうなことばかりなのだが、あらためて単語を耳にしてみるとよくわからない言葉が多い。鳴尾夫人はすらすらと、添加物とその毒性の研究についてだとか、発癌性物質の名前だとかを並べ立てている。確かこの人も専業主婦だったはずだが、結婚前はどこかの研究所にでもいたのだろうか? 「ね、おわかりになりましたでしょう」 「は、はあ」 「ぜひ奥様にお話しいただいて、参加していただきたいんですのよ。何しろねえ、駅前のスーパーで買うのと比べると、すこぉしお値段が高いでしょう。それだって月にして三千円も違わないとは思うんですけど、誰も彼もに薦《すす》めるというわけにはいかなくて」  鳴尾夫人は、困ったような笑顔になった。要するに、ある程度生活水準の高そうな家でないと、ほいほい参加してはくれないだろう、ということらしい。草薙家は子供のいない共稼ぎなので狙われたわけだ。 「ともかく、奥様によくご説明いただいて、前向きに検討していただけると嬉しいですわ」  鳴尾夫人の口調は政治家の答弁みたいだ、と思った途端、鳴尾夫人にそっくりの女性政治家がいたことを思い出した。元宝塚出身女優で今は何とかいう政党の党首をやっている、その昔は相当の美女だった、あの女性。してみると、鳴尾夫人も二十年前は目も眩《くら》むような美女だった可能性があるわけか。歳月とはやはり恐ろしいものだなあ……と雄大がぼんやり考えている間に、鳴尾夫人は立ち上がってしげしげと雄大を見ていた。 「あの……妻には戻ったら必ず伝えますが……その、何か?」 「あらいえ」  鳴尾夫人は、自分が他人の亭主の顔を穴が開くほど眺めていたことに気づいて恥ずかしそうに笑った。 「ごめんなさい……でも本当に、お怪我が軽くて良かったですわねぇ」  そう言われてやっと雄大は、自分の顔がどんな有り様だったのかを思い出した。昼間コンビニまで出掛けようと決心した時にはサングラスに帽子で怪しい男さながらの変装までして隠していたのに、伏見夫人に昼食に招待され、ナポリタンを食べるのにサングラスをはずした途端、顔のことを忘れてしまっていたのだ。  鳴尾夫人は愛想笑いしながらドアから出て行った。彼女の姿が消えてようやく雄大は、彼女がただ単に無農薬野菜の共同購入の話だけをしに来たわけではない、ということに思い当たった。鮎美が夜遅くまで戻らないことぐらいは、このマンションの奥様連中ならばとっくに情報として仕入れてあるに違いない。それなのにわざわざ、夕方に訪ねて来たということはつまり、彼女は鮎美にではなく、俺に会いたかった、ということなのだ。俺の顔が見たかったのだ……オヤジ狩りの被害者になって、ぼこぼこに殴られた俺の顔が。  雄大は憮然《ぶぜん》とした。まったく主婦って奴らはどいつもこいつも、詮索好きでミーハーだ!  雄大は共同購入のパンフレットを掴んで居間に戻り、テーブルの上にパンフレットを放り出した。その時、人参とじゃがいもの写真が目に入った。カレーが食いたい。  何かを食べたい、という衝動というのは、抑えるのが難しいものだ。一度食べたいものを思い浮かべてしまうと、その味までもが頭の中に形づくられてしまい、そのことばかり考えてしまうことになる。飯でも炊《た》いて、レトルトのカレーでも買ってこようか。  雄大は立ち上がり、キッチンに入ってみた。レトルトカレーの買い置きはなかったかな? 食料品のストック棚を開けると、レトルトではない、カレールーの買い置きが目に付いた。何の気なしに手に取ってみる。箱の裏に、カレーの作り方が書いてある。  食事のほとんどを外食で済ましてしまう雄大も、結婚するまでは学生の頃からアパートでひとり暮らしだったので、カレーぐらいは作った経験があった。冷蔵庫を開けると、野菜室に人参が見えた。流しの下の根菜ストッカーの中には、玉葱もじゃがいももちゃんとあった。ふと思い返してみれば、鮎美はあんなに忙しく働いているのにけっこう家で食事を作っている。昨日だって……そうだ、昨日の飛鳥鍋。せっかく鮎美が用意してくれたのに……  いっちょ、作ってみるか。  雄大は、冷凍庫を開けて具に出来そうな肉を探した。かちんかちんに凍ったステーキ肉が一枚、入っていた。いったいいつの肉だろう? ま、焼いたら大丈夫だろう。  ステーキ肉を電子レンジで解凍し、ルーの箱に書いてある通りに、肉を油で炒めて取り出し、玉葱と人参も炒めてからまた肉を戻す。水を入れて煮込む。じゃがいもをいつ入れたらいいのかわからず、考える。考えてもわかるはずはないので、適当に切って放り込んだ。鍋に蓋《ふた》をしてソファに戻る。  だが気になる。鍋が気になって、開いた本の中身がまるで頭に入らない。あ、そうだ、飯を炊かなくちゃ。  米をといだところで、水加減がわからないことに気づく。掌を米の上に置いて、手首の骨のとこまでだったっけ? 何だか随分、多いなあ。まあ何とかなるだろう、マイコン付いてんだから、この炊飯器。  鍋の前でじっとしているのも馬鹿みたいだ。雄大はまた居間に戻った。ベランダに、今朝鮎美が干した洗濯物がひらひらしているのが見えた。もう乾いてるよな。ベランダに出て洗濯物を取り込む。どこに置いたらいいのかわからないので、ソファの上に積んだ。  そうだ夕刊。雄大は鍋の火加減を弱めてから、サンダル履きで外に出た。朝刊は各家の新聞受けに差し込んでくれるのだが、夕刊は玄関ホールの郵便受けにしか入れてくれない。エレベーターで往復して夕刊を持ち帰ると、また鍋を見た。何だか、料理ってやつは落ち着かなくて困る。夕刊を隅から隅まで読み尽くしたところで、鍋の蓋を開けてみた。じゃがいもが崩れかけている。慌ててルーを入れた。火を弱めて煮込むこと十分。炊飯器が飯が炊けたぞとブザーで知らせてくれたのと同時に、焦げ臭い匂いが漂ってきた。火を止めて、鍋をかき回してみて驚いた。底が焦げついてら。しかしまあ、上の方は問題なさそうだ。  ビールをコップに注ぎ、テレビのニュースを見ながら待った。鮎美が早く帰るかどうかなどわからないのに、どうして待っているのだろう、と雄大は自分で自分が不思議だった。だがなぜか、ひとりでカレーを食べる気がしない。ひとりの晩飯など慣れ切っていて、むしろ鮎美と二人で食べることの方が珍しいくらいだというのに、今さらどうしたんだ、俺は。  九時まで、ぼんやりとテレビを眺めていた。腹が減って派手な音をたて始めたので、ようやく雄大は起き上がった。冷めたカレーに少し火をいれてあたため、飯を皿に盛る。  じゃがいもはすっかり煮崩れて姿を消し、カレーソース全体が焦げ臭い。肉だけはステーキ肉なのでまずくはないが、煮込んでしまったのでせっかくの霜降りもかすかすだった。飯はゆるゆるで、おかゆの一歩手前だ。  それでも、旨いと思わないのは味のせいではない、と雄大は考えていた。伏見夫人の愚痴が耳に甦る。買って来た弁当ならひとりで食べても平気なのだ。だが、誰かの為に作った料理は、ひとりで食べるとすごくさびしい。  食器を片づけ、シャワーを浴びてベッドに潜り込んだ。明日は仕事が見つかるんだろうか。もし見つからなかったらどうしたらいいんだろう。  考え込んでいる内にうとうとした。物音で目が覚め、鮎美が帰って来たことがわかった。時計を見ると、十一時過ぎだった。鮎美にしては早い帰宅だ。そうだ、鳴尾夫人から預かったパンフレットの説明をしなくては。雄大はベッドから起き出して階下へ降りて行った。  鮎美はソファを見ていた。どうしてソファを見ているのかわからなかった。だが、声を掛けるのを躊躇《ためら》ったほど、鮎美の背中は緊張している。鮎美が見つめていたものは……洗濯物の山だった。夕方、雄大が取り込んでおいた、乾いた洗濯物。  怒っているんだろうか。何か、間違った取り込み方でもしちゃったんだろうか。雄大はそっと階段を降りかけた。だが鮎美が不意に動いてキッチンへと入って行った。追いかけるようにキッチンに入ると、鮎美はようやく雄大の方を振り返った。 「……雄ちゃん……これ」  鮎美が持ち上げているのは鍋の蓋だ。 「カ、カレー」  雄大はどうしてなのか照れ笑いをしていた。 「ごめん、肉が見当たらなくてさ、ステーキ、使っちゃったんだ」  鮎美は頷いた。顔が強張《こわば》っている。なんで怒るんだ? 「……松阪牛のね……そう言えば一枚、残ってた」 「ま、松阪牛だったの?」  雄大はちょっと焦った。それで怒っているのか? 「御飯も炊いてくれたの?」 「水加減間違えてさ、やわらかいんだけど」  鮎美はもう一度頷き、それから皿を取り出した。 「あ、あのね、カレーも失敗したんだ。イモが溶けちゃってさ、底が焦げて……あ、他のもの食べた方がいいかも」  鮎美は黙ったままカレーを盛りつけ、テーブルについた。そして、一口食べた。それからスプーンをおき……顔を覆って泣き出した。 「鮎美」  雄大は鮎美の正面に座った。 「何も泣かなくたって……そんなにまずかったか? ごめんよ、もういいから、何か別のもの食べろよ。な」 「違うの……違うったら、馬鹿ね」  鮎美は首を振っている。馬鹿と言われて、雄大はムッとした。 「わかったよ、余計なことしてごめんよ。洗濯物、畳み方がわかんなかったんだよ、まさか洗い直しってことはないんだろ? カレーのイモっていつ入れたらいいのか知らなかったんだ。底が焦げたのも、だから……」 「雄ちゃん」  鮎美は手をおろした。 「おいしいよ、カレー」 「……え?」 「すごく、おいしい。こんなおいしいカレー、食べたの、はじめて」 「そんな皮肉を」 「皮肉じゃないもの……あたし……憧《あこが》れてたの」 「憧れ?」 「うん。家に帰ると誰かがあたしを待っていてくれて、御飯が出来ていて……うち、離婚家庭だったでしょ」  そうだった。鮎美の実家は、鮎美がまだ小学生の頃に両親が離婚していたのだ。 「そんなこと、今まで言わなかったじゃないか」 「言えなかったのよ」  鮎美の頬に涙が伝った。 「言えなかった……雄ちゃんだって遅くまで働いてたんだもの、御飯作ってなんて言えないじゃない」 「日曜日とか、たまにはやったのに。こんなんで良かったんなら」 「そういうの、嫌だったのよ。雄ちゃん、あたしと結婚することにしたのは、どちらかに寄りかからない平等な夫婦生活が出来そうだったからだって、いつも言ってたじゃない。あたし……雄ちゃんの理想の女でいたかったのよ、いつまでも。雄ちゃんに、つまらない女だと思われたくなかった。幻滅されたくなかった……」  雄大は、ひどく居心地が悪かった。どう考えても、この一カ月間に自分のしてきたことは、鮎美に幻滅されるには充分な有り様だったはずだ。それなのに、鮎美にこんなことを言われると、変な夢でも見ているような気がしてくる。  だがよく考えてみると、これは今に始まったことではなかった。鮎美は確かにいつも、雄大にどう思われているか気にしているところがあった。今までは、単純に、自分に惚れてくれているからだと都合良く解釈していたのだが……どうも少し、変だ。  雄大は、鮎美の顔を見つめた。瞳の奥が揺れている。不安なのだ。どうして? なぜそんなに、不安そうに俺を見る? 「カレー、おいしいの」  鮎美はもう一度言って、猛然とスプーンを動かし始めた。  その時、雄大は気づいた。  誤解されたのだ……そうだ、鮎美は誤解した!  待て、鮎美。そんなに旨そうに焦げたカレーなんか食うんじゃない!  俺は断じて承知したわけじゃないぞ、勘違いしないでくれ!  俺は、専業主夫なんかになるつもりはないんだぞ、鮎美! [#改ページ]    前 途 多 難      1  誤解をきちんと解く暇もないまま、雄大の作ったカレーに感激した鮎美は猛然と食べ、上機嫌で洗い物までしてシャワーを浴びると、これまた上機嫌で寝室に引き揚げた。そうなるともう、今さらよけいなことを言って鮎美の気分を損ねる気にはどうしてもなれない。何にしてもここ数カ月の雄大のていたらくは、弁解の余地がないほどひどいものだったのだ。その間じっと耐えて我慢してくれていた鮎美に対して、雄大はかなりの負い目を感じていた。  ま、いいさ。  雄大は、本当に久しぶりに鮎美の柔らかな胸に顔を埋めながら思った。どっちみち、俺の就職が決まれば主夫になって家にいるなんて話はなかったことになるんだから。そうだ、ともかく一刻も早く仕事を見つけることだ。仕事にさえちゃんと就いて以前のようにばりばり働く俺を見れば、鮎美だってもう、家にいて家事をやってくれなどとは言い出さないだろう。要するに、鮎美は不安なのだ。俺があのまま酒とパチンコに溺れて身を持ち崩し、時代劇に出てくる飲んだくれのダメオヤジのようになってしまって、しまいには鮎美自身にも暴力をふるい出す、そんな展開を恐れているのだ。そんなことになるくらいなら、主夫という役割を無理にでも俺にふることで、俺の居場所を作り、俺が酒に逃げたりしないようにした方が利口だと考えたに違いないのだ……  雄大はそんな鮎美をなんだかかわいそうだ、と思った。いったい鮎美はどうしてそこまで、俺に遠慮するのだろう。さっきもそうだ、たかだかカレーを作ったくらいのことであんなに大袈裟に嬉しがって。俺に理想的な女だと思われたかったから今まで言えなかっただって? そんな弱気なことを言う女だとは思わなかった。今までずっと彼女は、俺にそうやって遠慮して生活してきたんだろうか。だとしたら、それこそ俺の理想とは大違いじゃないか。  考えてみたら、失業以来おかしくなったのは自分だけではない。鮎美も確かに変だった。だがオヤジ狩りに襲撃されて怪我をするまでは、雄大は自分のことしか考えていなかったのでそれに気づかなかったのだ。いくら経済的に依存していないと言ったって、会社を辞めた夫が酒とパチンコ三昧《ざんまい》でぶらぶらしていれば文句を言うのが当たり前で、とっくに大喧嘩の一度や二度はしていて当然だったのだ。それなのに、鮎美は何も言わずにいた。そしてやっと何か言ったと思ったら、出てきた言葉が家庭に入ってくれ、だ。  鮎美の心にはいったい、何があるのだろう?  雄大はふと、疑問を感じた。  今、自分の腕の中でうっとりして目を閉じている鮎美は、自分が昔から知っている妻である鮎美そのもののはずなのに、一度小さな疑問を抱くと、何だか見知らぬ女を抱いているような錯覚に陥る。馬鹿げたことなのだが……鮎美が自分に対してこれほど弱気なのは……もしかして、鮎美の方にも何か負い目が……? 「ああっ、あぅーん」  白い喉をめいっぱい伸び上がらせて鮎美のからだが弓なりにくねった。その衝撃で、雄大は我に返った。いかん、このままだと鮎美が先に終わって醒めてしまう。雄大は猛然とダッシュをかけて鮎美に追いつき、何とか遅れずにフィニッシュして一息ついた。その途端、それまで平気だった脇腹の打ち身がずきずきと痛み出した。 「あっ、つー」  雄大が脇腹を押さえて鮎美の横に転がると、鮎美がひどく心配そうに覗き込む。 「だいじょうぶ? 雄ちゃん。ごめんね、まだ怪我が痛いのに無理させて……」 「いや、平気」  雄大は笑って見せたが、鮎美の眉と眉の間に寄った皺はなかなか消えなかった。雄大は鮎美が泣き出したりしない内に話題を変えることにした。 「あのさ、ところで鮎、鳴尾さんって知ってるよね」 「うん、知ってるわよ。自治会の会計さんでしょ」 「そう。あの人が今日、うちに来てさ」 「あら、どうして? うち、何か払ってないお金、あったっけ」 「金のことじゃなかったんだ。何かさ、自然農法の野菜を宅配して貰うのに、参加者が十軒いないとダメなんだってさ。それでうちもどうかって」 「ふうん」  鮎美は合点がいかない、というように首を傾げた。 「でもどうしてうちを誘ったのかしら。鳴尾さんとは特に親しく話もしたことはないのにね」 「俺を見に来たんじゃないかな」 「え?」 「これだよ、これ」  雄大は自分の顔の痣を指さした。 「オヤジ狩りに遭って怪我したって噂、きっともうマンション中に広がってるよ。それだけじゃない、失業したって話だってみんな知ってるんじゃないかなあ」 「まさか。だってあたし、誰にも言ってないわよ」 「俺だって言ってないさ。でもほら、ここんとこずっと、ぶらぶらしてたってのはみんな気づいてただろうし」 「でも雄ちゃん、わざわざ池袋まで出てパチンコしてたんでしょ」 「それだってさ、何か変だなあそこの亭主は、って気づかれてたよ、たぶん。まあ先回りしたってわけでもないけど、今日、伏見さんには転職したんで次の職場に移るまで長期休養中だって話しておいたけど」 「伏見さん?」  鮎美の顔つきが変わった。 「伏見さんって……ご主人と話したの?」 「いや、奥さんの方。あの」  昼飯に招待されたって話はした方がいいのか、しない方がいいのか。迷ったあげく雄大は、さりげなくかすめておくだけにした。 「コンビニで会ったんだ。昼飯買いに行った時」 「……そう」 「どうしたの? 伏見さんのこと、鮎、よく知ってるの?」 「ううん、そんなには知らない」  鮎美はどうしてなのか、歯切れが悪い。 「たまに立ち話する程度よ。だって、二軒隣なんだもん、廊下とかエレベーターで時々顔を合わせるから……そう、伏見さんの奥さんに話したの」 「いちおうは信じてくれたみたいだけどね……でもどうだろうな、女性って変なとこで勘が鋭いから、失業中だって察したかも……まずかったかな」 「どうして? 仕事を辞めたのは本当なんだから、いいじゃないの、知られたって」 「いやだけどさ」 「雄ちゃん」  鮎美の声があらたまった。 「ゆうべのお願い、あたし、本気よ」 「その話は今はよそう」 「なぜ? 今じゃなければちゃんと考えてくれるの? それとも考えてくれるつもりは全然、ないの?」 「鮎美」  雄大はうんざりした。今夜はこのまま機嫌良く眠りにつきたかったのに。 「俺はまだ働きたい。そんなことはあらためて言わなくてもわかるだろう? 俺だって辞めたくて会社を辞めたんじゃないんだ、ただ運が悪かっただけなんだよ。そりゃ世間には主夫やってる男だっていっぱいいるだろうし、それが悪いとは言わない。だけどね、鮎、そういう連中ってのは結局、会社勤めや社会に出て働くことに嫌気がさしたり、性格的に向かなかったりして、働くことが出来なくなった連中じゃないのか? 言葉は悪いけど俺からみたら負け犬だよ。別に女房が働いているからって、誰かが家庭に入って家事をしなくちゃならないってことにはならないじゃないか。今まで通りの方法が気に入らないなら、分担を考え直してみればいい。君が疲れて帰って来た時に、たまには晩飯が出来ていて俺と一緒に食べたいんだって言うなら、そうなるようにお互いのスケジュールを調整すればいいだけのことじゃないか。何も俺がずっと家にいて、晩飯つくって君を待ってなくちゃいけないわけじゃないだろう? 鮎、ほんとにどうしたんだよ、ちょっと変だよ。なんでいきなりそんな突拍子もないこと、言い出すんだ」 「あたしにとっては、突拍子もないことなんかじゃないもの……ずっと……ずっと考えていたんだもの……」 「ずっとって、まさか鮎、俺が失業する前からそんなこと考えてたわけ?」 「違う」  鮎美は首を横に振ったが、中途半端な否定の仕方だった。 「……違うけど……でも考えていたのよ……ずっと」 「何が言いたいのかさっぱりわからないぞ!」  雄大は思わず、手近にあった枕を放り投げた。 「君は混乱してる。ちゃんと頭ん中を整理してくれよ、頼むから! いいかい、ともかく俺は明日から必死で仕事を探し、失業保険が切れるまでには絶対、まともな仕事とまともな収入のある職場を見つけてやる。そして働くんだ、前みたいに。仕事が決まるまでの間は、家事ぐらいしてやるよ。君が家に帰った時に気持ち良くいられるんなら、そのくらいはするさ。ここしばらく鮎にかけた迷惑のお返しにさ。だけど仕事が決まったら、俺は外に出て働くぞ。絶対、主夫なんかにならないからな! だからもうこの話はやめにしてくれ。鮎美、わかったか?」 「わからない!」  驚いたことに、鮎美はいきなり枕を抱えると寝室を飛び出して行ってしまった。雄大は呆然《ぼうぜん》としたが、追いかけて行く気は起きなかった。階下の和室は鮎美の書斎として使っているが、客が来た時には泊まれるように押入に布団が詰まっている。鮎美はその布団で寝るつもりなのだろう。勝手にしろ。  雄大は頭から毛布をかぶった。  シーツに鮎美の体臭の残り香があった。いい匂いなのに、鼻をつまんで寝たくなった。  理由はわからないが、ひどくさびしかった。      2  大学の二年先輩で、同じサークルに所属していたことがある武田陽次は背の高い男だった。待ち合わせた喫茶店のいちばん奥の席に座っていても、武田が入って来た途端に目についた。 「すまん、遅れた」  武田は雄大の前に座ると、昔から変わらない人なつこい笑顔になった。 「災難だったなあ、草薙」 「はい」 「で、職安に通ってみてどうだった? いくつか面接には行った?」  雄大は小さく首を横に振った。 「販売企画だったっけ、おまえのいた部署。いかにも半端なんだよな、職種とは言えないし、技能もない」 「やっぱり資格ですか」 「うーん……資格資格って言うけどなあ、女子ならパソコン検定なんて軽い資格で潜り込める会社もあるんだろうが、ちょっとどっかの専門学校に夜間だけ通って数カ月で取った、みたいな資格はな、就職に有利な材料になんかならないしな。その資格だけで就職出来るような資格ってのは、何年もかけて勉強しなくちゃ取れないようなのばっかりだ。それより男の場合、営業のプロだったら欲しいという会社はいくらでもあるんだがな。どうなんだ、草薙、営業をやってみる気はあるのか」 「歩合制の本格的な営業ってことでしたら、どうしてもの時の最後の手段にしておきたいというのが本音です」 「だろうな」  武田は苦笑した。 「歩合制の営業マンってのは早い話、正社員じゃないからな。形の上では正社員でも、ボーナスもなければ下手すると社会保険関係すら怪しいところが多い。腕に自信があれば一財産築けるんだろうが、生半可なことじゃ勤まらない……かと言って、大手が営業職でちゃんとした社員を雇うとしたら、まず、前の会社で営業の実績のある人間だけだ。まあ今さら遅いんだが、地獄を見るとわかっていても時間稼ぎにとことんまで前の会社で粘った方が良かったかも知れないなぁ」 「そうかも知れません」雄大は素直に頷いた。「やっぱり、恐かったんです。これからどんなひどい目にあわされるのかと考えると恐かった。だからさっさと辞めてしまった……甘かったんですね。時間稼ぎなんだと割り切って亀みたいに自分の甲羅に閉じこもってしまえば、嫌がらせされたってもう何カ月かは耐えられたはずなんですが」 「まあいいさ、男にはプライドってもんがあるんだしな。それにおまえんとこは確か、共稼ぎだろ?」  雄大が頷くと、武田は少しだけ目を細めた。いくらか皮肉な表情になったように見えた。 「その点はいいよな、俺んとこなんか今俺が会社辞めたら、一家心中考えなくちゃなんないぜ。ガキと女房食わしていく為には男のプライドもへったくれもないもんなあ」  雄大は黙っていた。何を言っても武田には耳障りだろう。 「俺んとこもな、二人目が生まれるまでは女房が働いててくれたからそこそこやっていけたんだけどな、二人目が出来たら預ける保育園はないわ、病気の時にどうしたらいいかわからんわで、もうてんてこまいになって、女房が過労で倒れちゃったんだ。それでこりゃ限界だってんで専業主婦にさせたんだけど、一度主婦になって家に引っ込んじゃうともうダメなんだよな。下の子がおむつも取れて、保育園にも入れたんで、また働こうとして探したんだが、もうどこにも働き口なんかなかったよ。女房は三つ年上なんだ。三十過ぎて二人の子持ちで、パソコンがちょっと使えますくらいの能力じゃあ、どこも雇わないよ」 「やっぱりダメですか、一度家庭に引っ込むと」 「ダメだね。草薙んとこも、出来るだけ奥さんに仕事を続けて貰った方がいいぜ。そりゃ稼ぎ手がひとりとふたりじゃ、ゆとりがまるで違うからなあ。まあ子供が出来ると保育料や育児費用で一人分の給料なんかぶっ飛んじゃうから、表面上はそんなに変わらないけどな、ボーナスが入るとしみじみ、ダブルインカムで良かったなあと思ったもんだよ。今はうちの女房、近所のいろんな店でちょこまかパートやってるよ。だけどどこで働いても、若い女が入って来ると周囲に辛く当たられるって長続きしないんだ。まあ気持ちはわかるけど、女ってのは我慢が足りないよな。三十八にもなったらそろそろ若い女と張り合うのは諦めて、おばさんなんだからって開き直りゃいいと思うけどなあ。そりゃ俺がその立場だって、若い女が職場に入ってくりゃおばさんのことなんか目に入らなくなって、その女の面倒ばっかみるぜよ、なあ」  武田は自虐的に笑う。だが武田の妻は結婚式で見た限り、相当な美人なのだ。元があれだけいいのだから、三十八になったからと言って、相変わらず美人なのは間違いない。武田は今だって自分の女房を愛しているのだろうし、そのへんの頭の軽そうな若い女より魅力的だと思っているに違いない。それでもそんな妻に、おばさんの自覚を持って女として張り合うのは諦めて生きろと言わなくてはならないほど、現実は厳しいのだ。 「ま、ともかく、履歴書は預かるよ」  雄大は履歴書を取り出して封筒に入れたまま武田に渡した。 「心当たりには聞いてみる。昨日電話貰ってから考えてな、ま、二、三はアテがありそうだ」 「すみません、助かります」 「他のコネはどうなの、試してみた?」 「それが……今のところ会って話を聞いてくれたのは先輩だけなんですよ」 「ふうん」  武田は腕組みした。 「けっこう冷たいな、みんな」 「この不況ですからね、仕方ないと思ってます」 「まあな、就職を頼んで来るのは草薙だけじゃないだろうしな……実は二カ月くらい前にも、おまえと同期だった佐藤に相談されたんだよ」 「佐藤って、佐藤純吾ですか? あいつ、確か家電の大手にいたんじゃ」 「リストラだ、リストラ」  武田はふうっと息を吐いた。 「あいつも運が悪かったクチだ。ほら、あいつのいた東洋一電機はこの夏、ヤマト電算と合併したろ。それで余剰人員が出てあいつの首が飛んじゃったんだな。気の毒に、春に赤ん坊が生まれたばっかりでさ、奥さんは結婚以来家庭に入ってて、生まれたばっかりの赤ん坊がいてはパートだってろくに出来ないし、失業保険が切れたらどうしたらいいかわからないって半泣きで電話してきてな」 「それで、どうにかなったんですか」 「うん、まあ、何とか知り合いの会社に押し込んだ。だけどあいつに勤まるかなあ……エクステリア関係の会社でな、完全歩合ってわけじゃないんだが、飛び込みの営業をやらされるんだ。知ってるか、そういうの。町を歩き回って、外壁の塗装がはがれたり屋根の瓦がずれたりしてる古い家を見つけては呼び鈴を押して、屋根を直しませんか、壁を塗り替えませんかって営業するんだよ。考えてもみろよ、屋根だ壁だってやるとなったら数十万の金が必要な買い物だぜ、飛び込みでいったいどれだけ成約が取れると思う? 完全歩合ではないと言っても、飛び込み営業なんだから固定給が人並みに出てるわけがない。固定給を多くしたら仕事しないで喫茶店でサボる奴ばかりになっちゃうもんな。家族を食わしていけるだけの契約を取るには、早朝からそれこそ夜まで歩き回らないとならないだろうな。それに何と言っても訪販は、門前払いの屈辱に耐えないとならない。俺も新入社員の頃に訪販をやらされたことがあるんだが、野良犬でも追い払うみたいに断られるのってかなりハートにこたえるぞ。佐藤ってけっこう、ええかっこしい、な奴だったろ。何とか申し込んだはいいが、いつまで続くのか心配してるとこではあるんだ」  武田の話を聞いている内に、雄大は佐藤純吾の顔を思い出した。クラスでもとびきりの洒落《しやれ》者で、いつもメンズ雑誌を抱えて歩いていた佐藤。男のくせにブランドにこだわるなんて気持ち悪いとからかわれても、一流品を使い込む快感を一度おぼえたら安売品なんか手が出ないぜ、と笑っていた。あいつが町を歩き回って訪問販売。現実は厳しい。歩合制の営業は最終手段に、なんて、贅沢なことを言ってる場合じゃなかったんだ。佐藤だってそう思っていただろうが、結果として飛び込み営業の仕事しか見つからなかったんだ……前途多難だ。  武田に礼を言って喫茶店を出ても、雄大はすぐに職安に向かうだけの気力が持てなかった。そんなことでは駄目だと思いつつも、足はふらふらとパチンコ屋に向かっている。池袋の街はいつになく親しげで、遊んで行きな、嫌なことは忘れなよ、と雄大を誘っていた。  目の前のパチンコ屋まであと数歩、というところで、雄大はかろうじて踏みとどまり、回れ右した。その途端、誰かとぶつかった。 「す、すみません」  ヤクザだったらどうしよう、と思いながら相手を見た。背の高い女性だ。だが制服を着ている。高校生? 胸のあたりは堂々と発達してほとんど成熟した女性になっているが、顔つきが何とも幼い。化粧はいちおうしているが下手クソで、かえって幼稚さを強調している。ひょっとすると中学生か……それにしても、平日の真っ昼間にいったい…… 「気をつけてよね、オジサン」  女性は唇を尖《とが》らせた。それでますます幼く見えた。 「ボーッとして歩いてると、お財布スられるわよ」  雄大は慌てて胸ポケットを確かめた。その様子を彼女は笑いながら見ている。 「オジサン、たんじゅーん! そんなことしたらどこにお財布入ってるか、あたしにわかっちゃうじゃん」 「君にわかると、何かまずいことでもあるの」 「べっつにぃー」  少女は妙に色気のある目つきになった。 「ただオジサンがお金持ちだってわかったらいろいろと便利かも、なーんてさ」 「悪いけど、僕は大した金を持ってないよ」 「でもスリにとられたら困るわけでしょ」 「そりゃ、千円だってとられたら困るさ。電車に乗れなくなっちゃうからね」 「タクシーで帰ればいいじゃん」 「遠いんだよ。タクシーだと大変なんだ」 「ふぅん」  いったいこの少女は自分に何を期待しているのだろう。雄大はいぶかしく思いながらも、あまり関わり合いにならない方がいいタイプだな、と踏んでいた。 「ともかくぶつかってごめんね。それじゃ」  雄大は出来るだけさり気なく少女から離れようとした。だが少女は離れてくれなかった。雄大の後ろをついて来る。 「あの、何かまだ?」 「べっつにぃ。あたしもこっちに行くんだもーん」 「あ、そう」  雄大は少女を無視することにした。どっちみち、平日の真っ昼間に制服のままで遊んでいる女の子がまともなはずはない。まともでない若い女の子ほど恐い存在はないような気がする。  しかし無視しようと努力しても、化粧をした制服の女子学生がぴったりとくっついている状態で無視を続けながら歩くのはかなり骨が折れた。JRの切符売り場までそのままの状況を続けたあげく、とうとう雄大は降参した。 「あのさ、君、ほんとに僕に何の用なの? 何かしてほしいことがあるなら、はっきり言ってくれないかな」 「あたしね」少女はニヤッとする。「オジサンのこと、知ってるんだ」  雄大は動揺した。 「し、知ってるって、どうして?」 「どうしても。いいじゃんそんなこと、どうでも。それよりさ、どっか遊びに連れて行ってよ」 「あ、遊びって、あのね。僕はこれから」 「失業保険貰いに行くんでしょ」  雄大はギョッとした。いったいこの少女は何者で、どうして俺のことを知っているのだ? 「職安に行くんでしょ。失業保険貰ったら少し金持ちになるじゃん。そしたらどこか連れて行って」 「君は誤解している」  雄大は真面目くさって言った。 「失業保険っていうのはね、仕事を辞めてすぐは貰えないんだ」 「なんで?」 「なんでだかは知らないけど、そういう決まりになってるんだよ。だから、今日職安に行っても貰えるわけじゃない」 「だったらどうして行くのよ」 「どうしてって」雄大は詰まったが、仕方なく言った。「仕事を見つける為だろう、それは。当たり前じゃないか」 「次の仕事なら決まってるんじゃなかったの?」  少女は一瞬、大人びた顔つきになって雄大を見た。大きな瞳が雄大を笑っている。 「そう言い触らしてるくせに」  雄大は、喉を鳴らして生唾を呑み込んだ。目の前にいる制服の少女が恐かった。 「君がどうして僕のことをそんなによく知っているのか知らないけど」  雄大は、やっと声を振り絞った。 「たとえ金があったって、君を遊びに連れて行くつもりはないよ。悪いが、もう僕に構わないでくれないか」 「逃げるの?」 「ああ、逃げる」  雄大は少女に背を向けた。 「ションベン臭いガキは大嫌いなんだ。男にタカりたければガキが好きな変態を探すんだな。じゃあな」  後はもう、振り向かずに切符を買うと黙って改札を通り、ホームへの階段を駆け上がった。タイミング良くやって来た電車に飛び乗る。そばに少女の気配はもうない。それでも、しばらくの間はじっと窓の外に目をこらしたまま、決して背後や横を向こうとはしなかった。首を傾けた時にあの少女と目が合ったら、今度こそキレてしまいそうだ。  高田馬場を過ぎて、ようやく凝り固まった首を動かして車内を盗み見た。少女はいない。どこにも姿が見えない。  雄大は、大きく息を吐き出した。  いったい、あいつは何なんだ。  眩暈がしそうだ。      3  五時まで粘ったが、希望の職種では紹介がなかった。渡された紙はどれもこれも、希望とはかけ離れた仕事ばかりだ。それも、勤務地が東京のはずれだったり、神奈川、千葉とやたらと遠い。  望みが贅沢なのはわかっていた。だが変なところで妥協してしまって、またすぐに辞めることになったら今よりもっと悪い条件で探すしかなくなるのだ。勤務地と職種だけは譲れない。給料は下がってもいいから、以前と似た環境で働きたい。それだけなのに。それだけの望みが、今の日本では叶わないのか。それほどこの不況は深刻だったのか。  将来への不安など感じたこともなく、輝かしい未来だけを信じていられた無邪気な日々が懐かしかった。どうしてあれほど楽天的に、自分は失脚などしないと思い込んでいたのだろう? 後ろ盾になっている一派が倒れる可能性を少しも考えなかったのは、なぜなのだろう?  結局、何もかも錯覚だったのだ。自分には本当の意味での実力があったわけではなかった。根拠のない自信だったから、根拠を検証することもなく妄信していられたのだ。そんなことに今さら気づくなんて、俺は相当な間抜け野郎だ。  またもや自己嫌悪の奴隷になって、雄大はふらふらしながら家路についた。だが心のどこかにあのおかしな少女への恐怖心があって、池袋駅に向かう気になれず、西武新宿線で遠回りして帰ることにした。  新宿線に乗るのは本当に久しぶりだった。ずっと昔に所沢球場まで野球を観に行ったことがあるが、それ以来かも知れない。所沢で乗り換えて池袋方向に向けて戻れば家にたどり着けるのだが、それにしても遠回りだ。雄大はうんざりした。なんだってあんなガキに振り回されなくちゃならないんだ?  腹が立ったので、たまたま空いた座席に座り込んでふて寝を決め込んだ。腕組みして目を閉じると、電車の振動が心地よい眠りに誘い込んでくれる。いつの間にかぐっすり眠り込んでしまっていたらしい。はっと気が付くと、もう所沢の手前だった。立ち上がり、軽く肩をまわして電車がホームに停まるのを待っていた時、その人間にやっと気づいた。吉川恭子。  向こうも雄大に気づいていて、雄大と目が合うとにっこりする。雄大はそのままホームに降りたが、雄大が躊躇《ためら》っている間に恭子の方からどんどん近づいて来た。 「すごく久しぶりね。何年ぶりかしら」 「うんと……六年、くらい?」 「そんなものね。あなたが結婚する前に逢って以来ですものね」  雄大はどぎまぎしながら曖昧に頷いた。昨日といい今日といい、どうも現れる女現れる女、自分を落ち着かなくさせているような気がする。自分の方が過敏に反応し過ぎているだけなのか。  だが吉川恭子の場合には、伏見夫人や得体の知れない制服少女とは事情が違っていた。彼女は、雄大の昔の恋人だったのだ、鮎美と結婚する前に付き合っていた…… 「ねえ、お茶でもどう?」  恭子があまり気軽に言ったので、雄大ははずみで頷いてしまって慌てた。 「で、でも池袋線に乗り換えるつもりだったんだけど」 「仕事?」 「いや、家に帰るだけだけどね」 「じゃあ、いいじゃない。あ、切符もったいない?」 「いや……そんなことはいいんだけど。君は所沢に住んでるの?」 「知らなかったっけ。実家があるのよ」  そう言えば、恭子の実家は所沢だと確かに聞いた憶えがあった……と、よくよく考えてみたら、野球観戦に行ったのは鮎美とではなく、恭子とだったんだ! 「そうだったね……そう言えば」 「忘れてたのね」  恭子はころころと笑った。 「薄情なんだから。西武対近鉄戦を観た後で、うちに来て御飯食べたくせに」  雄大はもう身の置き場がなかった。そうだった。恭子の実家にまで行っていたのだ。考えてみたらそれも不思議ではない。恭子とは本当に、結婚する一歩手前まで行ったのだから。冷や汗を背中に感じながら、雄大は恭子と並んで所沢駅の改札を出た。 「それにしても、この近くに住んでいたなんてね」  恭子は昔のままにアイスティーをストレートで飲んでいた。今でこそ紅茶をストレートで飲むのも特に珍しくなくなったが、学生時代には、ミルクもレモンも、ガムシロップすら入れずにアイスティーを飲む恭子の習慣が妙に粋でカッコイイと思っていたことまで思い出す。 「結婚と引っ越しの案内、鮎美が出したはずなんだけど」 「うーん、貰ったのかも」  恭子は肩をすくめた。 「でも、あたしって整理整頓がダメでしょ、ご承知の通り。使わないアドレスだと、引っ越しのハガキ貰ってもいちいち住所録書き替えたりしないのよね。その内に一年過ぎて郵便物が戻ってくるようになると、住所録から消しちゃったりして」  使わないアドレス、ときっぱり言い切られると、雄大はいくらかホッとした。恭子は竹を割ったような、という表現がぴったりの、どちらかと言えば男性的な性格をしている。だからこそ、結婚寸前まで行ってからの破局だったのに、修羅場にならずに別れることが出来たのだ。だが修羅場にならなかったからと言って、雄大の心の中にしこりとして残った良心の呵責《かしやく》が消え去るわけではなかった。  恭子とは、学生時代最初からの付き合いだった。大学に入学してすぐの新入生歓迎コンパで知り合い、そのまま恋人になったのだ。そして五年付き合った。鮎美は恭子の友人のひとりで、時たま一緒に酒を飲みに行ったり、ドライヴしたりすることがあった。だが学生の間は、鮎美に惹かれている自分の気持ちに雄大自身気づかなかった。卒業して就職し、恭子も鮎美も、そして雄大もしばらくは仕事に夢中になっていた。恭子とデートをする回数も、学生の頃に比較すると格段に減った。それでも結婚を考えるなら恭子しかいないと思っていた。決して、恭子のことが嫌いになったわけではなかったのだ。だが…… 「鮎美は元気? 雑誌の編集してるって噂、聞いたけど」 「うん、相変わらずばりばりやってるよ」 「子供はまだ?」 「彼女はそろそろ欲しそうなんだけどね」 「あなたは? 好きじゃないの?」 「いや、特に子供が好きってわけでもないけど、いたらいたでいいとは思う……ただ、今はちょっと、いろいろあってさ。経済的にもね」 「あら」恭子は少し意外そうに首を傾げた。「あなたはメーカー勤めで鮎美は出版社なんでしょ。どっちもお給料はいいじゃないの。マンションでも買って、ローンがあるとか?」  恭子は詮索好きだった。だがあまりにもざっくばらんに朗らかに、そしてズケズケと訊くので、彼女に根掘り葉掘り訊かれた友人たちも不思議に鬱陶しいとは思わないらしく、ついつい恭子のペースにのせられて、自分のことをぺらぺら喋ってしまうのだ。彼女には生まれついての、インタビュアーの素質があった。 「失業しちゃったんだ」  言ってしまってから、雄大は、しまった、と思った。だが言ってしまった以上はもう、どうとでもなれ、とすぐに思い直してわざわざ付け加えた。 「派閥抗争の巻き添えで失脚してさ、リストラ対象になったんで辞めたんだ」 「ほんと?」  恭子が大きな目をさらに大きくした。 「雄大が? うっそー」 「どうしてさ。俺だってレールからはずれることはあるよ。しかも不可抗力による脱線なんだからな」  雄大は、恭子があまり無邪気に驚いたので少し不愉快になった。恭子の頭の中にいる自分という男は、間違っても自分から会社を辞めたりしない、計算高くて小心なホワイトカラーってことなのか。 「ごめん」  恭子は小さく言った。 「そういう意味じゃないのよ……雄大って、運が強い人だと思ってたからさ」 「俺が?」 「うん。昔っから、雄大ってここいちばんに強かったもの」 「そうだったかな……そんな記憶、ないけど」 「そうだったよ」恭子の顔がふっと優しくなった。「福引きとかしてもさ、特等なんかは当たらないけど、三等とか二等とか、よく当ててた。ビンゴでもジャンケンでも、雄大はいつも勝ってた」 「会社の派閥抗争はジャンケンみたいなわけにいかないよ」 「それはそうだね」  恭子は肩をすくめて笑った。 「そっか、雄大も失業か」 「も、って、まさか、恭子も?」 「へへへぇ」  恭子はいたずらを見つかった子供のような顔になった。 「実はね、三カ月前まで失業してたの。それも、一年半も」 「一年半! そんなに長いこと、仕事が見つからなかったのか!」 「一年半なんて、今時長い方じゃないよ。妥協しないで探したら三年くらいプーやらないとならない職種だってあるのよ。まったくひどい時代だよね……あたしも前の会社、人間関係で煮詰まっちゃって半分衝動的に辞めたのよ。すぐ見つかると思ったんだけど、なかなかないのよね」 「恭子の仕事って、そんなに特殊なのかい?」 「ううん、そんなことなかった。大きく括《くく》れば要するにOLよ。事務だもの。だからかな、辞める時思ったのよ。今度就職するなら、一生勤めたいって思うようなとこを探そうって。事務なんて会社は違ってもやってることは同じでしょ、安易に次の会社に移ったら、また何かで躓《つまず》いた時我慢がきかないじゃない。それでね、自分が本当にやりたい仕事って何なんだろうって考えながら、バイトで食べてたの。一年半の間に面白そうだなって思う会社があると、何とかそこに潜り込めないかいろいろやったりしてね。でもダメだった。こっちが惚れ込んだ会社はみんな狭き門で、中途採用はなかなか採ってくれないし、採用があっても戦いが厳しいのよ。で、気が付いたら一年が過ぎてて、そろそろマズイな、と思っていた矢先にね、ようやくやってみたいな、と思う仕事に出逢ったの。で、アルバイトで始めて、ようやく、正社員で採用して貰えましたー」 「どんな仕事なの?」 「ナイショ」  雄大は、恭子の顔を見た。恭子は相変わらず、おかしさを堪《こら》えるような顔つきのままで小さく首を横に振った。 「ごめん、雄大。でも今は言わない。まだ一人前になったって自信がないのよ。その自信が付いたら話すわ……と言っても、次はいつ逢えるやらわからないけども」 「遊びに来いよ、近いんだから。鮎美も喜ぶよ」  雄大は、アイスティーのグラスに敷かれたコースターに、住所と電話番号を書きつけた。  鮎美が喜ぶだろう、というのは本当のことだ。鮎美は、雄大と恭子が別れた時の事情を事実とは違う形で理解していた。恭子が鮎美にそう思わせるよう、偽りの事実を告げてくれたのだ。だから鮎美は、恭子に対して負い目を感じていないらしい。恭子が結婚以来連絡してこないのを淋しがっているふしがある。 「そうね、鮎には逢いたいな、と思ってたのよ、最近」  それは、俺には逢いたくないと思っていたという意味かい、と雄大は口にしそうになって呑み込んだ。思われて当然なのだから、冗談でも自分が口に出してはいけない台詞《せりふ》だった。  結局、自分で自分の本心に気づくのが遅れたことで、恭子を傷つけることになってしまったのだ。もっと早く本当は鮎美に惚れているのだと気がついて、自分の心に正直に行動していれば、結婚が具体的なものとして二人の間に出現する前に恭子と別れることになっていただろう。  あの年のクリスマス・イヴ。  雄大は、来年の春には恭子と結婚するのだと漠然と心に決めながら、それでも自分がその夜、恭子ではなくて鮎美の顔を見たいと思っていることを意識していた。もちろん、誰に打ち明けたわけでもない気持ちだった。恭子との結婚を決めるからには、生涯誰にも打ち明けてはいけない気持ちでもあった。その晩は、恭子は実家に戻っていた。実家の父親が心筋梗塞で入院したと連絡が入り、母親の手伝いに行っていたのだ。幸い病状は軽く心配はないということだったが、念のため一晩泊まるので、イヴの夜のデートはキャンセルしたいと電話があったばかりだった。  雄大は窓から外を眺めていた。クリスマスケーキの箱を抱えた男性が家路を急ぐ姿が見えた。たぶん、妻と子供が待つ家へと急いでいるのだろう。  一瞬、自分の未来が見えた。  小さな家のドアを開けると駆け寄って来る子供。その後ろに、にこにこと笑っている妻の姿。  妻の顔は、恭子ではなかった。鮎美だった。  その瞬間に、雄大は決心した。  自分の心を偽ったままで恭子と結婚すれば、きっと、恭子を不幸にしてしまうだろう。今は恭子のことが好きでも、結婚してもう永遠に鮎美と男と女になることは出来ないとなれば、少しずつ恭子を憎んでしまうかも知れない。そこまでいかなくても、心の中にいつもいつも鮎美の面影を追いながら、それを隠して恭子を妻として抱くことは、恭子にとって何よりの侮辱《ぶじよく》になる。そんな自分の裏切りを、恭子もいつかきっと、気づいてしまう。  クリスマスの朝、実家から戻った恭子に、自分の気持ちを打ち明けた。君とは結婚出来ない。ゆるしてほしい。  恭子は気づいていた。理由を言わなかったのに、鮎美にはもうプロポーズしたの? と、小さな声で訊いた。もちろん、鮎美は何も知らない。その朝まで、雄大は自分の本心を誰にも打ち明けたことはなかった。  鮎美に交際を申し込んだのは、それから半年近く経ってからだった。  恭子は嘘をつき通してくれた。別れの原因が鮎美だとはおくびにも出さなかった。だがそれは、雄大の為ではなかった。恭子は鮎美の性格を知っていた。もし自分のせいで二人が別れたのだと知ってしまったら、決して雄大とはつき合わなかっただろう。恭子は、雄大のことをゆるす、とは最後まで言わなかった。その代わりにこう言ったのだ。  あたしね、鮎のことが好きなのよ。鮎には幸せになって貰いたいの。信じられないかも知れないけど、これ、本心なんだよ。  信じたとも。  雄大は、久しぶりで自分の前に座っているかつての恋人を、少し眩《まぶ》しい思いで見ていた。  君のおかげで、俺と鮎美とは結婚出来たんだ。今でも、感謝している。 「ほんと言うとね、プーしてる間に何度か、鮎に相談したいなあって思ったことはあったの。鮎だったら、女が働くことについてしっかりした自分の意見を持ってるだろうなってね。でもさ、やっぱりあたしにも嫉妬ってのはあるわけ……あ、勘違いしないでね、雄大のことじゃないよ」恭子は笑った。「そうじゃなくて、一流の出版社に就職してさ、雑誌記者としてやりがいのある仕事をしてるだろう鮎に対する、嫉妬ね。なんかそういう時ってなかなか、素直になれないじゃない。鮎の顔を見たら相談しに来たことも忘れて、思いきり見栄張って、自分もガンガンやってるぜ、って嘘ついちゃいそうで。だけどその反面、もしかしたら鮎はとっくにお母さんになっちゃって、仕事やめて主婦してるんじゃないのかな、って思うこともあったなあ。結局、そうじゃなかったみたいだけど」 「ちょっと待って」  雄大は驚いた。 「それ、どういう意味だ?」 「どういう意味って……文字通りの意味だよ。あたし、何か変なこと言った?」 「いや……変なことじゃないけど……ただ、その……君が鮎美が出産したら専業主婦になるのが当然だ、みたいに言うもんだからさ」 「ああ、そのことか」  恭子は屈託なく笑う。 「鮎さ、子供が出来たら絶対、専業主婦になるってずっと言い続けてたのよ、昔」 「まさか……」  雄大には信じられなかった。鮎美は、結婚後も働くことを当然の前提にしていたのだとばかり思っていたのだ。実際、雄大がそう提案した時、鮎美は喜んで賛成した。自分も仕事は辞めたくなかった、理解してくれて嬉しい、と言って。それなのに……いったい、どういうことなんだ? 「やっぱり信じられない? そうだろうなぁ」  恭子は頬づえをつき、ストローを口にくわえて一分ほども黙っていたが、それからふうっと溜息をついた。 「そのことであたし、よく鮎と喧嘩したんだよね。喧嘩って言ってももちろん、論争みたいな感じだったけど。でもあたし、母親は家にいないといけない、みたいな鮎の考え方って絶対、間違ってるって思った。鮎みたいに、自分をしっかり持ってる人がそんなこと言うなんて、悲しくてさ……でも鮎は譲らないの。どうしてなのかあたし、ずっとわからなかったんだよね……でも、後で判ったのよ。鮎のほんとのお母さんって、鮎が小学生の時に家出して行方知れずになっちゃったんだって。駆け落ちよ、駆け落ち。パートで勤めていた会社に出入りしてた、営業マンと」  今の義母が鮎美の実の母親でないことは知っていた。義母と義父とは、鮎美が中学生の時に再婚したのだ。だから鮎美には、十三も年下の腹違いの弟がいる。だが鮎美の実の母親のことについては、あえて訊かなかったし鮎美も話さなかった。義父からは、ずっと以前に離婚したとだけ説明されていた。離婚の理由など知らなくてもいいことだったし、興味もなかった。  だがまさか……男をつくって駆け落ちしたなどとは…… 「こんなこと、雄大にしていい話なのかどうかわからないんだけど」  恭子は躊躇《ためら》いがちな様子で、一度雄大を見てから目を伏せた。 「でも、彼女の気持ちも判るんだよね……彼女、恐がってたんだ……彼女の血の中にも、恋におちたら子供を捨てることが出来る、そんな情熱が流れているかも知れないって。そんな馬鹿なこと考えるの、やめなさいって何度も言ったんだけど、トラウマっていうのはさ、他人には想像出来ないくらい、その傷を受けた人間を長く支配するんだよね。彼女も典型的だった。子供が出来たらずっと家にいて、子供のことだけ考えて生きる。それが彼女の理想になっちゃってた……だからね」  恭子は目を伏せたままで、もう一度溜息をついた。 「だからあたし、雄大とならあの子、幸せになれるんじゃないかと考えたわけ。雄大は強い運を持ってる。だからきっと会社では成功して、安定した家庭をつくれる。万一このまま鮎の心の傷が治らなくて、鮎が自分の理想通りに生きようとしたとしても、雄大がそばにいれば理想を実現することが出来るに違いない……ああ、もう。あたしったら、今さらカッコつけてるなぁ」  恭子は笑った。優しい笑いだった。 「というのは、あたしが自分を慰めるのに使った口実なんだけどさ、つまり。でもともかく、あたしはそう自分に言い聞かせて、雄大のことを諦めた。わかった?」 「……わかった」  雄大は言ったが、声がかすれているのに自分で気づいて狼狽《ろうばい》した。 「雄大……鮎美と何かあったの?」  恭子の瞳が、斜め下から雄大を見つめた。 「失業したことで、鮎美と喧嘩した?」 「いいや」雄大は頭を振った。「そのことでは、彼女は何も言わなかったよ……彼女の方が収入も多いし、当面、生活に困るわけじゃないから。ただ……」 「ただ……?」 「わからないんだ」 「……何が?」 「鮎美が……突然言い出したんだ」 「……仕事辞めて、専業主婦になる、って?」 「違う、その反対……俺に家庭に入ってくれって言い出した。俺に、家事をやってくれって。就職しないで、主夫になってくれって、言い出したんだ!」 [#改ページ]    油 断 大 敵      1 「なに、それ」  恭子はきょとんとした顔で雄大を見ていた。 「全然、わかんない。どういう意味よ」 「だから、言った通りの意味だよ」  雄大は、他にどう説明しろって言うんだ、と半ば憮然としながら言った。 「鮎美は俺に、もう就職口を探さなくてもいいって言うんだ。自分の稼ぎでやっていこうって。その代わり、家事については俺に責任を持ってほしい、そう言ってる」 「雄大さ、何か前の会社でよっぽどまずいこと、あったの?」 「別に。よくある権力闘争に巻き込まれて貧乏くじ引かされた、それだけだよ、ほんとに。仕事で大きな失敗をしたわけじゃないし、もちろん、法律違反で手が後ろにまわるようなことやらかしたわけでもない」 「だったら贅沢さえ言わなければ、どこかに働き口はあるでしょう。雄大、まだ若いんだし、貯金だって少しはあるんでしょ。何も今すぐ仕事が見つからないからって、いきなり専業主夫っていう選択は極端なんじゃないの?」 「なあ恭子、それを鮎美に言ってやってくれないかな」 「あたしが?」 「俺がいくら筋道たてて話しても、全然だめなんだ。鮎美の頭の中ではもう、俺を主夫にして家庭に閉じ込めることしかないんだと思う。どうしてそんな馬鹿なことを考え付いたのか、さっぱり理解できないけどね」 「馬鹿なことだとは思わないけど。世の中にはだんなだけが働いて、奥さんは家事専門って夫婦は山ほどいるんだから、その反対がいること自体は別に馬鹿なことじゃないんじゃない。それで生活が成り立つなら、どっちが働こうと夫婦の勝手なんだし。江戸時代から日本にはさ、髪結いの亭主って伝統もあるんだしね」 「それは理屈だよ」  雄大は、恭子まで自分に主夫になれと勧めるのではないかと不安になりながら反論した。 「俺は他の夫婦の話をしてるんじゃないんだ。一般論でもない。俺と鮎美との個人的夫婦生活についての問題なんだぜ、これは。俺と鮎美のケースで、俺が無理して家庭に入って、出来もしない家事をやって、それで鮎美が今よりもっと残業だの何だのって忙しく働いて、しかも夫婦の収入を半分に減らさないとならない理由が、いったいどこにある?」 「そう言われてもね、雄大。あたしはあんたたち夫婦のことをよく知ってるわけじゃないもの。ねえ、鮎は馬鹿じゃない。それは雄大にもわかるでしょ。鮎が言い出したことなら、何か鮎なりの考えがあるのは間違いないと思うのよ。雄大、そのことをちゃんと鮎に訊いてみた?」 「訊いてみたさ。なんでそんなこと考え付いたんだ、いったいどうしたんだって。それにちゃんと謝った」 「何よ、謝ったって、どういうこと?」  いけね、と雄大は心の中で舌打ちした。だが恭子は昔から勘の鋭い女性だった。 「雄大、何か隠してるわね。そうよね、あたし、さっきから訊こう、訊こうと思ってたんだけど、その顔いったい、どうしたの?」  ここで、いや階段で転んでさ、だの、ハイキングで崖から滑り落ちてね、だのといろいろ言い訳してみたところで、そんな嘘の見抜けない恭子ではない。  雄大は覚悟を決めた。 「実は、ちょっとここんとこ、いろいろあったんだ」 「でしょうね」  恭子は腕組みして雄大を見ていた。まるで女教師がいたずらを見つかった小学生にこれから説教を垂れる寸前のような顔をしている、と雄大は思った。 「それで?」 「うん……退職してからしばらく職安に通ったり、前の仕事のコネを頼ったりしてたんだけどさ、なかなか見つからないだろう、仕事。そのうち、なんか疲れてきたって言うのか、その……馬鹿馬鹿しくなったというのか……ある日、ふらっと池袋のパチンコ屋に入っちゃったんだよね……それでふっと気がついたら、毎日通うようになっていて、今度はパチンコ屋から出ると自己嫌悪というか、その……」 「鮎の顔がまともに見られなくなった」 「まあ、そういうことかも知れない。で」 「お酒ね」  雄大はズキッと痛んだ胸を思わず押さえそうになった。 「……うん。夕方家に戻ると飲み始めるようになって、だんだん量が増えた」 「どのくらい、そんな生活続けてたの?」 「……半月……くらい、かな」 「最低!」  恭子は鼻を鳴らすような勢いで吐き捨てた。 「変われば変わるものねぇ。あの雄大が、パチンコとお酒でだらだらと半月ですって? それじゃ鮎が見放したって当然じゃないのよ。鮎は呆れてものが言えなくなって、もうそんならうちで洗濯でもしててちょうだい、って感じなんじゃないの?」 「それは違うと思うんだ」 「違わないわよ。あなたは見捨てられたのよ。もうしょうがないじゃないの、さっさと仕事見つけてがんがん働いて、俺は立ち直ったぞって鮎に見せてやる以外にどうしようもないわよ」 「でも、違うんだ。ちょっと違うんだよ。それだったら俺もこんなに困惑しないんだ。そういうことだったら鮎美にどれだけなじられたって仕方ないんだし、だから心を入れ替えて頑張りますって誓おうと思ったんだけど……そうじゃないんだ。うまく表現できないんだけど……全然、違う感じなんだ」 「なんだかさっぱりわからない。つまり、鮎はあなたが惨めったらしくお酒に溺れてパチンコ屋に入り浸っていたことは、怒ってないってことなの?」 「怒っていなかったわけじゃないと思う……そりゃ、腹はたててたろう」 「当たり前じゃないのよ」 「だけど、何も言わなかったんだ。一度も、文句も嫌味も言わなかった」 「言いたくなかったのよ。鮎ってそういう子だもの、昔から。そんなこと、あなたに言いたくなかったのよ。言ったら自分まで惨めになっちゃうもの」 「そうかも知れない……いや、そういうことだったんだろうな。だけど……俺に主夫になってくれっていうのは、なんか腹立ち紛れに言った言葉じゃないと思うんだ」 「そこがわからないのよね。それで、その顔のわけはどうなってるの? まさかそのことで鮎と大喧嘩してそんな顔に……」 「違うよ」  雄大は、思わず掌で目の下にあるはずの痣のあたりを撫でた。 「喧嘩したって、暴力沙汰なんか起こさないってば、俺たち。これはその……ちょっと事件に巻き込まれたというか。一昨々日《さきおととい》の夜に、真夜中に酒を切らしてコンビニに買いに行ったんだ。そしたら途中でいきなり襲われて」 「襲われた?」  恭子は驚いて大きな声を出した。 「襲われたって、誰に!」 「ぜんぜんわからなかった。顔を見る暇なんてなかったんだ。いきなりガツンと来て、後はなんか袋叩きにされちゃって。俺は頭を殴られたら殺されると思ったんで、ただ丸くなって頭と腹をかばってるだけで精一杯だった。ねえ、所沢では話題になってないかな、オヤジ狩りの話」 「それって、ここ何度か続けて起こった、サラリーマンがお面をつけた連中に襲撃されたっていう、あれ?」 「うん。警察は、俺を襲ったのもそいつらじゃないかって考えてるみたいだった」  恭子は、信じられない、という顔で首を何度か横に振った。雄大自身、他人に話してみるとそれが自分の身に起こったことだとはどうしても思えないほど、現実感がなかった。 「だけど、骨とか大丈夫だったの? まだ入院してないといけないんじゃない?」 「それがね、怪我自体は大したことなかったんだ。痣はすごいけど、見た目ほど痛くもないし。袋叩きにされたのに怪我が軽いんで、警察は、ゲーム感覚でやってることなんじゃないかって言ってたけど」 「だけど、あのオヤジ狩りでは重体になってる人がいたわよ、確か。まだ死亡したって記事は出てないけど、週刊誌にはずっと集中治療室に入っていて意識が戻らないって書いてあった。ゲーム感覚でやったにしては悪質なんじゃないの?」 「そのへんの加減をちゃんと出来ないってのが、犯人は子供じゃないかって説に結びつくみたいだね」 「子供?」 「中学生さ。あるいは、高校生でも幼稚な奴ら。暴力を振るうとその結果どうなるか、想像力が欠けてるんだろうな、今の子供ってのは。結果を全然考えないで行動する。あるいは、結果がどうなろうと知ったことじゃないと最初から開き直ってる。そのくせ、自分だけは守りたいんだ。だから、何歳以下なら刑務所に行かなくて済むか、なんてことだけしっかり調べてある。刑務所に行かなくて済めば、何も罰を受けないのと同じことだとしか考えられないんだろう。親や周囲の人や、自分をそれまで愛してくれてた人たちがどれほど悲惨な境遇に陥るかはまるで想像出来ないんだ」 「そりゃ背景とか事情はいろいろあるんでしょうけど、それにしても雄大、まるで他人事みたいな口振りね」 「実感があまりないんだよね」  雄大は、また痣のあたりを掌で撫でた。 「酔っぱらってたせいもあるんだけど、今でもまだ、あれは本当にあったことなのかなぁって思うくらいなんだ。痛いことは痛かったから、俺が殴られたのは間違いないんだけど、理由も何もわからないとさ、どうしても他人事みたいな感じがするんだなぁ」 「っとに呑気なんだから」  恭子は呆れ顔で一度天井を見てから視線を雄大に戻した。 「それで、一昨々日の晩にそんな大変なことがあって、鮎はどうしてるの? 鮎って昔は気の小さいとこあったけど、精神的に大丈夫なのかしら」 「そこなんだ、問題は」 「どういう意味?」 「鮎美が俺に家事を専門にやってくれなんて変なこと言い出したのは、その事件があった次の夜なんだ。俺、やっぱり、事件があったことと鮎美がそんなこと言い出したの、関係あるような気がしてきたよ、今。こうやって誰かに話してみるまで、その二つを結びつけて考えなかったんだけど」 「つまり、雄大がオヤジ狩りに遭ったことが鮎美に心境の変化をもたらしたって思うわけね」 「それ以外、考えられない」  雄大はひとりで頷いた。 「ずっと二人で働いてきて、お互いにそうやって仕事を持って生活することは認め合っていたはずなんだ。今になって急に、しかもどうして俺の方に家庭に入れなんて言い出したのか……どう考えても、あの事件で鮎美がショックを受けたことが原因なんだ」 「だけど話が繋《つな》がらないじゃないの。あなたが襲われて怪我して、それでどうして主夫になってくれってことになるのよ」 「だから……ああ、なんか話が堂々|回《めぐ》りしてないか。つまり、わからないんだよ、俺には。なあ、こんなこと頼めた義理じゃないのは重々承知の上であえて頼む。鮎美の本心を訊いてみてくれないかな。あいつが何を考えてんのか、恭子になら話すんじゃないかと思うんだ」  恭子は、急に顔つきを変えてクスクス笑った。 「雄大のその、無神経なとこも、昔のまんまだね。頼めた義理じゃないけど頼む、なんて、他の女に目移りして自分が捨てた女に言う言葉かなぁ。しかもさ、その女が心配だからどうにかしてくれだなんて」  雄大は言葉もなく、ただ目をぱちくりさせていた。恭子の口からそんな台詞が出たことが信じられなかったのだ。 「なんて顔してるのよ」  恭子の笑い声が大きくなった。 「あたしがこういうこと言うなんて、意外? 男って、ほんとにムシのいい生き物よねぇ。何でも自分に都合のいいように美化して記憶するんだから。あなたの頭の中ではあたしって、さっぱりした性格で昔のことは綺麗に水に流してくれて、昔の親友の為だったら頼めば何でもしてくれる頼りになる存在でって、まあそんな感じなんでしょうね。だけどね、そう簡単にはいかないのよ、女の気持ちって。鮎のことが好きだから、今でも鮎が幸せでいてくれたらいいなって思ってることは本心だけど、だからって、あなたまで一緒に幸せでいてくれたらいいなんて、これっぽっちも思ってやしなかったわよ、あたし」  雄大はもう顔を上げていることが出来なかった。恭子は追い討ちをかけるように言葉を続ける。 「本当の本心を言えば、鮎が雄大よりもっといい男みつけて、雄大のこと捨てて離婚してって、そういう筋書きがあたしにはいちばん嬉しかったかもね。そんな噂が流れてこないかなあって待ってたのよ、あんたたちが結婚してからずっと。でも雄大は、そんなふうに考えたこと、一度もなかったんじゃない? まあさ、そうだから男は、平気で女房裏切ってソープランドなんか行けるんだろうから、仕方ないのかも知れないけど、それにしても無邪気よね。自分の裏切りはゆるして貰える、忘れて貰えるって神話みたいに信じ込んでる。そのくせたぶん、自分が裏切られたら絶対ゆるせないのよね。そうでしょ? もし鮎が他に男つくって浮気してるってわかったら、あなた、どうする?」 「……どうするって……」 「そんなこと考えてみたこともないんでしょ。想像もしてなかったんでしょ」  恭子は笑いながら身を乗り出した。 「あたしは今、その可能性も考えるべきじゃないのかしら、なんてちらっと思ったんだけど。立場を逆にして考えてみたらどう? もし雄大が浮気して外に恋人をつくっていたとしたらよ、鮎が外に出て働いてるのって、ちょっと恐くない?」 「恐いって?」 「ばったり出逢っちゃうんじゃないかってことよ、他の女をつれてる時に、どこかで。お互いに外に出て働いてるんだから、その可能性は出てくるじゃない。でも鮎が専業主婦になってずっと家にいるんなら、その危険性はぐっと減るわけよね」  そんな考え方は確かに、一度もしたことがなかった。雄大には今、恭子の声が悪魔の囁《ささや》きのように聞こえた。 「……鮎美はそんなやつじゃない」  雄大はやっと言った。 「仮に……仮に他に好きな男が出来たって、そいつと逢うために俺を家においておくなんて、そんな姑息なことを考えたりするくらいなら、別れ話を持ち出すよ」 「鮎ならそうするでしょうね、確かに」  余裕のある口調だった。 「でもね、相手のあることなのよ、浮気にしろ本気にしろ、色恋ってのは。鮎はそんなこと本意じゃなくたって、相手の男が鮎にそうしろって命じたら、惚れた弱味で言われた通りにしちゃうって可能性だってあるわよ」  恭子は肩をすくめてまた笑った。 「まあいずれにしたって、どうなの、雄大。そういう本当は知りたくなかった事実が飛び出してきてもいいって覚悟はあるの? その覚悟もないのに、あたしに鮎の本心を探れだなんて、言われたくないのよね。わかってるのかな、あなたはあたしに、スパイをやれって言ってるようなものなのよ。確かにあたしは鮎のことが心配。だから、鮎と話し合ったり、鮎の悩みを聞いてあげたりするのはぜんぜんかまわない。むしろ自分から今すぐにでも鮎の会社に押しかけたいくらいよ。だけどね、それで鮎の本心がわかって、その本心はあなたに知らせたくないことだったとしたら、どうなるの? まさかあたしに、鮎を裏切っても真実を報告しろとは言わないわよね」  恭子の顔から笑いが消えた。 「そういう男の無邪気さは仕方のないことだから非難する気はないけれど、あたしたち女が、その男の無邪気さに振り回されてどれだけ迷惑してるか、あなた考えたことある? そりゃ男の側も同じことを言うんでしょ、お互い様だって。そう、お互い様なのよ。問題はね、男の側はお互い様だってことをちっとも認めようとしないって点だわ。女を都合よく美化して扱うことで、自分たちの身勝手さを正当化しちゃう点なのよ。あたし、それが腹立つのよね、心底」  雄大は少しだけ顔を上げて恭子の表情を見た。何だか違和感があったのだ。恭子はいったい、何の話を、いや、誰の話をしているんだ?  不意に、ぼんやりとわかった気がした。恭子が勤め先を辞めた理由……そうなのか……恭子は、誰かの身勝手に振り回されてそれで……?  何だか説明のつかない気持ちになって、雄大は身じろぎした。そうなのだ。当たり前のことなのだが恭子だって、あれから恋愛のひとつやふたつ、経験しているのだ。俺は何を自惚れていたのだろう。恭子だけが昔のままに俺に惚れていて、それでも鮎美との友情の為に、雄々しく自分を犠牲にしてくれているだなどと……恭子がぷりぷりするのもわかる。俺の考えていたことは、余りにも滑稽だ…… 「ともかく」  恭子は腕組みをほどいて雄大を真直ぐに見た。 「あたしも鮎のことは気になるから、そのうち鮎には連絡とってみるけどね、でもその結果、鮎があなたに知られたくない秘密を抱えてるってわかったら、あたしは黙ってるわよ。それだけは理解してちょうだいね」      2  胃の中に石でも詰まっているみたいな気分だった。  恭子の辛辣な想像は、雄大にとって苦過ぎた。恭子は悪ぶって見せていたが、ただの悪意、雄大に対しての復讐心からあんなことを言い出したのではないことは、理解出来る。最後に恭子が言ったことは、返す言葉もないほど真っ当だった。恭子が言いたかったのは、鮎美を心配しているような振りをしながら、その実、自分の心の平安だけを考えている雄大は、卑怯者だ、ということだった。実際その通りだったのだ。雄大は恭子に指摘されるまで、自分が知りたくない秘密を鮎美が抱えているなどと考えることすら、避けていた。それがどんなものであれ、鮎美の心にあるトラブルはすべて解決可能なものであって、しかも、雄大が責任を問われたり裏切られたりするような性質のものではないと、何の根拠もなく無邪気に思い込んでいたからこそ、こともあろうに恭子にそれを探ってほしいなどと口にすることが出来たのだ。  まったく恥ずかしい。そして、情けない。  それと同時に、雄大は不安だった。鮎美が浮気うんぬんと考えることもショックだったが、それを今の今まで一度も疑わなかった自分にもいささか呆《あき》れてしまう。なぜなら……なぜなら雄大自身には、身に覚え、があったからだ。  身に覚え。  あれは、どのくらい前のことだったろう。正確に思い出せない俺も俺だな、と雄大は、歩きながら苦笑した。何にしても、鮎美を裏切ったという事実に変わりはない。だが雄大は、それまでそのことが深刻な裏切りだと自覚したことはなかった。  会社の女の子と三回ラブホテルに行きました。以上終わり。  雄大にとっては、それだけのことに過ぎなかったのだ。もちろん恋愛感情などはなかった。一度目はお決まりの忘年会帰り、カラオケボックスで午前一時まで騒いで店の外に出て、家の方向が一緒だからとタクシーに相乗りしていて、ふと気がついたら彼女が雄大の手を握っていた。そしてそのまま、お互いの家がある駅の中間地点にあったラブホテルに入ってしまった。二度目はそれから半月ほどした新年会の帰り、断られるかな、と思いながら雄大の方から誘ってみたら、断られなかったのでまた同じホテルに。三度目、今度は彼女から誘われた。そしてそれが最後になった。彼女が、六月に結婚するので三月一杯で退社します、と言ったから。  誓って、彼女との間にはトラブルも修羅場もなかったし、これで最後という晩にも、彼女は涙ひと粒こぼしていない。とてもあっさりと、お互いに楽しみました、それだけだった。  だが……それだけだった、と思っているのは俺の方だけということは、ないのか?  事実、雄大は恭子との過去を完全に誤解したままひとりで納得していた。恭子はそれを、過去を美化して記憶したと非難したが、雄大にしてみたら特に美化したという意識もなく、恭子という女性はそういう性格なんだ、と思い込んでいただけだった。もちろん、その思い込みは雄大にとって都合のいいものであって、恭子が指摘した通り、無邪気で身勝手で、あまりにムシのいい話だったのだ。だがそんなことにも気づいていないほど、雄大は女性の心理をわかっていなかった。だとしたら、彼女……饗庭《あえば》景子にしたって同じことは言えるのだ。  雄大は全身に軽い寒気をおぼえて、思わず襟《えり》を立てた。  もし。  もしも……鮎美に彼女とのことを知られていたとしたら……  あり得ない。  雄大は首を振って自分の考えを否定した。  鮎美は夫の浮気を知っていながら、黙っているような女性ではない。怒るとか騒ぐとかいうのではなく、黙って何もなかったような顔、何も知らない顔で生活することが出来るほど、嘘をつくことが上手くはないのだ。浮気をしたことが赦《ゆる》せないと思ったなら雄大にそう言っただろうし、赦すつもりでもそう言っただろう。どちらにしたって、鮎美なら何らかの反応をはっきりと見せたに違いないのだ。  関係ない。そう、無関係だ。少なくとも饗庭景子のことは…… 「あら、お買い物?」  いきなり声が掛かって、雄大はびくっとして振り返った。  伏見夫人がどことなく含みのある笑顔で立っていた。 「あ、いや、これから家に帰るとこなんですけど」 「あらだって、こっちは北口よ」 「えっ」  伏見夫人に指摘されて、雄大は慌てて周囲を見た。なるほど、指摘通り、雄大が立っていたのは駅の北口で、自宅マンションは南口から一本道だった。所沢からずっと恭子と鮎美のことばかり考えていたので、間違った改札を出てしまったことに全然気づいていなかったのだ。夕方のこの時間は、大手スーパーのある北口から駅を出る人波の方がいくぶん大きいので、その流れに乗ってうっかり出て来てしまったのだろう。 「夕飯のお買い物なさるなら、ご一緒しません?」  伏見夫人は人なつこい笑顔を見せる。断ってバスに乗った方がいいぞ、という心の声はしていたが、昨日は部屋にあがり込んで昼飯まで食べさせてもらっておきながらスーパーで一緒に買い物するくらいのことを断ったらかえって不自然で、俺の方がいらぬ自意識過剰になっていると思われるんじゃないだろうか、と雄大が迷っている内に、伏見夫人はにこにこしながら並んで歩き出した。 「昨日はご馳走さまでした」  雄大は仕方なく、型通りに対応することにした。 「本当においしかったです」 「あら、いいえ。それよりね、昨日、鳴尾さん、行きませんでした、あなたのところ」 「ああ、はい。いらっしゃいましたね。無農薬の野菜の宅配がどうとかで」 「ごめんなさいね、わたしが鳴尾さんに、草薙さんのところをお誘いしたらって勧めてしまったの。だってねえ、人数が集まらないと困るから誰かを誘ってくれって、あんまりうるさいんですもの。だけどそうそうお誘いなんて出来ないのよ。パンフレットご覧になったでしょう。生協なんかに比べたらとってもお高いんですもの。鳴尾さんっていつもそうなの。ちょっと高級志向っていうのかしら、前にもフランス製の下着の会に無理に誘われて、困ったことがあったのよ。幸いその会社が潰れてくれたんで解放されたんですけどね、何しろパンティ一枚が三千円以上するんですもの。うちのマンションの住民で、そんな下着を毎月何枚も買えるおうちなんて、それこそお子さんがいなくて共稼ぎの、草薙さんのところくらいだわ、ねえ」  女性物のパンティの相場など知らなかったので、雄大は頷くことも出来ずにただ愛想笑いしているしかなかった。それにしても、いったいどういう感覚なんだろう。下着の話なんて他人の亭主に堂々と出来るような話だとはちょっと思えないんだが。  どうも伏見夫人は、どこか得体の知れない雰囲気がある、と雄大は思った。ともかく美人なのは間違いないので、それだけでもそばにいると緊張してしまうのだが、それだけではない、何か……この女性は何か企んでいるのではないか、という感じがしてしまうのである。何しろ、いきなり顔色ひとつ変えずに、パンティの話を持ち出して涼しい顔をしているのだ。まるで彼女にとって、自分は「隣の奥さん」であるかのようで、男としての存在をからかわれているような気分になってくる。 「まあねぇ、鳴尾さんのお気持ちもわからないではないんですけど」  伏見夫人はスーパーのカゴを慣れた手付きで取り、ひとつ雄大に渡してくれながらまた、ニコッとした。 「人間って一度生活のレベルを上げてしまうと、収入が減ったからって急には落とせないものでしょ。鳴尾さん、せめてちょっと高級な小物だの野菜でも注文してうさ晴らししないと、とてもやっていけないんだと思うの」  雄大は、伏見夫人について何も知らないのと同様に、鳴尾夫人についてもほとんど知識を持っていなかった。マンションの自治会の会計をしていること、いつも割合に綺麗な格好をしていることぐらいのものだ。伏見夫人は雄大の表情に気づいた。 「あら、草薙さん、ご存じなかった?」 「すみません、ずっと共稼ぎで夫婦とも昼間はいないから、マンションの中のことに疎《うと》くなっていて」  夫人が笑う。 「いやねぇ、わたしたち専業主婦が、毎日マンションの中の噂話ばっかりしてるみたいな言い方」 「いや、そんなつもりじゃ」 「あら見て! なんて安いのかしら。でもどうしましょう、今日はショッピングカートじゃないから、重たいもの買えないわねぇ」  伏見夫人の視線の先には、特売のサラダ油と醤油《しようゆ》が山ほど積まれている。お一人様各一本でお願いいたします。どちらも二リットルのペットボトルだった。 「いいですよ、僕、持ちます。お買いになるといい」 「あらでも、それじゃ」 「いいです。昨日のお礼です。それはそうとこれ、そんなに安いんですか」 「安いわよ。そうねえ、いつもより、百円以上安いわね」  百円。醤油とサラダ油と二本とも買っても、両方で二百円の得。重さに負けてバスを使って帰ってしまったら、二十円の損だ。うーん。  雄大にはどうも、主婦の「安い」という言葉の意味がよく理解出来なかった。それでも何となくつられて、自分の家の分もカゴに入れてしまう。伏見夫人がカゴを重そうに下げているのを見て、そちらも持ちましょう、と、伏見家の分の醤油とサラダ油も自分のカゴに入れる。 「つまりねぇ、鳴尾さんのご主人って、バブルの頃に不動産屋さんに勤めていらしたわけ」  伏見夫人は店内を物色して歩きながら、さり気なく鳴尾夫人の噂話を続けた。 「何しろあの時代の不動産屋さんって、もう飛ぶ鳥を落とす勢いだったでしょう。鳴尾さんもね、世田谷の方に一戸建てを買って住んでらしたらしいのよ。ご主人、セールスを担当してらして、物件が売れるとそのつど歩合というか、ボーナスが貰えたんですって。だから当時は、年収が三千万近くあったんだそうよ。それがほら、バブル崩壊で一気に崩れて。ご主人の勤めていらした不動産屋さんは九四年頃に倒産。自宅はまだローンがすごく残っていたんで売却したらしいんだけど、一億二千万で買った家がたったの七千万にしかならなかったんですって。五千万円も損が出て、貯金も何も全部なくなって、奥さんのご実家が穴埋めして、それでやっとご主人は自己破産しなくて済んだそうなの。今はご主人、賃貸の不動産屋さんにお勤めしてらっしゃるけど、昔の良かった時代に比べたら収入は五分の一なんですって」 「大変だったんですね」  としか雄大には言えなかった。話自体はまったく珍しくなく、狂乱バブルに踊らされて結果として丸裸になってしまった人間はいくらでもいる。 「鳴尾さんが自分でこぼしてたけど、羽振りの良かった時には毎年何度も海外旅行して、宝石なんかもけっこう買ったらしいのよ。でもいざお金がなくなって売ろうとしたら、宝石っていうのは買い値が五百万以下のものって、資産価値なんてほとんどないんですってね。あんまり安く買い叩かれそうになったんで、結局売らなかったらしいの。だから今でも指輪とかの数だけは持ってるんですって。だけど今の生活じゃ、宝石なんかあったってつけて遊びに行くところがないから意味ないわって。昔はどんなところに遊びに行ってらしたのかしらね、あのひと。あら草薙さん、見て見て! ヒレ肉が特売ですって。うち、今夜はヒレカツにするわ。簡単だし。草薙さんもそうなさったら?」  伏見夫人に腕を掴まれて引っ張られ、雄大は肉売り場の前に立った。このスーパーの肉売り場はパック売りではなく、ケースの中のものを量り売りしてくれる。豚のヒレ肉とベーコンが本日の目玉らしい。伏見夫人が売り場の列に並んでしまったので、雄大もそのまま彼女の後ろについた。 「ヒレカツってどうやって作るんですか」  雄大は、順番待ちの暇にまかせて訊いてみた。 「あら、ふつうのカツと同じよ」 「すいません……僕、ふつうのカツってのも作ったことなくて」  伏見夫人は二、三度まばたきしてから、クスクス笑った。 「草薙さん、自炊したことないのかしら」 「いや学生時代から結婚するまで一人暮らしだったんですが、飯は学食とか定食屋ばっかりで」 「そうねえ、一人だとお料理なんてしても、後片付けの方が面倒ですものね。いいわ、それならうちで一緒に作りましょう。教えてあげます」 「いや、そんなご迷惑かけたら」 「いいのよ、気にしないで」  伏見夫人の声が少し低くなった。 「少しでも節約しないといけないでしょう、仕事が見つかるまでは。お料理を覚えないと、食費が大変よ」  雄大は、思わず口を開けた。伏見夫人は平然としている。だがなぜだ? 前の会社を退職したとは言ったが、今家にいるのは、次の会社に移るまでの休暇なんだと説明してあったのに。どうして自分が失業していることを、この人は知っている……?  伏見夫人は、雄大が口を開く前にくるっと前を向いてしまった。まるで、失業の事実をなぜ知っているのか訊かれるのを避けるかのように。  豚のヒレ肉を買い終わると、伏見夫人は店内をぐるっと一周した。雄大もそれについて歩いて、なんだかんだと伏見夫人のアドバイスの通りに買い物をしている自分に気づいた。ままよ、どうせこうなったらもう伏見夫人の厚意から脱出することは不可能だ、と雄大は開き直った。このまま彼女にヒレカツの作り方を教わって、その上であらためて、なぜ彼女が雄大の秘密を知っているのか聞き出そう。  北口からマンションの方向に向かうにはガードをくぐって南口に戻らなくてはならなかった。歩き出してようやく、サラダ油と醤油とがけっこう効いてきた。主婦というのは毎日、こんなに重い袋をぶら下げて歩いているのかと、雄大はちょっとしたカルチャーショックを感じた。 「冬にはおみかんとか林檎《りんご》が入るから、一層重いのよね」  伏見夫人が言った。 「だからまあ、鳴尾さんの野菜の宅配も、便利と言えば便利なんですけどね」 「伏見さんも参加していらっしゃるんですか」 「ええ、もちろん」  伏見夫人は肩をすくめた。 「嫌だなんて言えないもの、今さら。近所付き合いって本当にめんどくさいってたまに思うことがあるわ……あ、誤解しないでくださいね。鳴尾さんが嫌いとかそういうことじゃないのよ。でも、一度何かでお付き合いしてしまうと、次を断るのがとても難しくなるのよ。最初は洗剤でそれから化粧品、下着、健康食品に野菜の宅配便。別にどれが悪かったということもないけれど、断りたいって思ったことはあるの。でも断れない……ねえ草薙さん、お宅はどうなさるの?」 「何も考えてないんですよ、まだ。あれ、高いんですか」 「少しね。そうねぇ、二割くらい。でも有機栽培は間違いないから、悪いものではないと思いますよ。草薙さんのところ、お子さんは考えていらっしゃるの?」 「あ……まあ」 「だったら母体をより健康に保っておく意味で、いいんじゃないかしら。添加物とか農薬を母体がたくさん摂取していると、生まれた子供がアトピーになりやすいって聞いたことがあるわ」 「伏見さんは……あの」 「子供?」  雄大は、聞いてはいけないことだったんだろうか、と少し後悔した。伏見夫人の眉が片方だけ、ひくりと動いたのだ。 「精子が少ないのよ」  雄大はぎょっとした。パンティの次は精子だ。相手が美人なだけにより心臓に悪い。 「人工授精しかないみたい……主人は嫌なんですって。人工授精してまで子供をつくらなくてもいいじゃないかって言うの。でもわたしは欲しいんです」  伏見夫人は雄大の方を見た。 「男にはわからないのよ……わたしは産みたい。主人がどうしても人工授精が嫌だって言うなら、離婚するしかないんじゃないかって思ってるわ」 「あの、伏見さん、そういうことは」 「美香って呼んでちょうだい」  伏見夫人が微笑んだ。何とも凄みのある笑顔だ、と雄大は思った。 「だめ?」 「いや……えっと」 「だめなのね」  伏見美香は、ふっと笑った。 「つまらないものよね、女なんて。結婚したら伏見さんの奥さん、になっちゃって、自分の名前すらちゃんと呼んでは貰えない。あなたの奥様が本当にうらやましいわ。雑誌の編集者なんて、きっと、会社ではずっと旧姓なんでしょう? 草薙さんの奥さん、じゃなくて、自分の名前を持ってその名前で呼ばれている。わたし……仕事を続けていれば良かった、とつくづく思うわ」 「伏見さん」  雄大は歩く速度を少しゆるめた。 「僕が失業しているってこと、どうしてご存じだったんですか」 「あらだって」伏見美香はまたクスッと笑った。「みんなそう噂してたもの。この半月くらい、草薙さんおかしかったわ。たまにすれ違うとお酒の匂いがぷんとしていたし、池袋のパチンコ屋に通っているっていう噂もあった。ああそう、それにね、職安であなたを見かけた人もいたのよ。加藤さんってご存じかしら、四階の」 「いいや、知らないです」 「定年で前の会社を退職されてね、本当は引退して年金生活するつもりでいらしたのに、息子さんが交通事故起こしてしまって。保険もかけていない車だったらしくて、歩行者をはねて大怪我ですって。それで退職金を賠償に支払うことになってしまって、年金だけじゃ心細いからって就職口を探しに職安に通ってらっしゃるのよ。そこで何度かあなたの顔を見たっておっしゃるの。ごめんなさい、わたし、余計なことしたのかしら。でも……どっちみち鳴尾さんだって他の人たちだって、みんな知っていることよ。ねえ草薙さん。そんなこと隠していたって仕方ないじゃありませんか。この不況ですもの、いろんなことがあるわよ。それでもお宅は奥様がちゃんと稼いでらっしゃるんだもの、まだ運がいいのよ。それにあなたはまだお若いもの、すぐにいい勤め先は見つかると思うわ。わたしね、昨日あなたとエレベーターでご一緒した時、少しもお酒臭くなかったし、とてもさっぱりとした顔をしてらしたから、ああ、一山越えたんだなぁって思ったの」 「一山、越えた?」  伏見美香は頷いた。 「わたしの父も、わたしが高校生の時に失業しました。それからあなたと同じようにお酒と賭け事に溺れたの。うちも母が美容師で、父が働いていなくても何とか食べていくことは出来たのよ。それがかえって、父には辛かったんでしょうね……父が立ち直るまで丸二年かかったわ。でもわたし、憶えているんです。ある朝、父の顔つきが変わっていた。まるで悪い夢から覚めたみたいな……そしてタクシーの運転手として再出発してくれました。昨日の草薙さんの顔、あの時の父の顔によく似ていたの。殴られたことはお気の毒だったけれど、でも、あの事件のせいできっと、草薙さんも悪い夢から覚めたんだろうなって」 「心配してくれていたんですか……僕なんかのこと」 「父のことがあったから」  伏見美香は照れたような微笑みを口元に浮かべた。 「ほんとに余計なお世話だわね、わたし」 「いえ」  雄大は小さく頭を振った。 「……ありがたいです」  他にどう言っていいのかわからなかった。  雄大はその時まで、まるで自覚していなかったのだ。自分がこの一カ月、近所からどんな目で見られているのかということを。自分が噂の対象になり、陰口を叩かれ、笑われていたことに本当に気づいていなかった。  もしかしたら。  雄大の頭をふと、鮎美の顔がよぎった。  鮎美は知っていたんだ……俺が、マンション中の笑い者になっていることを。  鮎美が俺に外で働くなと言い出したのは、そのことと何か関係があるんじゃ……  あれ?  雄大と伏見美香は、マンションの前の緑地にさしかかっていた。公園と呼べるほどのものではないが、花壇と植樹された夾竹桃《きようちくとう》や金木犀《きんもくせい》が少し、それにベンチと滑り台、ブランコが置かれた小さな場所だった。マンションのエントランスに続く散歩道がぐるっとその緑地を取り巻いていて、駅から歩いて来ると自然にその散歩道にたどり着くようになっている。  ブランコが大きく揺れていた。子供というには大き過ぎる少女がひとりでブランコを漕いでいる。  茶色に染めた髪が、夕焼けの中で金色に輝いていた。  あの娘だ!  池袋で俺に絡んだ、あのおかしな女の子!      3  雄大は少女に声を掛けようかどうしようか迷った。少女はちらっと雄大を見た。だが不思議なことに、雄大を無視してブランコを漕ぎ続けている。 「知ってるお嬢さん?」  伏見美香がそっと訊く。雄大は答えに困った。知っていると言えば知っているが、知らないと言えばまるで知らない。 「いやその、今日池袋で見かけた子かな、と」  伏見美香はじっとその少女を見つめていた。それから小さな声で言った。 「……沙帆《さほ》……ちゃん?」  ブランコが停まった。少女は立ち上がり、それから、くるっと後ろを向くと声を掛ける間もなく駆け出して行ってしまった。 「人違いなのかしら」 「ご存じの子なんですか」 「……そうじゃないか、と思ったんですけどでも……人違いだったみたいね。最近の若い子ってみんな同じように髪を染めて似たような格好してるから、顔の区別がよくつかないわ」  伏見美香は笑って肩をすくめた。 「青桐沙帆ちゃんってね、うちのマンションに昔住んでいた女の子がいたの。昔って言っても、草薙さんたちが入居する半年くらい前のことだったと思うけど。青桐さんのところ、離婚したのよ。それで沙帆ちゃんはお母さんに引き取られたんじゃなかったかな。ともかく離婚の時に引っ越ししてしまったんで、それから逢ってないわ。あの頃小学校低学年くらいだったはずだから、今は中学生? さっきの子に沙帆ちゃんの面影があったように感じたんだけど、気のせいだわ、きっと。今頃になってあの子がここに来る理由なんかないもの」 「その子はどこに引っ越ししたんですか」 「さあ、詳しいことは知らないの……確か、下町の方じゃなかったかしら、墨田区とか江東区とかあっちの方よ。でもあの子は沙帆ちゃんじゃないと思うわ。沙帆ちゃんは、とっても素直で人なつこい子だったのよ。今の女の子、相当すれてる感じがしたもの」  小学校低学年から中学生に至る数年間は、子供の心もからだも驚くほど変化する。素直で人なつこかった女の子が、すれて生意気な中学生に変身しているというのは別段、不思議でもなんでもない。  今まで数年間暮らしてきて雄大は、自分の住んでいるマンションにも様々な事件が起こり、噂が流れ、秘密が生まれていることなど考えたこともなかった。雄大にとってこのマンションは自分の寝床のある建物、というだけのものだったのだ。その点はたぶん、鮎美も似たような感覚だったと思う。二人とも猛烈に忙しく、マンションだの地域のことだのに積極的にかかわっている暇などなかったのだ。昨年かり出された町内運動会で話を交わして、初めて顔と名前が一致したような同じフロアに住む隣人もいたくらいだ。  だが、このマンションにも毎日様々なことが起こっているらしい。そして、あまり大きな声で話すことが出来ない秘密もどうやら、いくらかはあるようだ。  しかし、雄大はそうしたことを深く知りたいとは思わなかったし、鮎美がどう頑張ろうと専業主夫などにはなるつもりなどさらさらなかったから、今こうしてマンションの奥様連中と何となくかかわっているような状態になっていること自体、かなり鬱陶しいと感じていた。それでも、他人である自分のことを心配してくれていた伏見美香の気持ちは、素直に受け取ろうと思った。美香が自分の父親について語った言葉には、おせっかいだの余計なお世話だのとはねつけることなどとても出来ない、切実な響きがあった。彼女にとっては昔の父親を思い出させる雄大の状態が正視にたえないものだったのだろうし、それだけに雄大が最悪の時を脱したと知った時には理屈抜きにホッとしたのだろう。  伏見家のキッチンで悪戦苦闘して、雄大はヒレ肉に塩|胡椒《こしよう》し、マスタードを塗り、小麦粉をはたいて溶き卵にくぐらせ、パン粉をつけるという一連の儀式を教え込まれた。 「マスタードを使うのはわたしの流儀なの。ヒレ肉ってね、柔らかいし、脂が少なくてさっぱりしてるけど、独特の臭《にお》いがあるのよ。マスタードを塗ってから衣をつけると、その臭いが気にならなくなるの」  そう説明されても、これまでヒレカツを食べて匂いのことなど気にしたことはなかったので、ただ頷くしかない。しかし肉に衣をつける作業は思っていたよりも楽しかった。料理というよりは工作のようだ。 「衣をつけたら、パン粉が落ち着くまで少しこのまま置いておくの。その間にキャベツを千切りにしたりお味噌汁を作ったりすればいいわけだけど……草薙さん、キャベツを切ること出来ます?」 「出来ません」  雄大は言った。 「大丈夫よ」  伏見美香は笑顔で、流し台の下から何やら、ハンドルの付いたプラスチックの箱のようなものを取り出した。 「これがあれば簡単。万能スライサー。通信販売で買っちゃったの。ね、こう、こう、こうやればいいの。ほら!」  雄大はその箱のようなものが魔法のように簡単にキャベツの千切りを生み出していくのを、半ば感動しながら見ていた。 「ほんとだ……これ、すごいなぁ」 「やってみて。簡単だから」  雄大は言われた通りにキャベツの断面をスライサーの刃に合わせてハンドルを回した。 「わあ、出来た出来た!」 「ね、楽しいでしょう」 「いや、ほんとだ」  雄大はすっかり夢中になっていた。カツの衣付けにしてもスライサーにしても、それまで経験したことのない類《たぐ》いの面白さだ。  ふと、顔のそばにあたたかいものを感じて、雄大はハンドルを回す手を停めた。 「嬉しいわ」  異様に甘い声が耳もとで囁く。 「わたしね、これを通販で買って、とっても楽しかったので主人に見せたのよ、その晩。ほらみて、こんなに簡単にキャベツが千切りに出来るのよ、すごいでしょうって。うちの主人、何て言ったと思う?」  伏見美香の小さな溜息が、雄大の耳をくすぐった。 「女なんてのは気楽でいいよな。そうやって楽することばかり考えてりゃいいんだから。キャベツの千切りくらい真面目に作ったらどうなんだ、どうせ暇を持て余して昼寝ばっかりしてるくせに……そう言った」  雄大は美香の顔を見た。美香は唇を噛んでいる。 「あの人はそういう人なの……そういう男なのよ。あなたは違うのね、草薙さん」  不意打ちだったので避けようがなかった。油断大敵、だから伏見夫人のことは警戒すべきだと、あれほど自分に言い聞かせていたのに……  そう言えば、鮎美以外の女とキスしたのは、饗庭景子と最後にホテルに行って以来だな、と、雄大はぼんやり考えていた。 [#改ページ]    天 罰 覿 面      1  いったい、あれは何だったんだろう?  頃合に揚がったヒレカツを並べた皿を抱えたまま、雄大はしばらくソファに座ってぼーっとしていた。  伏見美香の唇が自分の唇に触れた、と思った途端、条件反射で舌が出てしまったのは非常にまずい。まずかった。だが、美香はすぐに、まるでゴムのボールが弾んだような軽やかさで雄大のからだを離れ、千切りにされたキャベツを皿にどうやって盛りつけたらいいのか、雄大に説明し始めたのだ。その有り様があまりにも自然だったので、雄大もとにかくキャベツの方へと神経を集中させてしまい、その後は、衣をつけたヒレカツを油で揚げる、という本日のメインイベントに気を取られてしまっていたので、出来上がったヒレカツを持たされてドアの外へと追い出されるまで、さっきのあれはいったい、どういうつもりなのでしょうか、という質問も出来ずに終わってしまった。  だが、あらためて質問などしなくて良かったのかも知れない、と雄大はヒレカツを眺めながら考えた。  あれはただの、伏見美香の気まぐれだったのだ。自分の夫への不満が鬱積《うつせき》してあんなことをつい、してしまったが、内心は後悔しているのだろうし、出来ればもう、思い出させずにいてほしいと考えているに違いない。だったら俺も、忘れるのがいちばんだろう。  冷凍庫に保存してあったゆうべの残り御飯をレンジで温め、キャベツとヒレカツを二人分の皿に盛りつけて、後は伏見美香に手順だけ教えて貰った味噌汁を作る。具は冷蔵庫の残り物でいいのだと言っていたが、何も残っていなかったらどうしたらいいんだろう……残っていた。雄大は、昨夜カレーを作った残りの玉葱を掌で転がした。これで何とかなるんだろうか。野菜ならたいていのものがお味噌汁の具になるのよ、と美香は言っていたが……  ふと、雄大は思い出した。  ずっと昔。いったいどのくらい昔なんだろう……ともかく、自分はまだ小学生だった。玉葱が嫌いだったのに、味噌汁の具が玉葱だった。駄々をこねたが聞いて貰えず、しつこく粘ったら親が怒った。一片残らず味噌汁の具を食べるか、さもなければ何も食べずに自分の部屋へ行け、と怒鳴られた。理不尽だ、と思ったが仕方ない。腹が減っていたので玉葱と格闘する方を選んだ。味など憶えていない。ただもう必死で口に玉葱を詰め込み、呑み込んだ。味噌汁の中でやわらかく煮えていた玉葱は口の中でどろどろになり、噛まなくても楽に喉を通っていった。  不思議なことに、あの時を境に玉葱がさほど嫌いではなくなった。好き、と言えるところまではいかなくても、料理の中にまぎれていても気にしないで食べられるようになったのだ。  雄大は必死に記憶をたどった。あの時の味噌汁の中の玉葱は、どんな形をしていたっけ?  確か……細長かったような。  しかし。  雄大は掌の上の野菜を見る。玉葱は丸い。どうやれば細長く切れるのだろう。やはり、一枚ずつむいて並べて細切りにするのかな。  十五分後、雄大は洗面所で顔を洗っていた。冷たい水の中で瞬《まばた》きを何度かすると、ようやく激しい痛みが取れた。玉葱を刻むと涙が出るのだ、という知識はもちろんあったのだが、まさか、こんなに痛いものだったとは。昨夜、カレー用に適当にざくざくと切った時には感じなかったのに。いったい何が悪かったんだろう。やっぱり時間をかけて切り過ぎたからだろう。でも仕方がないじゃないか、野菜を細長く切るのはけっこう難しいんだから。  雄大は顔の水気を拭《ふ》き取ると、はたと気づいて自分の書斎に入り、プールで泳ぐ時に使うゴーグルを探した。そう言えば最近、ジムにも行っていない。からだが重たい気がするのは、半月以上も酒びたりになっていたせいばかりではないのかも知れない。運動不足なのだ。  水泳用のゴーグルを付けると視界は極端に狭くなったが、玉葱に泣かされることはなくなった。これはいい。こんな新兵器があることを、伏見美香は知っているだろうか。知らなかったら教えてあげよう。彼女だってきっと、玉葱には泣かされているに違いないのだ。  悪戦苦闘の果てに玉葱は無事、鍋の中に収まった。出汁は昆布を入れておいたからあれでいいだろう。煮えたら味噌をとく。一丁上がりだ。  七時のニュースを見ながら、雄大はダイニングテーブルに肩ひじをついていた。  なぜ俺は、鮎美を待っているのだろう。鮎美は今夜もきっと遅い。そんなことは当たり前なのだ。待たずに食べて、ビデオでも観よう。  だが、一向に箸を持つ気になれなかった。ゆうべもそうだったな、と雄大は思う。ひとりで飯を食うことなど慣れっこのはずなのに、いったい、なぜなんだ。  伏見美香の苛立ちが、何となく理解出来るような気がした。そう、彼女は苛立っているのだ。苛立っているから、あんな突拍子もない行動に出てしまったのだろう。  不思議なものだ、と雄大は思った。  外に出ていれば、ひとりぼっちでいることはさほど辛くない。誰も知らない定食屋に入って夕飯をひとりで食べることなど何でもない。一人暮らしの時代には、毎日がそんな生活だった。それなのに、こうしてひとりで「家にいる」というのは、思っていた以上に気持ちが落ち着かないものだった。たぶんそれは、この「家」、この「部屋」が、二人で暮らす為に用意されたものだからなのだろう。あらゆる物が二人分ある空間だから、一人でいるのがこたえるのだ。  しかし、いつまでも新婚の新妻みたいに鮎美を待っているのも馬鹿げている。雄大は決心して冷蔵庫からビールを取り出し、自分の皿に盛りつけたヒレカツを食べ始めた。  すっかり冷めているのに、旨かった。ファミレスで食う一口カツ定食とはえらい違いだ。あんなに簡単に作れるのにこんなに旨いなんて。しかも、特売だったせいで肉代も格安だった。何だか得した気分になる。そうか、この気分か、と雄大はひとりで合点した。伏見美香が百円安いサラダオイルを買って鼻歌を口ずさんでいた、あの感覚とは、こいつなのだ。何だか得した気分。これが、主婦の醍醐味ってやつ、かな?  ヒレカツはあっという間になくなった。キャベツも食べてしまうともう、ビールのつまみに出来るものがない。味噌汁は飯にとっておくとすると……そうか、おかずが足りないのだ。雄大はそのことに気づいて、また一人で頷いた。ヒレカツとキャベツだけでは品数が足りない。なるほど。伏見美香はこの他にいったい、何を作ったんだろう。  雄大は立ち上がって冷蔵庫を開けた。卵以外に、すぐに食べられそうなものは入っていない。そうなんだ、と雄大はまた納得した。夕飯の買い物に行ったら、ついでにいろいろ買っておかないとならないわけだ。さもないと、夕飯を食べ終わったらまた冷蔵庫が空になってしまう。そう言えば伏見美香は、何だかんだといろいろカゴに入れていたっけ。  チーズが少し残っていたのはラッキーだった。雄大は、卵を取り出して割りほぐしてから、中にチーズを細かくちぎって放り込み、フライパンで焼いてみた。鮎美がたまに朝食に作っているチーズオムレツが出来る、と思ったのだ。だが、出来なかった。  なんでなんだ。どうして俵形にならないんだ!  しかも、外側が破れてチーズが溶け出して、焦げてしまった。憮然としながら、焦げた卵焼きの出来損ないを皿に取る。少し味見してみてやっと気が付いた。卵に塩を入れるのを忘れていたのだ。まあいい、ケチャップで食えばいいんだ。  初めは一枚の皿に盛ろうとした。一個しか作らなかったんだし、二個目に挑戦する意欲は失せている。だが、結局雄大はフライ返しで卵焼きの出来損ないを半分に切って、二枚の皿に載せた。ケチャップを手にするといたずら心が起きる。片方に、あゆみ、とケチャップで書いた。ゆ、がうまく行かずにあ●みにしか見えない。それでもいちおう満足して、もう一個にどばっとケチャップをかけ、テーブルに戻る。ビールはぬるくなっていた。ケチャップまみれの卵を口に頬張ると、口の中で焦げたチーズがケチャップと混じりあう。いける。俺ってけっこう、料理の才能があるのかな。呑気に考えながら、雄大は不思議と楽しかった。ケチャップでいたずら書きしたことなんて、ほんとに何年ぶりだ?  ニュースは終わって、ドキュメンタリー番組をやっている。今夜のテーマはストーカーか。またか、という気がしないでもないが、それだけストーカー事件というのが多いってことなんだろうな。ふーん……  突然鳴り響いたベルの音に、雄大は驚いて箸を取り落とした。  何のベルだ? 音は外の廊下から鳴り響いている。そうか、非常ベルだ!  雄大は玄関まで走ってドアを開けた。すさまじい音で鳴り続けているベルに驚いて、ばたばたとあちらこちらのドアが開く。伏見夫人の顔ものぞいた。 「何かしら?」 「火事だ!」  廊下のどこかで誰かが叫んだ。 「火事だよ、火事!」  悲鳴があがる。伏見夫人はおびえた顔で雄大を見ていた。誰かがエレベーターに突進して行く。 「駄目ですよ!」雄大は叫んだ。「エレベーターなんか使ったら駄目です! 停電したら閉じ込められますよ!」  言われて振り向いた男は廊下でたまにすれ違う伊東という名の老人だった。伊東は一言も言わずにエレベーターから離れると階段に向かう。その後に何人もの住人が続く。非常ベルは一向に止まらない。 「ともかく逃げましょう。ほんとに火事だったら、早い内に下に降りないと」  雄大は伏見夫人の腕を引っ張った。 「どこが火元なのかしら」 「わかりませんね。ほんとに火事なのかどうかも。でもベルが鳴ってるってことは、何か起こったんです。外に出た方がいい」  二人が階段を降りている最中に、どんどん人が増えていった。前の人の背中に足が触れそうになってひやっとする。運悪く誰か一人が転がり落ちたりしたら、まとめてみんな大怪我だ。雄大は慎重に急いだ。ようやく一階の玄関ホールにたどり着いてほっとした。 「火元はどこなんだ!」  誰かが叫んでいる。 「何があったの? 誰か死んだの?」  物騒なことを言っているのは鳴尾夫人らしい。 「管理人はどこ行った!」 「警察は呼んだのか?」 「消防署でしょ、警察じゃなくて!」  みんなが一斉に喋り出したので収拾がつかなくなった。 「すみません、落ち着いて下さい! わかりました、火元がわかりましたぁっ!」  管理人の水谷のしゃがれた声が響いた。 「こっちです」  ホールの人波が水谷と一緒に移動する。雄大もついて行った。マンションの横手の、ゴミ集積場だった。不燃ゴミと燃えるゴミ、資源ゴミ、廃品回収、などと書かれたプレートが貼られ、そのプレートごとに仕切りが設けられている。  一番左端の廃品回収用スペースの中に、火元はあった。  黒焦げになった新聞紙の束。  放火だ。      2 「廃品回収は水曜日って決まってるのに、誰が出したのかしらねぇ、こんなもの」  鳴尾夫人の声が背後から聞こえて、雄大はやっと我にかえった。放火されたことよりも回収日を守らなかったことの方が重大だという感覚の是非はさておき、確かにその問題は検討してみる価値はある。つまりこの廃品回収用スペースは、本当なら今夜は空っぽであったはずなのだ。だが今、そこには新聞紙の束が二つ、律儀に紐でくくられて置かれていた。と言っても、紐も新聞紙自体も黒焦げで、よく見なければ判別はつかなかったが。 「それにしても危なかったな」  雄大は焦げた紙の束に近付いた。鼻をくんくんさせてみたが、灯油などの臭いは感じない。 「灯油をかけて燃やしたわけじゃないみたいだ……ただ紙に火を点《つ》けただけだから、途中で消えたんだな」 「消えなかったら火事になっていたのかしら」 「可能性はあると思いますよ。建物は鉄筋でも、ほら、上の階のベランダにはダンボール箱なんかが置いてある。あそこまで火の粉が飛んでいたら、燃え移ったかも知れない」  遠くにサイレンの音が聞こえてきた。遅まきながら消防車が到着したのだ。 「無駄だったね、通報して」  誰かが言ったが、雄大は頭を横に振った。 「いや、大事ですよ。放火だとしたら警察に通報しなくてはいけない。放火の捜査には、初期段階での科学的な分析が不可欠です。消防署にきちんと調べて貰うことが大切なんです」 「詳しいのね、草薙さん」  声を掛けてきたのは、それまでほとんど話をしたことのない小松家の奥さんだった。夫の小松仁太郎は齢《よわい》七十にして未だに現役の剣道師範として、町道場で子供たちに剣道を教えているらしいのだが、最近はあまり会うことがない。以前は早朝からマンションの周囲を竹刀を持って走っている姿をよく見かけたのだが。奥さんの方は、妻ではなく娘だと言われても納得してしまえるほど若い。四十歳代なのだろうが、下手をすると自分とそう違わないのではないか、という感じがする。確か、二十歳ぐらいの息子と三人で暮らしていると聞いた憶えがある。 「草薙さんって、警察かどこかにお勤めでした?」 「いいえ、ただ昔、わたしの住んでいた町でも放火事件が相次いだことがあったんですよ」  雄大は、口にしてみて初めてそのことを思い出した。もう十年以上も昔、学生だった頃の話だ。 「逮捕されたんですか、その放火犯」 「どうだったかな」雄大は思い出そうとした。「確か、捕まらなかったんじゃないかな。幸い怪我をした人とか死者は出なかったんですけどね、被害は多かったですよ。わたしの住んでいた学生マンションもやられたんです。階段に置かれていたゴミの入ったダンボールに灯油をかけて火を点けられました」 「恐いわねぇ」  小松夫人は両腕で自分のからだを抱くようにしてさかんにさすっている。 「なんで放火なんてするのかしら」 「病気なんだよ」  背後の声で、夫の小松氏も一緒だということにやっと気づいた。影の薄い男だ、と、ふと思う。 「放火魔ってのは病人なんだ。炎を見て興奮し、火事を見て驚いたり騒いだりしてる人たちを見てまた興奮する。その興奮に病みつきになるんだ」 「あらそしたら、捕まっても罰せられないの?」 「なんでだい」 「だって病人なら罰することは出来ないじゃないの」 「いや、だからね、それは……」  小松夫妻はもともと議論好きなのだろう、周囲に山ほど人がいるのも構わずに、自分たちの会話に没頭し始めた。  雄大は、憔悴した顔をして呆然と立っている水谷の肩を叩いた。 「消防署が来ましたよ。説明に行かれた方がいいんじゃないかな」 「草薙さん」  水谷は心細げに頭を振った。 「わたしは信じられないですよ、なんだってこんなこと」 「放火魔なんて、どこにでもいるものです。放火事件というのは、どんな小さな町でも何年に一回かは起こるんだって、昔警察の人が言ってましたよ。あなたの落ち度ではないですよ」 「でも、新聞紙が出されていることに気づかなかった」  水谷はすっかりしょげていた。 「夕方見回りに来た時には出てなかったんですよ。ほんとなんです。ああ、出ていたと気づいていたらそのままにしてなんか置かなかったのに……」 「あなた」  声に振り向くと、鮎美が立っていた。顔が白く見えるほど血の気がない。 「……どうしたの? 消防車が来てる」 「小火《ぼや》だよ」  雄大は安心させようと笑顔になって見せたが、鮎美の目はもう、廃品回収用スペースに釘付けだった。 「どうして新聞紙が……」 「規則を守らない人がいると困るよね。ちゃんと水曜日に出して貰わないと」  鳴尾夫人直伝のボケをかまして、また笑ってみる。だが鮎美の唇が少し歪《ゆが》んだだけだった。 「……放火、なのね……」  鮎美の声は震えていた。鮎美は怖がりというほどではなく、ずっと以前に駅から帰る途中でひったくりに遭った時も、バッグを盗んで逃げた原付バイクのナンバーをしっかり記憶していて警察に告げたほど冷静だった。その鮎美が、放火とは言っても新聞紙を焼いただけの小火に、ちょっとおびえ過ぎじゃないか……雄大は、違和感をおぼえた。だが口には出さずに鮎美の肩を抱いた。 「大丈夫だから、もう部屋に戻ろうよ。腹、減ったんじゃないの?」  鮎美が頷いたので、雄大はそのまま階段をのぼった。五階までのぼるのは大変だったが、エレベーターホールは人で一杯で、待っていたらいつ乗れるかわからない状況だったのだ。  並んでいる列のいちばん後ろに伏見美香が見えた。雄大は会釈だけして通り過ぎようとしたが、鮎美が立ち止まった。 「伏見さん」  鮎美が声を掛けると伏見美香はちらっと眉をあげて反応してから笑顔になった。 「草薙さんの奥様。今、お帰りですの?」 「昨日は主人がご馳走さまでした」  鮎美は頭を下げた。雄大はぎょっとした。昨夜の会話をいくら思い返してみても、伏見宅で昼飯をご馳走になった話はしていないはずだ! 「あらまあ、いいえ」  伏見美香はにこやかに笑った。 「残り物でしたのよ。すみません、お粗末で。たまたまコンビニに行こうとしていて、一緒になりましたからお誘いしちゃいましたの。今夜のはどうかしら、ご主人、一所懸命お作りになりましたのよ。気に入っていただけるとよろしいんですけど。ほら、わたしって臍《へそ》曲がりなので、お料理の本なんかとは作り方が違うものですから」  鮎美がちらっと雄大を見る。説明してる隙はなかった。 「楽しみにしています」  鮎美の頭の回転は相変わらず速い。 「今、主人から聞いたところなんです。本当にありがとうございました」  階段をのぼりながら、雄大は今さっきの会話について説明をしようと試みた。だが、鮎美の表情がそれどころではない、と雄大を制した。鮎美の顔は、ますます白く色が抜けている。 「鮎美、からだの調子、悪いの? やっぱエレベーターにしたら良かったな」 「ううん」  鮎美は微笑もうとしたが、ひどく痛々しかった。 「ごめんね、ただお腹が減ってるだけよ。今日ね、お昼食べ損ねて、おやつにケーキを一個だけなの。ねえ雄ちゃん、伏見さんにお夕飯、作って貰ったの?」 「え、あ、いやその……いちおう、俺が作ったんだ。えっと、スーパーで伏見さんに会ってさ、ヒレ肉の特売してたんで伏見さんが、ヒレカツなら簡単よって言うもんだから買ったんだけど、作り方がわかんなくてさ、それでその」 「雄ちゃん」  玄関のドアの前で、鮎美が言った。 「ありがと」  鮎美の唇が雄大の頬に軽く触れた。  雄大は不謹慎にも、伏見美香の唇の感触を一瞬思い出し、後ろめたさについ、鮎美の脱いだ靴を揃えてしまった。      * 「本当においしい」  鮎美は、雄大がオーブントースターで温めたヒレカツに感動し、箸でつまんで断面をしげしげと見ていた。 「この黄色いの、マスタードよね」 「伏見さんのアイデアらしいよ。ヒレ肉は臭いがあるからとか言ってたけど、ヒレって臭うかなぁ。俺、今まで気づかなかったよ」 「内臓に近い部位のお肉だから、いくらか臭いがあるのよ。でもマスタードはアイデアね。思いきって洋カラシでもいいかも知れないけど。伏見さんってお料理、上手なのね」 「うん。昨日のナポリタンも激ウマだった。でも鮎美、どうして俺が昨日、伏見さんのとこで昼飯ご馳走になったの知ってるんだ?」 「ねえ雄ちゃん、雄ちゃんはどうして、そのことあたしに隠した?」  うーん、と雄大は腕組みした。 「隠したつもりじゃないんだけどさ……その、何て言うのか、鮎美が不愉快になるんじゃないかって」 「隠された方が余計、不愉快」  鮎美は唇を尖らせて見せたが、すぐに笑った。 「このマンションで人妻の部屋に失業中の男が入り込むみたいな派手なことして、隠しておけるなんて思わない方がいいみたいよ。今朝ね、出勤途中で川口さんの奥さんと電車が一緒になったのよね。それで川口さんから教えて貰ったの」 「なんて言ってたんだ?」 「川口さんも人から聞いたみたいよ。おたくのご主人と伏見さんが、昨日コンビニで一緒に買い物して、お昼も一緒に召し上がったみたいですよ、って」 「よくそういうおせっかいなこと、言えるよな」 「川口さん、国家機密を喋るみたいな顔で教えてくれたわ」  鮎美は笑いながら、ヒレカツの残りを口に詰め込んだ。 「でもあたし、もう慣れちゃった。この一カ月余り、マンションの中であたしと雄ちゃんのこと、いろいろ噂されてるの気づいてたから。もともとあたしたち夫婦って、あんまり評判、良くなかったみたいなのよ。共稼ぎって言っても奥さんがちゃんと夕方に戻って来るみたいな古典的パターンじゃないでしょ、うちって。お互い出るのも帰るのも不規則な時間で、ハウスクリーニングが月に何度も出入りする。ああ、あそこんちは女房が家事をやらないんだな、ってまずそれを白い目で見られるわよね。その上、あたしたち、自治会の総会も委任状ばかりでまともに出なかったし。二人で稼ぎまくってどこかに一戸建てでも買って、そのうち出て行くつもりなんだろう、そう思われてたのよ、ずっと」 「そんなふうに思われてたなんて、考えたこともなかったな……て言うより、マンションの他の住人が何を考えてるかなんて、気にしたことがなかった」 「あたしも、そう」  鮎美は味噌汁の玉葱を箸の先でちょっとつまんでから、口に入れた。 「おいしーい」 「そう?」雄大はちょっと得意だった。「切るのに苦労したんだぜ。ともかく鮎美……ごめんな。ほんと、ごめん。俺、自分が噂の対象になってるなんて意識、なかったんだ。ずっと鮎美に恥をかかせ続けてたなんて、考えてもみなかった」 「恥だなんて思ってないわ」  空腹だったというのは嘘ではないらしい。鮎美はよく食べる。 「あたしたち夫婦の問題なんだもの、恥とかそういうことじゃないでしょ、もともと。だって、他人に迷惑かけてたわけじゃないんだから。でもね、少しは反省したの。やっぱり自分が住んでる場所なんだから、このマンションのことについてもっとちゃんと考えていないといけなかったんだな、って」 「だけど鮎美、まさかマンションの住人と交流する為に俺に家にいろって言うんじゃないんだろ」 「その話、今はしたくないな」  鮎美は小さく溜息をついた。 「あたしは雄ちゃんに家にいてほしいと願っています。今でも。でも雄ちゃんが外で働きたいと言うんなら、それを止める権利はあたしにはないものね」 「そういう言い方はよせよ。権利とかそんな問題じゃないだろ。二人のライフスタイルをどう選択するかの問題なんだぞ」 「でも仕方ないじゃない……雄ちゃんが嫌なら、実現しない話なんだもの……あたし、諦めるわ。雄ちゃんの仕事が見つかるまで、束の間楽しませて貰います」  鮎美はチーズが焦げた卵焼きに箸をつけた。 「あたしの名前だ」  無邪気に笑う。 「嬉しいな……」  鮎美の言い種《ぐさ》がどこか気に入らなかったが、自分が嫌だと言えば実現しない話なのだから諦める、という言葉には正直、雄大はほっとした。  そうなのだ。要は一日も早く仕事を見つけることだ。料理というのはけっこう楽しいものらしいが、趣味にすればいいのであって、仕事にする必要はない。たまの休みに、鮎美を喜ばせる為にヒレカツを揚げるくらいのことなら、これからいくらだってしてやるさ。      3  放火であることははっきりしていたので、その晩は遅くまで警察がマンション中をうろついていた。雄大の部屋にも担当の警察官が事情を訊きにやって来たが、雄大も鮎美も、放火犯の手がかりになるような情報は持ち合わせていなかった。灯油やガソリンが使われていないことから、子供がいたずらでやったことだという見方が有力だと制服警察官が教えてくれたが、警察が本当は何を考えているのかなどわかるはずもない。最近、見かけない顔がマンションの周囲をうろついていなかったか、とか、何かいつもと違うことが起こっていないか、といくら聞かれても、普段からマンションの中のことについては無関心で過ごしていた二人だったので、さあ、としか答えられなかった。  ただ雄大は、ひとつだけ迷っていた。公園でブランコに乗っていた少女。  伏見美香が、以前にこのマンションの住人だった男の娘ではないかと言った、あの女の子。  見かけない顔、という点では、あの女の子をマンションの近くで見かけたのは初めてのことだったし、その前に池袋でつきまとわれたという事実がある以上、警察に話しておいた方がいいのかも知れない。しかし雄大にはどうしても、あの娘が放火犯だとは思えなかった。彼女は明らかに学校をさぼっていた。もし警察に雄大が余計なことを言ったためにそのことがあの娘の親にわかり、一悶着《ひともんちやく》起きるようなことにでもなれば気の毒だ、という気がしたのだ。学校をさぼった経験など、雄大にもいくらでもあった。雄大の場合は高校に入ってからだったが、欠席届けの親のサインを偽造してロックバンドのコンサートに出かけてしまったことだってあるし、遠足の朝に弁当を持って家を出たまま、急な腹痛で、と電話連絡して原宿に遊びに行ってしまったこともある。いずれも後で親から滅茶苦茶に怒られたが、三十を過ぎてから思い返せばごく自然なことだったようにすら感じられる。十代の頃に、毎日律儀に学校に通っていて何の苦痛も感じないということの方が不自然なのだ。まあ中学だと義務教育中だからまずいのかも知れないが、それにしたって、学校をさぼったというだけだったら、雄大はあの娘を非難しようとはさらさら思わなかった。  ただ……援助交際を日常的にやっているのだとしたら、かなり問題ではあるのだが。  そのあたりは判断が難しい。もしあの娘がいつも雄大にしたように、大人の男につきまとって金をせびったり食事をたかったりしているのだとしたら、当然、その見返りに要求されるだろう代価は支払っているはずだった。だとしたら、そうしたことは一刻も早く親に知らせるべきだろう。取りかえしのつかないことになる前に。妊娠や性病だけでなく、覚醒剤の誘惑や暴力団員との関わりなど、売春をしていれば避けることの難しい罠《わな》が都会には山ほど仕掛けられているのだ。  雄大は、警察官が去って行ってもしばらく迷っていた。  だが、あの娘が偶然雄大に声を掛けたのではないことは確かなのだ。何しろ、雄大が失業中だということを知っていたのだから。だとしたら……やはりあの娘は何か目的があって自分に近付いた。それならば、きっと、もう一度近付いて来るはずだ。  雄大は、次の機会まで待ってみることに決めた。今度あの娘が目の前に現れたら、しっかり捕まえて本当のことを喋らせてやる。      *  食事が済む頃には鮎美の顔色も良くなり、いつもと違わない調子に戻っていた。昨夜の喧嘩のことは互いにもう、口には出さなかった。鮎美は諦めると言ってくれたのだから、何か言えば藪蛇《やぶへび》になるだろう。  翌朝、雄大は朝食作りに挑戦した。オムレツはまだ自信がなかったが、目玉焼きなら何とかなるだろうと思ったのは甘かった。下は黒く焦げてしまうのに、なぜか黄身がいつまでも生のままなのだ。よっぽど鮎美に訊いてみようかとも思ったが、やりかけた以上は意地もある。ともかく、黄身が流れないところまで固まったので皿に移した。  鮎美はただ、ありがとう、と言ってにこにこと食べてくれた。雄大は、フォークの先に目玉焼きの裏側の炭素化したタンパク質を感じてげんなりしたが、鮎美が残さずに食べてしまったのを見ては残すわけにもいかず、炭素を噛み砕いて呑み込んだ。癌になるかも知れない、と思いながら。  鮎美が出かけてからは、電話と取り組む。もう、頼れるあてはほとんどない。高校、中学の同窓会名簿まで引っ張り出して手当たり次第に電話してみたが、平日の昼間では、連絡が付いたところもみな家族が出て、お電話があったことを伝えておきます、で終わりだった。  職安に行く準備をしている最中にチャイムが鳴った。インターコムからは鳴尾夫人の少し甲高い声が聞こえてきた。 「すみません、朝のお忙しい時に」  ドアを開けると、鳴尾夫人の足下には大きなダンボールの箱があった。 「ゆうべはほんとに怖かったですわねぇ」  鳴尾夫人は、部屋に入りたそうな顔つきをする。これから出かけるところなので、と断りたかったが、ふと、ゆうべの鮎美の言葉を思い出した。このマンションにおける草薙家の評判。鳴尾夫人のような人物は、そうした評判を左右する鍵を握っていると言っていいだろう。 「良かったらどうぞ。今からコーヒーをいれ直そうと思っていたところなんです」  雄大は咄嗟《とつさ》に言って、ドアを大きく開いた。鳴尾夫人はとても嬉しそうな顔になった。 「あらまあ、どうしましょう。奥様はもうお出かけなんでしょ?」 「いいじゃないですか、まあ。何のお構いも出来ませんが」 「そう? それじゃ、失礼してもいいかしら。嫌だわ、わたしったら変に遠慮する歳でもないのにねぇ」  鳴尾夫人は、文字通り「ほほほほほ」と笑いながらサンダルを脱いであがり込んで来た。大きなダンボール箱を抱えて。 「あのそれ、玄関に置いておかれたらいかがですか」 「あらでもこれ、草薙さんにお持ちしたものですよ。ほら、例のね、お野菜」  まだ申し込むと言ってもいないのに?  雄大の顔つきに鳴尾夫人はまた「ほほほ」と笑った。 「サンプルですのよ、お試しセット。正式に入会する前にね、一回だけ配達してもらえるんですよ、通常の一回分と同じ金額で。これを食べてみて、気に入らなければ入会手続きを取らなければ、次回は配達されないんです。良心的でしょ?」  只《ただ》で試させてくれるというなら良心的だろうが……つまり何か、この人は俺や鮎美の承諾もなしにそのお試しセットとやらを申し込んだってことか。 「どこに置いたらよろしいのかしら。お台所でよろしい?」 「あ、わたしが運びます」  雄大は鳴尾夫人から箱を受け取った。これでもう、逃げられないな、と思いながら。 「ほぉら、いいお野菜でしょう? ちゃんと虫食いの穴が開いてるのよ、ほら、こことこことここ」  鳴尾夫人は箱の蓋《ふた》を開き、ほうれん草の穴を嬉しそうに指さした。 「これがあるってことは、おいしい証拠。農薬がたくさんかかっている虫も食べないお野菜なんて、恐いわよねぇ。えっと、お代金はこれで振り込んでくださいね。コンビニからも出来ますのよ、便利な世の中よねえ」  雄大はバーコードの付いた振り込み用紙を受け取り、鳴尾夫人をリビングのソファに座るよう誘った。 「昨夜はお宅にも警察、来ました?」 「来ましたよ。かなり遅くまで聞き込みしていたみたいですね」 「ほんと、驚いたわ。それにしてもいったい誰なのかしら、水曜日でもないのに新聞紙を出したひと」  鳴尾夫人にとってはやはり、放火魔よりも新聞紙、か。 「水曜は明日ですからね、今日、明日は留守にするか何かで、仕方なく昨夜出したんじゃないですか」 「あらだって、それなら来週まで我慢して部屋に置いておくべきだと思いません? 別に腐るものじゃないんですからね」  それは道理だった。だが、道理をきっちり守って生活する人間ばかりなら警察も裁判所も必要はないのだ。 「集合住宅ではルールを守って生活して貰わないと、みんなが迷惑するんですからね。管理人さんには、誰が出したか必ず突き止めてくださいってお願いしておいたんですのよ。それでなくてもこのマンション、賃貸の人がいるんでどうしても自治がないがしろになって困るって言うのに……あら、ごめんなさい」  鳴尾夫人は肩をすくめた。 「草薙さんも賃貸でしたわね」 「いえ」 「でもどうしてお買いにならないの? お二人で稼いでいらっしゃるんだから、ここのローンくらい何でもないでしょう。その方が家賃よりお安いんじゃなくて?」  雄大は、いれたてのコーヒーをカップに注いで鳴尾夫人の前に出した。 「不動産を持ってしまうと、身軽に動けなくなりますからね。うちはこの辺りに親類がいるわけでもないし、取りあえず住んでみて、気に入らなかったらよそに引っ越すつもりでいたんです」  雄大は正直に答えた。 「でも、ここはいいところですね。池袋まで一本で出られるし、緑が多い」 「昔はね、嫌う人も多かったのよ」  鳴尾夫人はコーヒーをすすって、ちょっと顔をしかめた。口に合わなかったのかと思ったが、そうではないらしい。おいしい、と呟いた。 「わたしは、ここの生まれなんです……もっと埼玉寄りのところにある、あの大きな団地ね。あの近くの農家で生まれましたの。農家って言っても兼業で、父は農協に勤めてましたけどね、母と祖父母とで、野菜を作っていたんですよ……もうとっくにみんな亡くなりましたけど。家は兄が継いで、今でもサラリーマンしながら野菜を少し作ってますわ。K市って、病院がとても多いでしょう? あなた、お気づきになって?」 「そうですね……駅の反対側の方にはたくさん、大きな病院がありますね」 「昔、サナトリウムがあったんです。結核療養所。だからこの近辺の人たちは、K市には近付くな、なんて言われて育った人も多いのよ。わたしも高校に入った時、ここの出身だと知って避けられた記憶があるわ……でも池袋から電車で一本だから、都心に通勤するには手頃だし、きっとすごく発展するだろうなんて言われていたの。でも結局、大したことはなかったわね……駅の周辺だけは綺麗になったけれど、それだけ。団地はさびれてるし。草薙さん、伏見さんからお聞きになったでしょ、主人が仕事で失敗した話」 「あ……ええ、あの」 「いいのよ」  鳴尾夫人は、ふふふ、と笑った。 「このマンションでそのこと知らなかったのは、お宅くらいのものじゃないかしら。わたしね、隠しておいて陰でこそこそ言われるの嫌だったし、自分で喋ってしまったから。でも、そのことで主人とは大喧嘩。おまえがお喋りなせいで、俺はマンション中の笑い者になったんだって……偉そうに言わないでほしいわよね、主人の借金もこのマンションの頭金も、全部うちの実家で立て替えたのに。だけど、男のプライドっていうのを考えなかったわたしも馬鹿だったわ。あなたの奥様はほんとに利口ね。何を言われても噂されても、自分からはたった一言の弁解もせずに、いつも通りにしてらした」 「わたしのこと、そんなに噂になってたんですね」  雄大は鳴尾夫人の向かい側に座り、溜息混じりにコーヒーをすすった。 「お恥ずかしい話なんですが、自分ではまったく気づいていなかったんです。周囲の人たちが自分のことをどんな目で見てるかなんて気にもしてなかった。そこまでの精神的余裕がありませんでした」 「当然ですよ」  鳴尾夫人の声が優しくなった。 「仕事ひとすじに打ち込んでいた男の人が、ある日突然職を失ったら呆然とするのは当然です。平気でいられる人なんていませんよ……主人もね、バブルで楽して儲けたみたいに皆さん勘違いされてるけど、濡れ手に粟《あわ》みたいな商売をしていたわけではないんですよ。それなりに一所懸命、働いてくれていました。もちろん、夫婦揃って勘違いしていましたけど……日本は狭いんだから土地の値段は絶対下がらない、だからこのままずっと高収入が得られるんだって。でもあの時代、日本中の人が同じ勘違いをしていたんです。主人だけが馬鹿だったわけじゃありません。湾岸戦争があって……土地の値段が下がり始めたって、当初は、一時的なものだと思っても無理はありませんでしょう。戦争が終わればまた元に戻るとみんな考えていた……そして、総量規制が発表されて……。あの夜、主人は一晩中同業者と電話で相談していたんですよ。翌朝はげっそりとやつれて……大変なことになった、もしかしたら、不動産は駄目になるかも知れない、そう言いました。でもだからって、急に商売替えなんて出来ません。抱えていた物件もたくさんありましたし、それを購入するのに銀行からとてつもない借金をしていましたからね。ともかく売り抜けるんだ、主人はそう言って、不眠不休でした。だけど、日本中の不動産業者が同じことを考えて売りに走ったんですものね、結果的にはそれがバブルを一気に崩壊させてしまったわけですわ」  鳴尾夫人は顔をあげた。雄大は驚いた。目に涙をためていた。 「自己破産だけは避けたい、それが主人の口癖になりました……よく辛抱したと思います。最後はもう、正真正銘のすっからかんでした。うまく資産を隠して自己破産して、借金を踏み倒しておきながら悠々自適、という人もいるんですよ。でもうちは、最大限払えるだけは払ったんです。だからわたし、平気なんですわ。自分から喋ることが出来るんです。だって、恥だとは思っていませんからね。草薙さん、あなただってそうでしょう? 本当は、失業したのがご自分のせいだなんて思っていない。悔しい思いをされた、そうですわよね? だからお酒に溺れた……わたしにはわかります。主人もそうでしたから」  雄大は、不思議な感覚にとらわれていた。  この一カ月余り、自分が再就職先を紹介して貰いたくて頼った人々は誰ひとり、伏見美香や鳴尾夫人が示したような理解は見せてくれなかった。この不況に他人のことまで心配していられるか、と誰もが声の裏に本心を覗かせながら、口先だけ当たり障りのない同情の言葉を述べておしまいだった。また連絡するから、と言って、二度目の連絡をくれた奴などひとりもいない。すまん、探したけど見つからないんだ、という一言すらない。  惨めな失意の戦士を理解してくれたのは、ふだん雄大が馬鹿にし続けてきた「主婦」たちだけだった。日がな一日テレビのワイドショーに釘付けで、寄ると触ると噂話、夕飯のおかずは手抜きすることばかり考えて、家計が赤字なら亭主の小遣いを削る以外に工夫しない、そんな連中ばかりだと思っていたのだ……主婦なんて。      4  鳴尾夫人は意外に早く引き揚げてくれたが、宅配野菜の会への入会は避けられない情勢となった。仕事が見つかったらまた昼間は不在になるのですが、と言ってはみたのだが、あら、お宅の分くらいあたしが運びますわよ、ほほほほほ、と片付けられてしまった。毎週のこと、そこまでして貰って礼をしないというわけにもいかない。この無農薬野菜はかなり高くつきそうだ。  ともかく、入会の意志を確認して鳴尾夫人は意気揚々と帰って行った。雄大は、職安の帰りにまた買い物をすることを考えて、お試しセットの中身を確かめてみた。ほうれん草に小松菜、プチトマト、きゅうりとピーマン、それに大根が丸々一本。どれもなるほど新鮮で生き生きとしていて、いかにも旨そうな野菜だったが、困ったことに、どう料理したものかさっぱり見当が付かない。きゅうりとピーマンとトマトはサラダにするとして、後のものはどうしたらいいんだろう?  仕方ない、今夜鮎美に相談して、アイデアを出して貰おう。ついでに作り方もメモしておけばいい。雄大は念のため、箱に入っていた野菜の名前をメモ用紙に書き付けてポケットに入れた。スーパーでまた誰か顔見知りと出逢って、付き合いで買い物している内にうっかり同じものを買い込んだらやっかいだ。  池袋まで出ると、自分が無意識にあの少女を探していることに気づいて、雄大は苦笑した。特に逢いたいわけではないが、彼女の目的が何なのかは知らなくてはならない、という気がしていた。昨日、あの少女はマンションの公園にいた。たぶん、俺を待っていたのだ。だが隣に伏見美香がいたので何も言わずに消えてしまったのだ……  そうか。だとしたら、少女は伏見美香を避けたのかも知れない。つまり、伏見美香が言っていた沙帆、という娘なのだ、あの子は!  沙帆は伏見美香を憶えていた。そして、昔の自分と今の自分とのギャップに伏見美香が驚き、呆れるだろうと思ったのだ。事実、伏見美香は、幼かった頃の沙帆の面影を茶髪で化粧をした少女と重ね合わせるのが辛いのか、沙帆ではないと思い込もうとしているふうだった。あの沙帆という娘は、昔、自分でそうと自覚していたほどの「素直ないい子」だったに違いない。そうでなければ、幼い頃の自分がどうであれ、今の自分とのギャップを恥ずかしいなどとはあまり考えないのがふつうだろう。  おっと。  雄大は、JRに乗り換える方向とは逆に歩いている自分に気づいた。昨日も同じことをやっている。アル中になる前に踏み止まったと思ってはいるが、脳に影響が残っているのかも知れない。  回れ右して方向転換しようとした時、その姿に気づいた。  鮎美?  間違いない、鮎美だ。池袋で仕事か。声を掛けようか。だがきっとものすごく忙しいだろうから、話をしている時間はないだろうな。それでも、よっ、くらいは言わないのも変だよな、夫婦なんだし。  だけど鮎美、いったいどこから出て来たんだろう。変なとこから現れたな……あ、トイレか。  鮎美は女性用トイレから出て来て、雄大の斜め前を横切っていた。雄大は声を掛けようとしたが、鮎美は歩くのが速い。あまり大声を出すのは躊躇《ためら》われたので、自然と追いかける形になった。雄大が足を早めたので鮎美との距離はすぐ縮まった。 「あゆ……」  声を出そうとして、出なくなった。  鮎美は、見知らぬ男の隣に並んだのだ……親しげに話しかけながら。その男は壁にもたれていたが、鮎美の姿を見て壁から離れた。つまり、鮎美がトイレに入る間そこで待っていたのだ。二人はサンシャインシティに向かって歩いて行く。  仕事の関係者だ。雄大は無理に思い込もうとした。そして、鮎美の仕事を邪魔したら悪いもんな、と納得して方向転換しようとした。だが出来なかった。  二人は、腕を組んでいた。いや、それは正確ではないかも知れない。自分から腕を伸ばして男の腕に触れているのは鮎美の方だった。男は姿勢を変えていないが、もちろん拒絶もしていない。仕事の関係者であるはずがなかった。いやいや、関係者なのかも知れない。頭が混乱する。仕事の関係者なのだとしても、それ以上の関係であるようにしか見えない。  そう、雄大には、二人は恋人同士に見えた。  伏見美香の唇の感触が、またぞろ雄大の脳裏に蘇る。  そうなのか。  これが、天罰ってやつなのか? [#改ページ]    消 息 不 明      1 「おじさん、何やってんのよこんなとこで」  声を掛けられて、雄大はようやく顔を上げた。  化粧をした茶髪の少女。  雄大は周囲を見回した。そうだ、俺はいったい何をしてたんだ、こんなとこで。  雄大はしゃがみ込んでいたのだ。忙しげに行き交う大勢の人々が、少し眉をひそめながら視線を投げ付けているのも構わずに、通路の真ん中で。 「お腹でも痛いの?」 「いや」  雄大は立ち上がった。何となくまだ膝がふらついた。 「貧血だよ、ただの」 「殴られた頭、おかしくなってるんじゃないの?」  少女は本当に心配そうな口ぶりだった。 「頭の怪我ってさ、何日も経ってからひどくなって、死んじゃうことがあるんだよ。医者に行った方がいいんじゃないの?」 「ありがとう、でもほんとに平気なんだ。頭は殴られてなかったんだよ……だけど、どうして俺が誰かに殴られたなんてこと、知ってるんだ?」 「伏見のおばさんから聞いたんでしょ」  少女は肩をすくめた。 「昨日、一緒にいたじゃん。あそこにいたら、いろんな人があんたの噂してたよ。オヤジ狩りにやられたって。かっこわるーい」 「やっぱりあれは君だったんだな。どうして僕のこと無視したんだ? 僕に用があって待ってたんだろ」 「自惚れないでよ。ただ何となく行っただけだよ」 「昔住んでいたマンションが懐かしくなったから?」  少女は黙って横を向いた。 「伏見さんからは何も聞いてないよ。確かに、以前マンションにいた青桐沙帆さんという名前の娘さんに似ているとは言っていたけれど、それにしてはあんまり変わっていたんで信じられないみたいだった」 「ばっかみたい」  少女は鼻を鳴らした。 「あたしがあそこにいたのって小学三年ん時までだよ、六年経ってんだから、変わって当然じゃん」  伏見美香が信じられなかった変化というのは、そうした肉体的成長の部分だけではないだろう。だが雄大は頷いた。 「つまり君の名前は、青桐沙帆さん、で間違いないわけだね」 「どうでもいいじゃん、名前なんて。だけどあのおばさんは相変わらずだよねぇ。いつもすましちゃってさ。自分はインテリだと思ってんだよ。うちのおかんなんかのこと、すごく馬鹿にしてたんだから。ねえ、おじさんあの人と付き合ってんの?」  雄大はギョッとしたが、驚きを声に出さないように顔の筋肉に力を入れた。 「付き合っているってどういう意味さ」 「決まってんじゃん。不倫してんのかってことだよ」 「し、してないよ、そんなもの」  思わずどもってしまったのは失敗だったが、雄大はこめかみに指をあてて眩暈がした振りをしてごまかした。 「ほらぁ、やっぱ病院に行かないとだめだってば」  沙帆は見かけによらず、優しい性格らしい。 「今夜、死んじゃったって知らないよ」 「たぶん、死ぬことはないと思う。それより青桐さん、君はどうして昨日から僕にまとわりついてるんだい? 僕に何か用があるんだったら……」 「失業者ってどんな毎日おくってんのか、興味があっただけ」  沙帆はあっさりと言った。 「あんたのこと、この一カ月くらいあのマンションで噂だったからさぁ、へえ、ばりばり稼いでたやつが失業して酒びたりなんて、ちょっと面白いじゃん、って思っただけだってば。たまたまここで見かけたからさ」 「君はそんなにちょくちょく、あのマンションに行ってたわけだ」 「まあね」 「どうして? 昔が懐かしくなったわけじゃないとしたら、何か他に理由があるんだろう?」 「おじさんに話す義務なんかないじゃん」 「義務はないさ、そりゃ」  雄大は頭を軽く振って歩き出した。どこに行くというあてもすでになかったが、ともかくいつまでもそこにいるわけにはいかないのだ。 「僕もただ、面白そうだと思っただけだ。だから訊いたのさ」 「ねえ、今日も職安行く?」 「いや、行かない」 「どうして?」 「その気がなくなったんだ」 「じゃ、どこ行くの?」 「決めてない」 「だって歩いてるじゃん。そっち、サンシャインだよ」 「どこだっていいでしょう。青桐さんには関係ないと思うけど。君こそこんな時間に何してるんだよ。まだ中学生だろう? 学校は?」 「行ってないもん」 「どうして」 「行きたくないんだもん」  雄大は思わず説教をしそうになって思いとどまった。こんな風体をしているが沙帆は神経のこまやかな子だというのは何となくわかる。そんな子が学校に行きたくないというのを、ただのさぼりだと決めつけるほどには、雄大は鈍感ではなかった。  雄大自身も、中学時代にはクラブの対人関係で嫌な思いをしたり、大嫌いな教師がいたりして、学校に行きたくないと思いつめた時期があったことを思い出した。あの当時は今ほど、登校拒否に対する世間一般の反応が寛容ではなく、親も学校側も何よりまず登校させることを第一の義務のように考えていたので、体調不良の振りをして学校を休むくらいしか登校しないで済む方法がなかったのだ。 「ま、行きたくなければ行かないのは君の自由だけどさ。でも僕について来たって仕方ないだろ? どこか面白いところに行くってわけじゃないんだから。ただ少し歩きたいから歩いているだけなんだ」 「何かあったの?」  雄大は沙帆の顔を見た。厚く塗られたファンデーションの下に、少女の無邪気さと鋭さとがあった。 「何もないよ」  言ってはみたが、自分でも嘘にしか聞こえない。 「することないんだったらさ」  沙帆は何でもない、という口調で言った。 「ホテル行かない?」  雄大は沙帆を見た。沙帆は涼しい顔で笑っている。 「金がないよ」 「いらないよ。たださぁ、ホテル代は出してよね」 「青桐さん」 「青桐じゃないもん」 「ああ、そうか」  沙帆の両親は離婚していたのだ。 「今の名前はなんというのかな」 「西村。だけど沙帆って呼んでいいよ。特別にゆるしたげる」 「沙帆、さん。君はいつもこんなことしてるわけ?」 「こんなことって?」 「男性をホテルに誘うことだよ、もちろん」 「なんか悪い?」  雄大は立ち止まって小さく溜息をついた。 「説教はしない。君のからだは君のものだから、どう使おうと他人が口出しは出来ないもんな。でもひとつだけ教えてあげるよ。今はね、東京には条例があって、中学生の女の子とホテルに行ってセックスしたり、セックスまで行かなくても性行為に類することをしただけで、立派な犯罪として逮捕されちゃうんだよ。条例違反でも罰金をとられるし、新聞に実名で報道されて、社会的地位はなくすし、仕事だってクビになっちゃうんだ」 「だっておじさん、もうクビじゃん」 「僕の話をしてるんじゃないの。いいから聞きなさい。つまり君は軽い気持ちで遊んでるんだろうけど、その遊びに付き合った男の人は人生を変えられてしまうかも知れない、そういうことなんだ」 「付き合わなければいいんじゃん、それが嫌なら。誘ってノッて来たんだったら、自分の責任でしょ」  まったくその通りだ。  雄大はまた溜息をついた。 「そうだけどさ、でも君だって補導されることになるんだよ。常習犯だとわかったら、少年院に入ることになっちゃうかも知れないんだ。そういうリスクをちゃんと頭に入れてやってるのかい」 「だったら教えてほしいんだけどさ」  沙帆は開き直ったように腰に手をあてた。 「男と女がセックスするのって、悪いことなの?」 「いや、それ自体は悪いことじゃない」 「昔の女はさ、十三とか四で結婚して、十五くらいから子供産んだんだよね。今だって法律では、女は十六になったら結婚できるんだよね。ってことは、十六でセックスして子供産んでも大丈夫って、法律も認めてるってことだよね」 「……まあ、そうだけど」 「あたしさ、お誕生日、四月なわけ。で、今九月でしょ、もう十五歳と五カ月。あと七カ月で十六なわけ。半年ちょっとだよ、半年。なのになんでセックスしたらだめなの?」 「セックスしちゃいけないって言ってるわけじゃないよ。ただ条例が……」 「その条例って、人権侵害なんじゃないの?」  雄大は驚いた。人権侵害、などという言葉が沙帆の口から飛び出すとは、思ってもみなかったのだ。 「つまり、十五歳で誰かを好きになってセックスしちゃいけないって法律で決めてるってことでしょ。おじさん、シェークスピア読んだことある?」 「シ、シェークスピア?」 「ロミオとジュリエットだよ。あれって、ジュリエットが十四歳、ロミオが十六歳くらいの設定なんだよ、知ってる?」  雄大はただ、瞬きしていた。実は知らなかったのである。 「人を好きになるのに年齢なんか関係ないと思わない? それでさ、好きになったらセックスしたいと思うのも当然じゃん。なのにそれがどうして補導されなくちゃいけないようなことになっちゃうのよ。大人の考えることってやっぱ、おかしいと思わない? おじさん」 「でも君は今、僕のことを好きじゃないのにホテルに誘ったよね。それは恋愛とは言わないだろう?」 「わかんないじゃん。セックスしてみたら好きになるかも知れないでしょ。順番が違うとだめなわけ? なんで? 女は結婚するまで処女でいないといけないから?」 「まさか」  雄大は思わず笑った。 「今どき、そんなこと言う人なんていないだろう?」 「だけど発想の根っこはおんなじなんじゃないの? なんとか条例とか言ったって、新聞で逮捕されるのって男ばっかじゃん。つまり補導されてんのも女の子ばっかってことでしょ。おじさん、童貞捨てたの何歳の時? 今どきの高校生でさ、まだ女と寝たことない男がどのくらいいると思う? なんでそいつらは補導されないわけ? おかしいじゃん!」  雄大が童貞でなくなったのは、十七歳の時だった。しかし、だから反論出来なかったというわけではない。いきなり問題がひどく根本的なものになってしまったので面喰らっていたというのもあるが、何よりも、沙帆の言い分には一理あるような気がしてすぐに言葉が出なかったのだ。  雄大は慎重になった。いい加減なことを言ってごまかすのはゆるされない質問だ、と感じた。 「ごめん」  雄大は言った。 「ちゃんと君の質問に答えられるほど、僕は勉強していないんだ、まだ。これから勉強する。で、いつかきちんと答えるよ。だけどひとつだけ言いたいことがあるんだ……僕は男だけどね、やっぱり性欲だけに引きずられて生きているつもりはないんだよ。と言うより、そうありたくないと願ってる。若い女の子にホテルに行こうって言われたら嬉しいけど、でも、その子のこと何も知らなくて、好きでもなくて、それでセックスだけして別れるのって、後で落ち込みそうなんだ……僕の場合」 「どうして落ち込むのよ。排泄《はいせつ》しただけなんだからそれでいいじゃないの」 「理由は説明するのが難しい。でもたぶん、僕は落ち込むと思う。きれいごとに聞こえるかも知れないけど、僕はやっぱり、セックスする前に相手の事を少しでもいいから知りたいタイプなんだ。会話したい。接点を持ちたい。唯一の接点が肉体で、排泄をし合って終わる関係なんて、できれば持ちたくない。まず名前を訊いて、どんな食べ物が好きなのとか、どんな音楽を聴くのとか……」 「おやぢ」  沙帆は笑った。 「そういうのってかえっていやらしいよ。することは一緒なのに、合意の上なんだって自分に納得させたいだけじゃないの。その上さ、若い子の私生活を覗き見するのが楽しいんでしょ」 「そう言われてしまえば、反論はしないよ。だけど、セックスっていうのは人それぞれに違うものだろ。僕には僕の好きなシチュエーションがあるんだ。ある程度好きになった女の人とお互いにそうしたいなと思うようになってからしたいんだよ。おやじ臭いと言われたらそれまでだけど」 「沙帆のことは嫌いなんだ、おじさん」 「嫌いとか好きとかいう以前の問題だよ。僕はまだ、沙帆さんのことを何も知らない」 「何が知りたい?」  沙帆は鼻を上向きにして歌うように言った。 「知りたいこと、何でも教えてあげるよ」  雄大はその時、通路の壁に掲げられたサンシャインシティの広告を目にとめていた。 「じゃあね」  雄大は、ようやく顔に笑みが戻って来たのを感じながら言った。 「どんな魚が好き?」 「さかな? 食べるやつ?」 「いや、食べなくてもいい。どんな魚が好きなのか、教えてよ」 「魚なんて知らないもん。切り身のシャケとかブリしか。あ、サンマも知ってる。あとね、マグロ」 「見に行かないか」 「何をよ」 「魚だよ。サンシャインの水族館に」  雄大は広告を指さした。      2 「沙帆は断然、クラゲだね!」  ビッグマックにかぶりつきながら沙帆が嬉しそうに言った。 「あのブルージェリーっていうの、なんか最高じゃない。綺麗な色でさぁ。だけどいい加減だよね、クラゲの仲間、なんて解説、書いてあった」 「学名が付いていないか、あるいは学名はあるけど和名が付いてないんだろうな」 「そんな、名前がわかってない生き物なんか、いるわけ?」 「この地球上の生き物の大半はまだ、名前が付いていないと言われてるよ。深海や高山、密林の奥。人の目に触れたことのない生き物だってまだ、たくさんいるだろうな」 「おじさんは何が気に入ったの?」 「うーん、シードラゴンかな。タツノオトシゴ。特にあの、リーフ・シードラゴンには感動した。あんなに芸術的な生き物がいるなんてさ」 「ハデハデーって感じだったけど」 「でも色はシックだったろ?」 「あんなんじゃ目立っちゃって、大きな魚に食べられちゃったりしないのかな」 「海の中では、あれがけっこう目立たないのかも知れないよ。海には珊瑚や海藻なんか、複雑な形をしたものがたくさんあるからね。どうだった、楽しかった?」 「まあねー」  沙帆は食べ終わった指を舐《な》めながら頷いた。 「水族館なんてさぁ、幼稚園の時に行ったっきりだよ」 「どこの水族館に行ったの?」 「よく憶えてない。旅行したの、家族で」  沙帆は指を舐めるのを止めて、シェイクをすすった。どろどろのアイスクリームのようなものをすするのに熱中する振りをしながら、たくみに雄大の視線を避けている。  伏見美香の話では、沙帆の両親が離婚したのは沙帆が小学校の低学年の頃だから、両親揃っての最後の家族旅行が、その水族館を見た時のものなのかも知れない。 「でもさ、見て良かった。綺麗だったもん」 「そう言ってくれると誘ったかいがある。僕も楽しかったよ。僕だって水族館なんか、ほんとにひさしぶりだもんな。さてどうする? ハンバーガー食べちゃったからもうお腹はいいよね。これから何して遊びたい?」 「やめてよ、その言い方」  沙帆は唇を尖らせた。 「なんかガキ扱い」 「難しい問題なんだ」  雄大は笑った。 「正直、君は僕にとってガキなんだよ。だけど僕だって、五十、六十の人たちからみたらガキだ。そんなもんさ。そして七十を過ぎたら今度は、自分より若い連中から子供扱いされるようになる」 「ボケちゃうから?」 「そこまでいかなくても、老化現象は様々な部分にあらわれるからね。死滅した細胞がになっていた役割を果たせなくなれば、その部分は成長する前と同じ状態に戻っちゃうわけだから、つまり赤ん坊になっちゃうわけだ。そうやって、人間は結局一生、誰かにガキ扱いされて過ごすわけさ」 「悟っちゃってるねぇ、おじさん」  沙帆はまた明るい顔になった。 「まだそんなジジイでもないのに」 「そう言って貰えると嬉しいな。なんだか沙帆さんと話していると、すごく年寄りになったみたいな気分になるから」 「そのさ、さん、付けるのやめてくんない?」 「ちゃん、の方がいいかい」 「やだよ、気持ち悪い。何もつけないでよ、沙帆って呼んで」 「何だか照れるよ。サッちゃん、とかじゃだめ?」 「ダメっ! 絶対、いやっ」  沙帆が突然大声を出したので、雄大は驚いた。周囲の客たちも何ごとだろうと、好奇心剥き出しの顔でこちらを見ている。 「ごめん……君の嫌いな名前で呼んだりはしないから安心して」  雄大が言うと、沙帆は照れたように下を向いた。 「サッちゃんって、歌にあるじゃん。バナナを半分しか食べられないとか何とかかんとか。あの歌、嫌いなんだよ、あたし」  沙帆は小声で言い訳したが、雄大はもちろん、その言葉を信じたわけではなかった。だが詮索はすまい。雄大は笑顔をつくった。 「で、これからどこに行くか決まった?」 「ホテルは行かないの? まだ沙帆のこと、嫌い?」 「そうじゃなくて、今はそういう気分じゃないんだ。ねえ、沙帆さん、いやあの、沙帆。男だってそう四六時中、セックスのことばかり考えてるわけじゃないし、一日二十四時間、やりたい気持ちでいるとは限らないんだよ。今はそういうんじゃなくて、もっと他のことがしたい。さっき水族館で僕と君と、とても楽しかっただろ? そんな種類の楽しさをもう少し味わっていたいんだけどな。だめかな」 「なんかさぁ、うまくごまかそうとしてない? おじさん、度胸ないよね。奥さん恐いんでしょ」  鮎美のことはできるだけ考えないようにしていたのに。雄大は、鮎美の姿を思い出してげっそりした。  いったいあの男は誰なんだ……仕事上の付き合いというだけにはどうしたって見えなかった。だが信じられない……馬鹿だと思われても能天気だと笑われても、あの鮎美が自分を裏切るだなどと、どうしても想像することが出来ないのだ。 「女房のことは、今はなし」  雄大は自分に言い聞かせるように言った。 「せっかく若いお嬢さんとふたりでいるんだから、そういうことにさせて貰えないかな。じゃ、他に提案がないならひとつ提案しよう。ボウリングしないか?」 「ボウリングぅ? 運動するのぉ」 「ホテルでする運動よりはちょっときついけど、爽快だよ」 「おじさん、得意なわけ?」 「得意ってこともないけど、学生時代にはよくやったんだ。楽しいし、時間も潰れるし、第一、安上がりでいい。僕は失業中だからさ、贅沢な遊びは出来ないだろ」 「ま、どうせ暇だし、なんでもいいけど」  沙帆は立ち上がった。  雄大はホッとした。からかわれているだけだとは思いながらも、二言目にはホテルを持ち出す沙帆の魂胆がわからず、かなり当惑していた。伏見美香のことがあったばかりだというのに、これ以上、ややこしいことはごめんだ。  外に出て目についたところに、横文字とスポーツガーデン、という文句が見てとれた。ボウリング場もちゃんとある。  沙帆は、店の外に出るとすぐに雄大の手を握って来た。別に差し支えないような気がして、そのまま手を繋いで歩いた。沙帆の手は信じられないほどやわらかい。皮膚が若いのだ。そしてふくよかだ。見た目は決して太っていないのに、やつれてもいない。  ふと雄大は、最後に鮎美とこうして手を繋いで歩いたのはいつのことだったろう、と思った。新婚の頃は確かに、どこかに出かけると手を繋いでいたこともあった気がする。だが最近は、二人でどこかに出かけること自体、ほとんどなくなっていた。鮎美も雄大も共に休日出勤が多く、連休もまともに休めたことがほとんどない。かと言って、有休を消化しようにも仕事のやりくりがつかなかった。たまに休みの日が合致しても、ふだんの睡眠不足を取り戻したくて二人とも午後まで寝ていた。ようやく起き出して遅いブランチをとるともう三時くらいになってしまう。そんな時間からでは、無理して出かけても映画を一本観るのがやっとだった。  皮肉なものだと思う。今は時間だけはいくらでもあるのだ。毎日が日曜日。それなのに、鮎美ではなく、ほとんど名前しか知らない十五歳の少女と手を繋いで池袋を歩いている。  平日の午後なのに、ボウリング場はけっこう混んでいた。学生風が多いが、明らかに高校生と判る連中もけっこう来ている。  雄大の記憶にあったボウリング場とはかなり様子が違っていた。基本的な部分はいっしょだが、クラブ風の照明や洒落た喫茶室などがあり、ふつうのボウリングの他に、ゲームセンターのマシンと組み合わせたようなレーンもある。  雄大は、何年振りかでボールを投げ、楽しんだ。沙帆も過去に二度ほどやったことがあると言っていたが、雄大が基本を教えてやると驚くほどすぐに上達した。  時間が経つのはあっという間だった。箸が転げてもおかしい年頃の沙帆は、本当によく笑った。雄大は救われた気分だった。ただ鮎美とあの男のことについて忘れていられるというだけではなく、沙帆の無邪気な笑顔を見ているのが楽しくて、職を失ってから初めて、うきうきとした気分で自分も笑い転げることが出来た。  三ゲーム続けて投げてふたりともへとへとになり、ボウリング場を出た。それからどちらから誘うともなくゲームセンターに入った。そこでも小銭と千円札を使い果たして一万円札をくずすはめになるまで遊びまくった。ゲームセンターを出ると午後七時を過ぎていた。雄大はその晩、家に戻って食事をするつもりは最初からなかったので、中学生をそんなに長時間引っ張りまわしていいものかどうか迷いながら、夕飯をどうしたいかと沙帆に訊いた。 「どうでもいいよ」  沙帆は言った。 「どうせいつもひとりだもん。おじさんが奢《おご》ってくれないなら、うちに帰る前にコンビニで弁当買うから」  雄大は、沙帆をステーキハウスに連れて行った。 「すごーい!」  沙帆は、運ばれて来た特大のサーロインステーキに歓声をあげた。 「こんなの食べるの、初めてだよ!」 「でも外食はするんだろ、よく」 「するけど、ひとりじゃこんな店、入れないしさぁ。たいてい、マクドかケンフラ」 「ホテルに誘ったおじさんに奢ってもらったりはしないの」 「しなーい」  沙帆は、大きな肉塊を豪快に口に入れた。 「おじさんさぁ、勘違いしてんじゃないの。あたしね、エンコーはやんないんだよ」 「……そうなの? でもさっき」 「あたしはおじさんとホテル行きたかったの。他のおやじはヤなの。うっめー!」  雄大は沙帆の顔を見た。だがあまりにも天真爛漫としたその顔からは、彼女の心の底がかえって汲み取れなかった。 「援助交際はしてないって言うなら、それは喜ばしい」 「なによその言い方、おやじ通り越してじじぃじゃん」 「だけど、他に何て言えばいい? 僕としては、やっぱり沙帆が見ず知らずのスケベおやじから金もらってホテルに行くなんてのは、考えたくないもんな。それに、真面目な話さ、補導されるようなことして得することはないと思うんだ。まあ十代の頃に、大人がしちゃいけないと言うことをしたくならない方が異常だという気はするにしてもね。妊娠とか性病だって、決して他人事ってわけじゃないしさ」 「わかってるよ」  沙帆は頬を膨らませた。 「だから、してねぇって言ってんじゃん」 「うん。それならいいんだ」 「あたしさぁ」  沙帆は、二百五十グラムのステーキをほぼ平らげてしまってから呟いた。 「別に、大人に反抗したいとかそうゆうんじゃないんだ……ママは安い給料で一日中こき使われてさ、大変だってのはわかってるし。このままだと高校受験は無理だって言ったらきっと、がっかりするだろうなぁとは思ってる」 「中学は義務教育だから、出席日数が足りなくても高校受験はできるだろう」 「登校拒否じゃ、内申書、ゼロだもん。ふつうの高校には受かんないよ」 「いや、その点は確か最近、救済措置がとられることになってるはずだよ。本気で高校に進学したいって考えてるなら、まだ九月なんだし、学校と相談してみたらどうかな。定時制高校だってあるし、大学に進学するのが目的なら高校は出なくても、大学入学資格検定試験っていうのに受かれば大学受験できるんだよ。ひとつの道がだめだからって、全部だめだと決めつけないで、いろいろ道を探してみたらいいんじゃないか」 「ママはさ、頭、堅い方だから」 「説得してくれる大人に心当たりはないの? 中学の先生でひとりぐらい、好きな先生はいないのかな」 「いない」  沙帆は小さく溜息をついた。 「みんな、大っ嫌い」 「経験は、あるよ」  雄大は、ビールを追加した。 「僕も中学の先生は嫌いだった。今になって思い返せば、どうってことのないふつうの中年男女だったんだろうけど、あの当時の自分にとっては、自由に生きることの最大の妨《さまた》げになる存在だったんだろうな。でも沙帆は、お母さんに悪いなって気持ちはあるんだね。それだけでもお母さんにとっては嬉しいことなんだと思うよ。その気持ちがあるんだってことは、お母さんに伝えてあげた方がいいんじゃないかな」  沙帆は答えずに皿のライスを平らげ、付け合わせのポテトもすべて食べてしまった。 「進学のことだけなのかな、沙帆の悩みって」  雄大は、そっと言った。 「何か他にもあるんじゃないかって気がするんだけどな」 「興味あるの? あたしのことなんかに」 「そりゃもちろんあるさ。だって今日一日、こうやって君と楽しくデートしたんだもの。まったく興味のない女の子とこんなに親しく遊んだりしないよ、僕は。この話、嫌だったらやめるけど、君は以前に住んでいたあのマンションに、最近になって頻繁に出かけていると言ったよね。どうしてそんなことしてるのか、良かったら教えてくれないかな」 「ねぇ、デザート頼んでいい?」 「もちろん」  雄大はウエイターにメニューを持って来させた。 「あたし、トロピカル・ドリームボートっていうの、食べたい」 「じゃ、僕にはコーヒー」  トロピカル・ドリームボートとは、半分に切ったパパイアにパイナップルとマカデミアナッツの入ったアイスクリームを盛り上げたものだった。雄大は、沙帆がその山盛りのアイスクリームをあらかた平らげるのを楽しんで見守った。若い胃袋には、半パイント余りもありそうなアイスクリームの塊など何でもないらしい。 「たいしたことじゃないよ」  スプーンを口にくわえたままで、沙帆がつまらなそうに言った。 「たださ……あたしのほんとの親父ってどんな顔したやつなのか、知りたくなっただけ」 「ほんとの親父さんって……お母さんと離婚したお父さん? でもその人はもう引っ越ししてマンションにはいないと伏見さんが……」 「違うよ。ママと離婚したのはあたしのほんとの親父じゃないんだってさ。あたしのほんとの親父は、今でもあのマンションに住んでるんだって……教えてくれた人がいるんだ」      3  沙帆が話してくれたのは、ふつうの常識では考えられないことだった。雄大は、どうもその話は誰かの創作ではないか、という気がした。  沙帆の父親、青桐正輝とその妻であり沙帆の母親である洋子との夫妻は、マンションが建設された当初からの入居者だった。つまり沙帆はあそこで生まれたのだ。そして今から六年前に夫妻は離婚、沙帆は母親に引き取られて、現在も母子で森下のアパートに暮らしている。  それが最近、沙帆はある人物から、実の父親は青桐正輝ではない、と教えられたと言うのだ。マンションの入居者である男性が、沙帆の実の父親なのだと。つまり、洋子が同じマンション内で浮気をした結果出来てしまった子供が、沙帆なのだと。 「その、君にそんな話をした人物っていうのは誰なんだい」 「それは言えないよ。約束したんだもん」 「その人の言葉はどの程度信頼出来るのかな」 「あたしは信じてる」 「僕は信じられないね」  雄大はコーヒーをすすって顔をしかめた。 「誰だか知らないけど、そんな話を君に直接するなんて、随分無神経な人間だと思うよ。事実であろうとなかろうと、そんなこと無闇に言っていいことじゃない」 「あたしが教えてって無理に頼んだのよ」 「なぜ?」 「だって」  沙帆は、肩をすくめた。 「判っちゃったんだもん……血液型が違うって。あたしってね、O型なんだよ、おじさん。ママもそう。で、離婚したパパもそうだって聞かされてたの。でも違うって判っちゃった……パパはABだった。わかるでしょ? ママはO型ってことは、OOってこと。だからAB型の人との間で出来る子供はAOかBO。A型かB型の人しか生まれないはずなのよ。ね」  雄大はどう答えていいのかわからず、またコーヒーをすすった。ひどく苦く感じられる。 「……その、お父さんの血液型がABだっていうのが間違ってるんじゃないかな。お母さんの話の通り、O型なんだよ、きっと」 「パパがね、一カ月くらい前に交通事故に遭ったわけ」  沙帆はまた肩をすくめた。 「ママからその話を聞いて、お見舞いに行ったのよ。命がどうこうという怪我じゃなくて、ただ腿《もも》のとこの骨が折れて動けないから入院してただけだったんだけど。ちょうど、看護婦さんが血圧とか計る時間だったの。でね、計ってる間、何となく看護婦さんが持ってる紙を見てたわけ。処置指示票、とか書いてあるやつ。そしたらそこに、血液型が書いてあったの」 「だけど……それにはきっと何か事情が」 「そりゃ事情はあるでしょ。ママは浮気してた。でもあたし、それはいいんだ、もう……知ってたから」 「……知ってたって?」 「離婚の原因は、ママが他に好きな人が出来たからだって、ちゃんとママに説明してもらったのよ……中学に入った時に。だからパパに申し訳なくて、それで離婚したんだって。でもその人とは結婚することは出来なかったんだって。でもねぇ……あたしがパパの子じゃないってことまでは、さすがのママも言えなかったんだと思う」  何となく、辻褄《つじつま》が合っているようでおかしな話だ、と雄大は思った。青桐夫妻は沙帆が九歳の時に離婚しているのだ。沙帆が洋子夫人の心の恋人の娘なのだとしたら、青桐正輝は、妻の不貞の結果不義の子が生まれたというのに、その後九年間も夫婦として一緒に暮らしていたことになる……自分の娘ではあり得ない子供を育てながら。  そんな不自然なことがあるだろうか?  しかし沙帆が言った通り、沙帆は青桐正輝の娘ではなかったとして、では青桐正輝が、沙帆が自分の娘ではないと知らなかった可能性はあるか……たぶん、ないだろう。大昔の話ならともかく、現在では、産院は赤ん坊の取り違えなどが絶対に起こらないよう、かなり神経質に管理している。母親の手首と赤ん坊の足首には同じ色のバンドが巻かれ、そのバンドには名字と血液型などが書いてあるのだと雑誌か何かで読んだ記憶があるし、テレビのドラマなどでも、産後の母親が寝ているベッドには、母親と赤ん坊の名前や血液型などが書かれた札が下げられていたりする。AB型の父親からO型の娘は決してできないのだから、青桐正輝は妻が出産してすぐに、自分の子供ではないとさとったはずである。  これが二十年前の話なら、青柳正輝に血液型の知識がなく、妻がO型だから娘がO型でおかしいとは思わなかった、というようなオチも考えられただろうが……  ただ救いなのは、沙帆には母親を憎む様子がないことだった。十代というのはある意味、異様に潔癖な時代でもある。自分のことは棚にあげるとしても、身近な者たちには清潔で完璧であることを求めがちだ。いくら母親が正直に話してくれたからと言って、父親以外の男を好きになったから離婚したのだ、という説明を何の抵抗もなく受け入れたということはなかったに違いない。葛藤や嫌悪は当然あっただろう。だがそれを乗り越えて、沙帆はひとりの女として母親をゆるしたのだ。それだけ、母子で暮らすようになってから、洋子という女性は懸命に沙帆を育て、働いて、沙帆に尽くしていたのだろう。しかしそれでも、離れて暮らすようになってもパパと呼んで慕っていた男が実の父親ではない、と知って、沙帆は大きく動揺したのだ。そして衝動的に、実の父親の顔を見に来るようになってしまった……しかし。 「沙帆は、その本当のお父さんの名前も知ってるの?」  雄大の質問に、沙帆は首を横に振った。 「名前は知らない……あたしにそのことを教えてくれた人も、ママが浮気した相手が誰なのかまでは知らなかったのよ」  ますます信じられない話だった。そんないい加減な情報を、当事者であり、まだ中学生の娘に流すなどということがあるだろうか?  沙帆はそれ以上雄大に話すつもりがないらしく、話題を自分が好きなタレントのことに変えてしまった。雄大も突っ込んでは訊かなかった。釈然としないものを感じて気にはなったが、青桐正輝とも西村洋子とも面識のない自分に、そうしたことを根掘り葉掘りする権利などない。  だが店を出ても、雄大は何となく落ち着かない気分だった。  結婚以来住み慣れていると思っていたあのマンションで、あまりにも人間臭く生臭い「事件」が起こっていたことに少なからずショックを受けたのだ。しかも、昨夜の放火事件。 「あたし、地下鉄で帰るよ」  池袋駅で、沙帆はやっと握っていた雄大の手を放した。 「おじさん、今日は面白かった。ごちそうさま」 「いや……あの、家まで送ろうか」 「まだ九時過ぎじゃん」 「君の年頃の女の子が出歩くには、充分遅い時間だよ」 「あたし、いっつも終電だもん」  沙帆は笑って、携帯電話をポケットから取り出して振った。 「これでさ、終電の時刻調べて、ぎりぎりまでゲーセンとかで遊ぶわけ」 「携帯持ってるのか」 「あったりまえじゃん。おじさんの、メールできる?」  雄大は頷いて、沙帆の携帯電話を手にした。自分の持っているものと同じ機種だった。それで自分の携帯宛に空メールを打ち、電話もかけてすぐ切った。 「俺の方の着信で登録しとくよ。それから、俺のも入れとく。何かあったらすぐ連絡するんだよ」 「何もないよ」 「地下鉄の駅からアパートまでは暗くない?」  沙帆は笑った。 「そんなに心配してくれなくていいよ。あたし、おじさんの娘でも女でもないんだからさ」 「肉親や恋人じゃなくたって、仲良しの女の子のことだったら心配で当たり前だろ。地下鉄乗るまで見てようか」 「やめてよ。なんかみっともないよ」  沙帆は携帯電話をポケットに戻すと、ばいばい、と小さく手を振って丸ノ内線の改札の方へと駆け出して行った。      *  駅の改札を出ると、途端に足が重くなり、マンションが見えてくると、どうしてもそのまま帰る気がせず、雄大は公園のブランコにひとり座った。  鮎美の方が先に部屋に戻っていたら、どんな顔をして接したらいいのかわからない。  もちろん、まだ鮎美が自分を裏切ったと決まったわけではない。だがあの様子はどう考えても、ただの仕事仲間という感じではなかった。  ここ一カ月の自分の生活態度を思い返してみれば、文句を言えた筋ではないことは、雄大にもわかっていた。失業して自暴自棄になり、酒に溺れてパチンコ屋にいりびたっていた夫など、見捨てられても当然なのだ。だが、それとこれとは違う、という思いがどうしても頭から消えてくれない。  雄大はこの時になってあらためて、自分は「男」なのだな、と思った。  自分がこっそりと鮎美を裏切って他の女性と関係を持ったことについては、終わったんだからいいじゃないか、と考えている。だが、妻が自分を裏切ったとなると、たとえ終わっていようと赦せるという自信がない。理不尽なのは承知しているが、鮎美は自分のものだ、という感覚だけは捨て去ることが出来ないのだ。  だらだらと、とりとめもなく考えて時間をつぶしてから、ようやく立ち上がってマンションに向かった。  マンションの玄関前まで歩いて来たところで、立っている人影に気づいた。管理人の水谷だった。 「あ、草薙さん、お帰りなさい」  水谷は軽く頭を下げたが、その場を動かない。 「どうかなさったんですか?」 「いや、それがですね、草薙さん」  管理人は困惑した顔をしている。 「変な話なんですよ。あ、お時間は……」 「構いませんよ。何かわたしでお役に立てることがあるんでしたらお手伝いしますが」 「はあ。実はですね、さっきわたしの部屋に電話がありまして。名前を名乗らなかったんですが……もうすぐこのマンションの前で人が殺される。早く警察を呼んだ方がいい、と」 「なんですって?」  雄大は思わず周囲を見回した。 「どういう意味なんですか!」 「それが全然、わからんのです。ただそれだけ言って電話を切られてしまって……男か女かもわからなかったんです」 「それで、警察には?」 「いや」  水谷はしかめつらをした。 「それを悩んでいるところだったんです。もう誰か殺されたとかいうならともかく、もうすぐマンションの前で人が殺されるから警察を呼べと言われてもね……それでとりあえず、ここに出て来てみたんですよ。だけど、何も起こらないし、どうしたもんかと」  雄大も困惑した。確かに、変な話だった。単純な嫌がらせなのかも知れないが、しかし…… 「放火の後ですからね、いちおう警察を呼んだ方がいいんじゃないかな」 「そう思われますか、草薙さんも」 「ええ。放火事件がなければただのいたずらだと言われてしまうかも知れないでしょうが、昨日の今日ですから、警察も真剣に話を聞いてくれますよ、きっと。もしその電話の内容が本当のことになったりしたら、それこそ大変ですからね、すぐ警察を呼んでおいた方がいいでしょう」 「そうですね」  水谷は頷いて言った。 「やっぱりそうしておいた方がいいですね。いや、草薙さん、ありがとうございました」 「わたしがここに立って見てますから、どうぞ中で電話して来てください」 「お願いできますか。それじゃ、ちょっと急いで」  水谷は駆け出して管理人室に飛び込んで行った。  雄大は煙草を取り出して火を点けた。  時間が長く感じられた。今にも目の前の暗がりから誰かが飛び出して来て、自分のことをナイフか何かで刺すんじゃないか、そんな気がして正直、恐かった。  だが結局何も起こらず、水谷は二、三分で戻って来た。 「交番に直接電話しましたから、すぐに来てくれるそうです」 「警察が来るまでここにいましょうか」 「いいえ、大丈夫ですよ。ほら」  水谷は防犯ブザーを持っていた。 「何かあったらこれを鳴らします。そうしたらマンション中の窓が一斉に開きますよ。これ、特大にしてあるんです、音量を」  雄大は少し心配でそのまま警察を待とうとしたが、水谷に固辞されて仕方なく、自分の部屋に向かった。水谷にしてみれば、臆病な人間だと思われたくない、という気持ちがあるのだろう。警備会社から派遣された住み込みの管理人だったから、頼りない人だと住人に噂されては困るのだ。  何となく、すっきりしない。おかしなことばかり続いている気がする……あの夜、意識がないままに誰かに袋叩きにされた時以来。  部屋に戻ると幸いなことに、鮎美はまだ帰宅していなかった。今夜はこのまま寝てしまおう、と雄大は思った。一晩寝て気持ちを落ち着けてからでないと、鮎美と冷静に話し合いなど出来ないだろう……いやそもそも、俺は鮎美と話し合うつもりがあるんだろうか?  何と言えばいい? 何を訊いたらいいのだ、いったい。  あの男は誰?  あの男ってどの人のこと?  あの男だよ、池袋で一緒に歩いていただろう。  ああ、仕事の関係の人よ。でもどうして見かけたなら声掛けてくれなかったの?  どうしてって……それは……  雄大は溜息をつき、冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。  もう酒に溺れるような馬鹿な真似はすまいと心に誓ってはいたが、もう少しだけ飲まなくては眠れそうにない。  ソファに座り、テレビをつけたが画面で何が起こっているのかまったく頭に入って来ない。ボリュームをあげても、タレントたちが喋っている会話の内容が理解出来なかった。  心ここにあらず、ってのは、こんな状態なんだな。  情けなかった。  電話のベルが鳴った。すぐに留守番電話の録音が応答する。解除して電話に出る気力が起きなかった。 「あの、高嶋鮎美さんの同僚の、皆川と言います」  鮎美の会社の女の子か。鮎美は旧姓のまま仕事を続けている。 「高嶋さん、お戻りではないんですよね? あの、高嶋さんがお宅にお戻りになられたのなら別にいいんですけど、もし今夜お戻りではないようでしたら、ご主人様、申し訳有りませんが至急、わたしの携帯電話にご連絡いただけませんでしょうか。番号は……」  何を言っているんだろう、この人は。  雄大は缶ビールをテーブルに置くと立ち上がり、電話機に近付いた。録音が終わり、電話は切れている。再生してみた。 『……もし今夜お戻りではないようでしたら、ご主人様、申し訳有りませんが至急、わたしの携帯電話にご連絡いただけませんでしょうか……』  これはどういう意味だ?  つまり鮎美が今夜帰らないようなら、携帯に電話してくれ、ということか? 明日の朝会社に、ではなく、今夜戻らなかったら、急いで携帯に?  壁の時計を見た。まだ十一時を過ぎたところだった。いつもの鮎美の帰宅時間からしても、まだ早いくらいの時刻だ。  それでも雄大は、録音された電話番号を書き留めて、プッシュした。 「はい、皆川です」  若い女性の声が応えた。 「あ、あの……草薙です。高嶋鮎美の夫ですが」 「高嶋さん、お戻りになられましたか?」  切羽詰まったような声だった。 「いや、まだなんですが。でもいつももっと遅いから……ただお電話いただいたもので、どうしたのかなと」  受話器の向こうで、小さな溜息のような音が聞こえた。 「あの……こんなことお話ししていいのかどうか……あの……何でもないことかも知れないんです」 「はあ」 「もし何でもないことだったらご迷惑だし」 「いや、いいですよ、別に。何でもなかったとしたらそれでいいわけだから。えっと、いったい何があったんですか? うちのやつがどうかしましたか?」 「それが……七時半くらいのことだったんですけど、あたし……会社の近くの道路で、見たんです」 「何を?」 「その……高嶋さんが……男性に腕を引っ張られて無理矢理車に……」 「何だって?」  雄大は思わず大声になった。 「どういうことなんですか、それは!」 「わ、わからないんです。無理矢理、というのはわたしの見た感じで……高嶋さんは叫んでいたわけじゃありませんでした。でも何となく抵抗しているみたいに見えたんです。それで、何かトラブルかな、と駆け出して追い付こうとしたんですけど、間に合わなくて……高嶋さんを乗せて車は出てしまって……」 「今、どちらですか」 「え、あの、自宅です」 「詳しい話を聞かせてください。電話じゃラチがあかない、場合によっては一緒に警察に行かないとならないでしょう? そちらに行きます。場所は?」 「あのでも、もしかして高嶋さんがお戻りになったら」 「伝言を残しておきます。住所を教えてください! 早く!」 [#改ページ]    事 態 緊 迫      1  マンションを出て行く時に、玄関の前から原付バイクに乗った警察官が去って行くのを見た。管理人が呼んだ交番の警察官だろう。管理人の水谷のところにおかしな電話がかかってから、かれこれ一時間は経つが、何も事件は起こっていない。やはりいたずらだったのだろうか。それにしては、悪質だが。  雄大は管理人に事の顛末《てんまつ》を聞く時間も惜しんで表に飛び出し、駅まで走った。走った方が断然早い。走りながら鮎美の携帯電話を呼び出したが、電波が届かないところにいるのか電源が入っていない、と応答されただけだった。  駅に着くと、ちょうど出るところだった電車に何とか間に合った。だが池袋から先はタクシーを拾わなければならないかも知れない。電話をかけてきた皆川という女性は荻窪に住んでいる。JRの最終に運良く間に合えばいいのだが、たぶん、無理だ。  電車が池袋に着くまでの間、雄大は座ることもせずにドアにからだをもたせかけ、窓の外の夜景を睨んでいた。  鮎美が男に連れ去られた。こんなこと、現実なんだろうか、ほんとに。  皆川の話では鮎美は抵抗はしていたが、悲鳴をあげたりはしなかったらしい。もし見知らぬ男に車内に引きずりこまれそうになったら、大声ぐらいはあげるだろう。とすると、車の男は鮎美の顔見知りなのか。  昼間見かけた男のことが思い浮かんだ。だがあの男と鮎美とは、とても親しそうだったじゃないか。わずか数時間で、無理矢理車に引っ張りこまれるほどの仲たがいをしたというのは、あまり考えられない。  想像を始めるとどんどん悪い方向に考えが流れてしまい、雄大は思わず額をガラスに打ち付けて思考を停止させた。  池袋に着いて山手線の乗り場まで走って、ぎりぎり中央線に乗り換える最終に間に合った。  荻窪の駅から皆川に電話すると、丁寧に道順を教えてくれた。駅まで迎えに行こうかとまで言ってくれたが、深夜なので遠慮して、携帯に住宅地図を表示させながら徒歩十分ほどの道のりを時折小走りになりながら歩いた。  皆川が住んでいるのは女性専用のマンションだった。玄関口にそう書いてあるのを見るとやはり中に入るのは気がひける。だが管理人が常駐しているわけではないらしい。ガラスの自動ドアを入るとこぢんまりとしたエントランスになっていて、その奥に閉じた木製のドアがある。オートロックの解除をインターホンで皆川に頼んでからそのドアのハンドルを握って押すと、ゆっくりと開いた。 「わかりにくかったでしょう」  挨拶しようと頭を下げた雄大に、小柄な皆川が気の毒そうな声で言った。 「昼間ならバスもあるんですけど、タクシーに乗るほどの距離でもないし、半端なんですよね」 「こんな夜分に押しかけてしまって申し訳ありません」 「いいえ、あたしがいけなかったんです。もっと早くご連絡すべきでした」  皆川に部屋の中に通され、雄大は遠慮しながら奥に進んだ。  いかにも女性らしい、ギンガムチェックで統一されたリビングのインテリアを見た途端に、雄大は後悔した。いくら鮎美のことで頭に血がのぼっていたにしても、独身女性の部屋にこんな時刻に押しかけるというのは非常識すぎる。  だが皆川はそんなことを気にしている様子ではなかった。むしろ、雄大以上に鮎美のことが心配らしく、顔色が心なしか蒼い。  雄大がフローリングの床に置かれた大きなクッションの上に腰をおろすと、皆川はウーロン茶を出してくれた。 「あの、ビールの方がよろしければ……」 「いや、これでけっこうです。お気遣いありがとうございます。それで、さっそくですみませんが」  皆川は頷いて、雄大の真向かいに座った。ソファの類は置かれていず、チェストなどもみな小さめで、低く暮らすインテリアに統一されている。 「あらためまして、高嶋さんと同じ部署で働いています、皆川恵理と言います」  彼女が頭を下げたので、雄大もつられて下げた。 「高嶋さんは、珍しく早めに会社を出られたんです」  恵理は、思い出すように首を傾げながら話し出した。 「いつもは早くても九時頃までは仕事をされていましたし、早く出る時は会食や取材などの予定が入っているのがふつうでした。まあ、うちは雑誌ですから、高嶋さんだけというわけではなくて、みんな似た様な感じなんですが。つまりその、定時、という考え方がないんですね。出社時刻も必要に応じて、という」 「わかります」 「それで、珍しいですね、とつい、お帰りになる時に声を掛けたんです。そうしたら、ちょっと私用なの、と。でもその時は、何だか楽しそうで……」 「楽しそうだった?」 「ええ。少なくとも、これから行きたくないところに行く、というふうではありませんでした。それで、あの……旦那様とどこかでお食事なのかな、と思ったくらいなんです」  恵理は言い難そうに下を向く。自分の様子から相手が夫ではなかったと判って、気まずいのだろう、と雄大は思った。 「高嶋さんが編集部を出て行ってすぐ、わたしも用事が出来て会社を出ました。どうしても至急確認しないといけないことがあって、近くの本屋さんまで地図を買いに行ったんです」 「それが七時半くらいだったわけですね」  恵理は頷いた。 「時計を確認していたわけではないので正確なことは判らないんですが、高嶋さんがお帰りになったのが七時二十分くらいで、それから間もなくでしたから。会社からその本屋さんまでは徒歩で七、八分くらいなんですが、そこまで歩く途中で、歩道に寄せて停まっている車の横で、高嶋さんが男の人と言い争っているのを見たわけです。でも、怒鳴ったり騒いだりしていたわけではありませんでした。何かこう……男の人が車に乗れと言っていて、高嶋さんが拒否している、そんな感じです。その内に男の人が助手席のドアを開けて高嶋さんのからだを押すようにし始めて。高嶋さんは確かに抵抗していました。それでわたし、何だか悪い予感がして走ったんです。でも結局高嶋さんは車の中に入り、男性がドアを閉めて運転席の方にまわりこんで……わたし、つい大声で、高嶋さん、と呼びかけてしまいました。でも車内の高嶋さんには聞こえなかったと思います。ただ運転席に乗り込もうとしていた男性が、ちらっとわたしの方を見ました。でもその人はわたしを無視して車を発進させてしまいました」  恵理の話だけから推測すると、やはり鮎美は見ず知らずの男に無理に連れ去られたのではなく、顔見知りの人間と一緒だということになる。 「二人がどんな話をしていたのかはわかりませんか」  恵理は首を横に振った。 「かなり離れていたものですから。でも、時々声が大きくなって、高嶋さんが強い口調で、困ります、とか、今夜は無理です、とか言っていたのはわかったんです。それもあってわたし、なんだか心配で……つい、お宅に連絡してしまったんですけれど、もし高嶋さんのプライベートな問題で高嶋さんに何の危険もないのでしたら、まったく余計なおせっかいですから……」 「いや、連絡していただいて本当によかったと思います。たとえ危険はなかったにしても」  雄大はもう一度自分の携帯を取り出して鮎美を呼び出してみた。相変わらず繋がらない。 「やっぱり変ですよ。妻は仕事柄、常に携帯はチェックしているはずなんです。JRや地下鉄で移動している時に電源をオフにすることはあるかも知れないが、さっきからもう一時間以上、繋がりません」 「地下のお店とかにいれば、繋がらないことはありますよね」 「電車の中からメールも入れてあるんです。地下の店にいたとしても、自由に出入りできる状況ならば時々はチェックしているはずです。それが返事もない」  恵理は顔を覆った。 「……どうしたらいいんでしょうか」 「今警察に連絡しても、相手にして貰えないかも知れませんね。成人の家出や失踪というのは本人の意志によることが多いので、事件に巻き込まれているという証拠がない限りは、警察も動けないんです。皆川さんから聞いた様子では、少なくとも問題の男のことを、妻は知っているらしい。やはり、一晩は待ってみるしかないでしょうね」 「……そうですね」 「もうこんな時間なので、朝になったら心当たりに電話してみます」  雄大は頭を振った。 「皆川さんから直接お話をお聞きして、いくらかわたしも落ち着きました。カッとなって押しかけてしまいましたが、これで帰ります。今夜一晩待っても妻が戻らなければ、警察に相談します。その時には皆川さん、一緒に行って警察に説明していただけますか」 「それは、もちろん……でもあの、よろしければもう今夜は遅いですし、ここで高嶋さんからの連絡を一緒にお待ちしても……わたしもこのままだと、気になって眠れないと思いますし」 「いや」  雄大は深く頭を下げた。 「ご親切は感謝します。しかし、どのみち妻が戻るとしたら家ですから、家で待ちたいと思います。本当にありがとうございました」  恵理はまだ不安そうだったが、それでも雄大の言葉に頷いた。  恵理の住むマンションを出て、タクシーの拾える通りまで歩いた。  午前一時を過ぎて、住宅街には人の気配がない。今さらのように、こんな時間に女性の部屋に押しかけた自分のあさはかさが恥ずかしくなる。  それでも、鮎美に何かあったのかも知れないと思ったとたん、自分は冷静さを一切失ってしまったのだ。  こんなに心配しているのに。  親し気に見知らぬ男と歩いていた鮎美の背中が、やけにはっきりと脳裏に浮かんだ。  あらためて口にするようなことではないと思っていた。でも他には表現のしようもなかった。  自分は、鮎美を愛しているのだ。  他の女性と比較の出来る対象ではない、特別な存在として。ただ結婚しているから、法的に家族だから、ということではなく。  しかし雄大は感じてもいた。  自分と鮎美との関係は今、転機にさしかかっている。自分が失業したから何かが変化したわけではない。たぶん……鮎美の口調から考えて、もうずっと前から変化は起こっていたのだ。それに自分は気づかなかった。何も。仕事さえしていれば、他のことはほうっておいてもうまくいくのだ、というまるで根拠も理屈もない思い込みに埋もれて、毎日を過ごしていた。雄大にしたって、仕事ばかりして家族を顧みない夫、という存在が非難の対象になることくらいはわかっていたのだ。だが、それは、家にいて子供の面倒をみる以外にやることのない主婦が口にすることなのだと考えていた。少なくとも鮎美は、理解してくれる。鮎美自身がほとんど家にいる時間もないほど忙しいのだから、そんなことに不満を抱くはずがない。だからこそ自分は鮎美を選んだのだ。何と批判されようと、雄大は会社の中でステップを一段ずつ上がることを楽しみにしていたし、そうしてより豊かな生活を手に入れることは、勝利なのだと信じていた。その勝利を得る為には、かまってくれと足下にまとわりつく家族という存在は、どう考えても邪魔なものだった。しかし鮎美ならば決してそんなことはしないだろう。彼女とは「似た者同士」なのだ。だから自分は、そんな鮎美が好きなのだ。  全部、錯覚だったんだろうか。  雄大は上を見上げた。  ふたりで働いて稼いで、互いの自由を束縛し合わないで暮らす。  その考え方のどこに、間違いがあったと言うんだろう。  月が出ている。蒼白い色の半月だった。 「草薙さん?」  背後から声がかかって、雄大は驚いて振り返った。そして、さらにもっと驚いた。  饗庭景子だった。      2 「やっぱり草薙さんね。驚いた」  景子は、記憶の中にいた彼女よりも少しふっくらとしていた。 「どうしてこんなところにいるの?」 「ど、どうしてって……ああ、あのね、友達のところからの帰りなんだ。タクシーを拾おうと思って。君は?」 「家がこの近くなのよ」  景子は掌で先の方を示した。 「すぐそこ。今、コンビニの帰り」  確かに景子は、白いコンビニの袋を手に下げていた。 「それにしても久しぶりね。何年ぶりかしら」 「君が退職した時から会ってなかったよ」 「じゃあ、三年ぶり?」 「もうそんなになるかな。ご主人は、元気?」  景子は笑い出した。嫌な感じの笑い方ではなかったが、遠慮がない。 「いやね、そんな挨拶。あなた、磯村の顔、知らないじゃないの」 「……そうだったかな。なんか、紹介されたように勘違いしていた」 「もう別れたのよ」  景子は何でもない、という声で続けた。 「一年近く前にね。でも離婚が成立するのにやっぱり一年くらいかかっちゃったから、実質的には結婚生活は一年ちょっとで終わってたけど」  雄大はどう会話を続けていいのかわからなくなっていた。このまま景子の離婚について突っ込んで聞く立場にはもちろんないわけだし、かと言って、自分から話している相手に向かって、興味ないからその話はやめましょう、とも言えやしない。  仕方なく、雄大はそのまま黙っていた。 「ねえ、こんなところでこんな時間に立ち話っていうのもなんだし、ちょっと寄らない、うち。すぐ近くだから」 「いや、今夜はちょっと」 「どうせもう電車はないからタクシーでしょ。だったら三十分ぐらい」 「いやあの、実は仕事がやりかけでね。これから会社に戻るんだ」 「会社って、もう決まったの、新しいところ」  雄大は景子の顔を見て瞬きした。景子はまた屈託のない笑い声をあげた。 「聞いたのよ、企画室の小林江美から。彼女とは今でもしょっちゅう電話し合ってるの。災難だったわよね、草薙さんのせいじゃないのに。今、再就職、大変だったでしょう? あたしも苦労したもの。一度結婚して家庭に入っちゃうともう、それだけで門前払いなのよ。面接で、主婦ボケした女性は仕事ができるようになるまでに時間がかかるからねぇ、なんて皮肉言われて」  景子も苦労したんだな、と思った途端に、懐かしさと親近感で雄大の気持ちがゆるんだ。今の時代、再就職に苦労しない幸運な人間よりも苦労している人間の方が圧倒的に多いのだろうが、それでも、同じ屈辱を味わった仲間だと思うと、このまま彼女の部屋で話し込みたいという気さえしてくる。  だが雄大はもちろん、それどころではない、と自分に言い聞かせた。 「俺もちゃんと決まったというわけでもないんだけど。まあ暫定的に」 「バイト扱い?」 「うん……まあね」 「あたしも契約社員でやっと潜り込んだけど、いつになったら正社員にしてくれるんだか、保証は何もないのよ。女一人、食べていかないとならないのにさ、一年先、三年先って考えると憂鬱だわ。でも残念ね、せっかく久しぶりに会えたのに」 「うん……そうだね」 「今度時間のある時に電話してよ」  景子はポケットに手を突っ込み、携帯電話を取り出した。 「草薙さん、番号、変わってない?」 「え、あ……うん」 「じゃ、こっちから今かけるから、着信履歴で登録して」  景子がそう言ったとほとんど同時に、雄大の胸ポケットの中で携帯が振動し、すぐに止んだ。 「ほんと、電話してよね。また飲みたいじゃない?」  景子は笑顔のままそう言って、小さく手を振ると通りを横切り、あっという間に小道の奥へと消えてしまった。  引き際が鮮やかだというのは、昔から少しも変わっていないな、と雄大は妙な感慨をおぼえた。 「あたし結婚するの。だからあと一度だけ、お願い」  社内電話でそう囁かれた時の、表現できない複雑な気持ちを雄大は思い出していた。  安堵が六割、残念が四割。自分でも自分のことをずるい人間だと半ば軽蔑しながら、それでも、最後に一度だけ、という言葉の甘美な響きには抗することが出来なかったのだ。  あの夜の景子ほど魅惑的な女を他には知らない、と、雄大は今でも思う。  雄大は、拳でこめかみを叩いた。今はそんなことを考えている場合ではない。  タクシーはすぐに拾えた。長距離なので運転手は上機嫌だったが、雄大は車が進むにつれてどんどん陰鬱な気持ちに落ち込んでいった。午前二時を過ぎても鮎美からは連絡が来ない。仕事で朝帰りすることはよくあったが、電話の一本も入れてこなかったことはなかった。  なんでもない、なんでもない、なんでもない。  呪文のように口の中で唱えて、雄大は自分を落ち着かせようとした。  深夜なので道は空いていた。自宅のマンションが近づいてくると、雄大は期待して車窓に目をこらした。今そこに、鮎美を乗せたタクシーが現れるんじゃないか。窓越しに、あら、と鮎美が笑って手を振るんじゃないか……だがマンションの前に車が横付けされても、周囲にタクシーの姿はなかった。  部屋まで走った。エレベーターを待つ時間ももどかしかった。それなのに、鍵を取り出さずにまずチャイムを鳴らした。鮎美がドアを開けてくれればいい、そう思って。  ドアは開かなかった。沈黙だけが廊下に流れていく。  雄大は諦めて鍵を使い、誰もいない部屋に戻った。それでも、靴を脱ぐ時間も惜しみながら電話機に飛びついた。メッセージだけでもいい、鮎美から連絡が欲しい。今、どこで何をしているのか、消息が知りたい。  再生されたのは、メッセージはありません、という感情のこもらない女性の声だけだった。  雄大は、ソファにへたり込んだ。  そしてそのまま、じっと身動きせずに朝を待った。考えながら……思い出しながら。  恭子に紹介されて鮎美と初めて会った日のこと。  いつの間にか、恭子と会うことよりも恭子が連れて来る鮎美の顔を見ることを楽しみにしている自分に気づいて、愕然とした日のこと。  そしてあの、クリスマス・イヴの日。恭子に別れを告げる決心をした時の、あの心臓の痛みと高鳴り。  恭子と別れてから、鮎美に結婚を申し込むまでにかかった日々に味わった、喜び、不安、焦り。  鮎美にプロポーズした瞬間の、頭の中が真っ白になった興奮。耳鳴り。こめかみの痛み。  なぜ時間というのはいちばん幸せなところで停めてしまうことが出来ないのか。なぜ、と問いかけるのが空しいことはわかっていても、雄大は今、切実にその答えが知りたいと思っていた。  たった数年の歳月で、どうしてあの頃の胸の高鳴りを感じられなくなってしまったのか。いったいいつから、鮎美の顔を見ているだけで鼓動が速くなることもなくなってしまったのか……  それでも、自分は鮎美を愛しているのだ。そのことだけは痛いほど思い知った。でも鮎美はどうなのだろう。彼女の胸の鼓動はどんな速さで時を刻んでいたのだろう……この数年間の結婚生活の中で。  夜が明けた。  六時になるまで我慢してから皆川恵理に電話をかけた。恵理はすぐに電話に出た。やはり寝ていないのだろう。 「そうですか」  恵理の声が泣き出しそうに震えていた。 「変ですよね……何も連絡がないなんて」 「いや」  雄大は努めてしっかりした口調になるように言った。 「これまでも取材だとかで丸一日帰って来ないことはあったし」 「仕事の可能性は、あまりないと思うんです」  恵理の言葉は断定的に響いた。 「ゆうべ、高嶋、いえ、草薙さんのお宅にお電話する前に、思い付く限りのところには電話して調べてみたんです。それに、草薙さんがお帰りになった後も、遅くまでテレビ局での撮影や舞台稽古の取材に出ている人たちに片っ端から電話してみました。高嶋さんが行かれていないか、誰か高嶋さんと待ち合わせていないかって……でも誰も……」 「わかりました。そろそろ朝ですから、わたしはこれから彼女の友人に連絡をとってみます。それでも居場所がわからなければ、実家に連絡します。警察に連絡するのは、そちらの会社のかたと相談してからの方がいいかと思うんですが」 「……では、わたしは出勤して高嶋さんの上司と相談してからご連絡します」 「そうしてください。よろしくお願いいたします」  仕事ではない。雄大は、最後の希望を断たれた気分でいた。取材先の都合か何かで連絡する方法がないだけなのだと、堂々|回《めぐ》りする想像の果てに結論づけて、この一夜を乗り切っていたのに。  午前七時になったら、鮎美の友人たちに電話して、それから実家だ。だが義父母にこの話をするのは何とも気が重かった。まさか実母が駆け落ちしたとは知らなかったが、恭子の話を聞くまでもなく、鮎美の現在の母親、義母と鮎美の間に血の繋がりがないことは知っていた。義父の再婚相手が今の義母なのだ。だが義父母とも、鮎美のことはとても大切にしている。二人とも福井に住んでいるので、正月の休みくらいしか会うことが出来ないが、電話は月に一、二度必ずかけて来たし、葉書もよく届いていた。娘のことがかわいくて仕方ないのだ。たった一晩のこととはいえ、連絡なしに鮎美が戻らないなどと知ったら、どうしてもこちらに出て来ると言い張って聞かないかも知れない。  雄大は眠気覚ましに濃いめのコーヒーを一杯飲んでから、ベランダに出た。  もう夜はすっかり明け、ひんやりとした空気の中に自転車を漕ぐ音が微かに聞こえている。朝刊を配っているのかも知れない。目の下には、マンションの駐車場が見えている。駐車場の隅に、小火騒ぎのあったゴミの集積場があった。  あれ?  今、人がいたよな?  視界の隅に確かに人影があったように思ったのだが、見直してみると誰もいない。雄大は嫌な予感がした。また放火魔だったら?  反射的に、雄大は部屋を出てエレベーターに乗っていた。しかし、ゴミ集積場には心配していたような白煙があがっていたりはしなかった。その代わり、大きな袋に大量の空き缶やペットボトルが入れられたものが置いてあった。  おいおい、またかよ。雄大は呆れて肩を上下した。空き缶やペットボトルなどの資源ゴミの回収は、土曜日と決まっているのだ。それなのに、無関係な日にこうやって出してしまう奴がいる。それでさっきの奴はこそこそしていたのだろうが、こそこそとゴミを出しに来るくらいなら、どうしてちゃんと決められた曜日を守って出さないんだろう? 「あら嫌だ!」  甲高い声がして振り返ると、そこに鳴尾夫人が立っていた。 「草薙さんたら、資源ゴミは土曜日って決まっていること、ご存じでしょう。困りますわよ、いくら腐らないものだからって、今日は燃えるゴミの回収日なのに、混ざってしまうじゃありませんか!」 「あ、ご、誤解です!」  雄大は、目をつりあがらせた鳴尾夫人に向かってしどろもどろに言った。 「違うんです、わたしが出したんじゃないんです。上のベランダから何気なくここを見たら、人影がさっと立ち去ったのが見えたもので、もしかしてまた放火じゃないかと心配になって降りて来たらこれが……」  鳴尾夫人は疑わしそうな目で、雄大と資源ゴミの袋とを交互に見ていた。 「まあ」  やがて、鳴尾夫人は頷いた。 「草薙さんがこんなことするとは思いませんけどね、確かに。それを出した人は草薙さんじゃないわね」 「わかってもらって助かりま……」 「これよ」  鳴尾夫人は、ゴミ袋に近寄って、半透明な袋からすけて見えているビールの空き缶を指さした。 「ドライビールだわ、これ、みんな。草薙さんのところはお飲みにならないでしょ、ドライは」  雄大は心底仰天した。確かに雄大はドライビールが苦手で買ってまで飲むということはない。だがどうしてそんなことを、鳴尾夫人が知っているのだ?  雄大は今さらながら、主婦、という存在に畏敬の念を抱いた。彼女たちの情報網を甘く見ていると、大変なことになるぞ。 「いずれにしても、一昨日の放火だって指定日以外の日に古紙を出した人がいるから起こったんだし、管理人さんと相談しなくちゃならないわね」  鳴尾夫人は腕組みをしていた。 「こういうことって、曖昧にしておくとみんなどんどんルーズになるでしょう? 集合住宅では、最低限のルールはみんなで守らないと、必ず大きなトラブルになりますからね。草薙さん、これを置いて逃げて行った人の顔、見ました?」 「い、いいえ。上からちらっと見ただけなもので……」 「男性? 女性?」 「さあそれも……スカートは穿《は》いてなかったように思うんですが」 「どうせなら犯人を捕まえてくださればよかったのに」 「は、犯人ですか」  資源ゴミを指定日以外の朝に出したというだけで、と言いかけて雄大は黙った。鳴尾夫人の顔は真剣そのものだった。 「こういうことって、その場で取り押さえて注意しないとだめなんですよね、万引きと一緒ね」 「……万引き」 「そう。ずっと前にも似たようなことがあったのよ。燃えるゴミを出す日をどうしても守ってくれない人がいたんです。生ゴミが混ざっていると、カラスがつついて袋を破ったり野良猫が集まって来たりで、大変なことになっちゃうの。でもいくら自治会報や回覧板で注意を呼びかけてもあらためてくれなくて。管理人さんもほとほと困ってね、仕方なく、指定日以外の日に出された生ゴミを自分の部屋に引き取ってくれて。でもそれじゃあんまり気の毒でしょ、だから非常手段に出たんです」 「非常手段、ですか」  鳴尾夫人は重々しく頷いた。 「プライバシーの侵害になるんじゃないかってちょっと気がひけたんですけど、出されたゴミをみんなで調べたんですよ。捨てた人の手がかりがないかどうかって」  雄大は呆気に取られていた。そこまでやるわけか……この女性たちは。 「それで、中に入っていた破ったダイレクトメールの封筒の宛名でやっと、犯人が判ったの。でもね、その人に注意をしたらしらばくれちゃって。証拠はあるのかって開き直るものでつい、ダイレクトメールのことを言ってしまったら、もう烈火のごとく怒って。人権侵害だから弁護士に相談するって騒がれて、大変だったんですよ。あら、この話、確か草薙さんたちが越していらしてからのことだったと思うんだけど、憶えてません?」  そう言われてみれば、ゴミ出しのことで揉《も》め事が起こっているらしい、という話を鮎美から聞かされたことがあったような気はした。だがその鮎美にしたってあまり興味はなさそうだったし、雄大にもまったく関心のない話だったので、今の今まで思い出しもしなかったのだ。 「結局、その人は引っ越しちゃいましたけどね。そりゃそうよね、だって」  鳴尾夫人はクスッと笑って手で口をおさえた。 「あらいけない、こんなこと男性に話すようなことじゃなかったわ。ごめんなさい、そんなわけなのよ。つまりね、ゴミ出しひとつだってトラブルになると大変だってこと。いいわ、草薙さん、その袋、わたしのところで預かります」 「え、いや、だってそれじゃ……」 「生ゴミではないから、土曜日までベランダに置いておいても臭ったりはしないでしょうし。ここにこのまま置いておくと、騒ぎになるかも知れないでしょ。その代わり、わたしから管理人さんと自治会長には報告しておきますから、もし事情を聴かれたら答えてあげてくださいね、草薙さん」  鳴尾夫人は資源ゴミの詰まった袋を掴むと、さっさとマンションの中に入って行ってしまった。  雄大は溜息をひとつついて部屋に戻った。  ゴミ出しがどうとかこうとか、今はそんなことで騒いでいる場合じゃないんだ、まったく。確かに、指定日じゃない日にゴミが出ていれば迷惑するだろうけれど、ゴミの点検までして犯人を割り出さなくたって何か解決策がありそうなもんだ。主婦ってのは、あれでけっこう残酷なことを考えるもんなんだな。  それどころじゃない。  今は、鮎美のことが問題なんだ……他の何よりも。      3  七時を過ぎてから鮎美の友人関係で、雄大の知識の中にある人間には片っ端から電話してみたが、鮎美の消息を掴むことは出来なかった。  結局、鮎美の実家には電話しなかった。どうしても気が重かったのと、ともかく鮎美の上司と相談して警察に届けるかどうか決めてからにしよう、という意識が働いたからだった。  皆川恵理からは八時半前に電話があり、雄大は鮎美の会社へと向かった。  神保町の出版社が鮎美の会社だったが、実際に鮎美が通っていたのは、本社とは別のところにある編集部だった。九段下の地下鉄の駅から神保町方向に徒歩五分、七階建ての雑居ビルの三フロアに、それぞれひとつずつ鮎美の会社の雑誌編集部が入居している。そこに足を踏み入れたことは一度もなかったが、たまたま車でその前を通りかかった時に、あそこよ、と鮎美に教えてもらったことはあった。  四階のエレベーターの前に小さな受付があり、そこで名前を告げると待ち構えていたように恵理が現れた。そのままフロアの中に通されたが、十時近くなっているのにがらんとしていて人がいない。学生ふうの若い女性がひとり、電話の応対をしているだけだった。 「アルバイト以外はまだ誰も来ていないんです」  恵理が肩をすくめて笑った。 「編集は朝が遅いんですよ。みんな揃うのは午後になってからなんです。特にうちは芸能系で、夜中の取材なんかも多いですから」 「鮎美も出勤は遅かったですね、そう言えば」 「高嶋さんは早くいらっしゃる方でした。十一時には机に座ってらっしゃいましたから」 「朝はずっとすれ違いでした。わたしは七時半には家を出てましたから」 「それがふつうですよね」  恵理は雄大をフロアの奥に置かれていたソファに案内した。雄大が座るとほぼ同時に、奥のドアが開いて五十がらみの男が顔を出した。  雄大はまた腰をあげた。男が名刺を出したのに戸惑う。自分にはもう、出せる名刺がないのだ。 「浪江《なみえ》と申します」  肩書きは編集長になっていた。 「今朝皆川さんから電話をもらって驚きました」 「私事でご心配をおかけして申し訳ありません」  雄大は頭を下げた。 「いや、プライベートな問題なのかどうかまだわかりませんからね」  浪江の顔は真剣だった。 「皆川の話では、高嶋、いえ、奥さんが不審な男の車に乗って消えたのは会社帰りだということでしょう?」 「しかし、プライベートな用事があるようなことを言っていたようです」 「そのあたりはどうなの、皆川くん」 「はい」  恵理は頷いて、考え考え言った。 「ご主人にもお話ししたんですけど、昨日、高嶋さんは帰り際に、ちょっと私用があるので早く帰る、みたいなことをちらっと言ったんです。でも決して嫌な用事ではなさそうでした。何となく楽しそうだったので……ご主人とどこかで待ち合わせて食事でもするのかしらと思ったくらいです」 「しかし、車の男とは言い争っていたんだろう」 「ええ、かなり激しく」 「だったら、彼女の私用と、その男とは無関係かも知れないわけだ」 「この『楽園時代』のような雑誌でも、仕事絡みでトラブルになるなんてこと、あるんですか」 「ありますよ。もちろんスキャンダルを追いかける芸能誌や週刊誌などとは比較になりませんが、世の中というのはおかしな人間がけっこういるもんなんです」  浪江は苦笑いした。 「数カ月ほど前にもありましたよ。歌舞伎の記事で、ある人気役者の演技がいまひとつ冴えなかったことについて批評したら、その役者さんの熱烈なファンから嫌がらせ電話が入るようになりましてね。まあ本人は嫌がらせだとは思っていないんでしょうが、ともかく一度電話に出ると、ずっと同じことを喋り続けるんです。その批評記事自体は評論家の書いたものだったんですが、どうした精神的経緯があるものなのか、その人の頭の中では、記事を書いた評論家ではなく、それを掲載した編集部に責任がある、ということになっているようなんです。それで担当者が居留守をつかうようになるとわたしを呼び出し、わたしも居留守をつかうようになると、アルバイトでもなんでも電話に出た人間に対してしつこく抗議を繰り返すようになって、一時は本当に困りました」 「結局、それでどうなったんです?」 「自然におさまりましたよ」  浪江は頭を軽く振った。 「たまたまなんですが、何号か後の歌舞伎の記事で問題の役者さんがほめられていたんです。もちろん、こちらが頼んで書いてもらったわけではなく、また、先に批判をした評論家とは別の人が書いた批評だったんですが、それでも抗議だか嫌がらせだかを続けていた人にしてみたら、自分のしたことのおかげで贔屓《ひいき》の役者さんがほめてもらえるようになったのだ、という解釈になるんでしょうね。それで満足したんじゃないかと思います」 「つまり、自分はいいことをしたと思い込んでいるわけですね」 「少なくとも悪いことをしているという自覚はありませんでしたね。警察に相談することも考えはしたんですが、明白な脅迫などをしているわけではないので、民事ということで取り合ってもらえないだろうと思いました」 「妻も、そうした頭のおかしな読者に狙われる危険性はあったと思われますか」 「なかったとは言えないでしょう。と言うよりも、この編集部の人間はまとめてひとりみたいなもんですからね、編集部が恨みを買えば巻き添えになる可能性はあるわけです。しかし、皆川の話を聞いた限りでは、そういう感じでもないですねぇ」 「少なくとも、一面識もない読者とかそういう人に対する態度には見えませんでした」  恵理がまた、思慮深そうに首を傾げて言った。 「顔見知りだったのは間違いないように思うんです」 「いずれにしても、昨夜の内にご主人に何の電話もなかったということは、営利誘拐という線はないと思いますね」 「警察に動いてもらうのは難しいということですね?」 「いや、最近は民事の可能性が高くても、警察は動いてくれるようです。桶川のストーカー事件だとか、会社の元同僚に拉致されて殺されてしまった青年の事件だとかありましたからね、後手に回って最悪の結果になることは警察も恐れているはずですよ。わたしと皆川がご一緒します」 「ご親切、感謝いたします」 「とんでもない。彼女はうちの会社にとっても大変に貴重な人材ですし、何より、編集部の者はみんな彼女のことが好きなんですよ。ですから仕事に関係があるとかないとかではなく、わたしも心配なんです。草薙さん、あなたはいい奥さんをお持ちだと思います、こんなことは本人には今まで一度も言ったことはないんですが」  浪江が照れた顔で言った。雄大は複雑な気分だった。鮎美が職場で好かれていると聞いたのは嬉しかったが、自分の知らない鮎美をこのフロアの人々が知っているのだ、と、あらためて認識するのに、なぜか抵抗を感じていた。  自分の知らない鮎美。  社会人として、ここで毎日働いている、鮎美。  互いに仕事を持って働いて、自立して、と言葉の上だけでは納得し、認め合ってきたようでいて実は、自分は「仕事をしている鮎美」という存在に対して、極力興味を抱かないようにして暮らしていたのだ。そこには細かで複雑な感情があった。何よりもまず、鮎美の方が自分より高給とりだという事実を、雄大は出来るだけ忘れようとしていたのだ。もちろん、それがそのまま社会人としての能力の差になるわけではないことは、充分理解している。業種の違い、給与システムの違いなどがその差を生み出しているだけだということはわかっていた。もしあのまま雄大が無事にメーカー勤務を続けて行けたなら、給与額は途中で逆転していたはずだった。だが、何をどれだけ「わかって」いようと、雄大の頭の中にコンプレックスがあったことは否定のしようがないことだったのだ。  雄大はあらためて、その部屋を見回した。  ここで、鮎美は毎日、どんな顔で、どんな声で働いているんだろう。 「あのー」  突然、フロアの端の方から声がかかって、雄大たち三人は顔をその声の方に向けた。たったひとりだけ出勤していたアルバイト女性が、受話器を片手にして中腰になっている。 「そちらのお客様は草薙さんとおっしゃられるのではありませんか」  アルバイト女性は、おずおずと訊いた。 「あ、はい。わたしが草薙ですが」 「あの、お電話がかかっているんですが」 「わたしにですか?」  雄大は立ち上がった。 「高嶋さんからじゃないの?」  恵理が嬉しそうな声で言う。 「松田さん、高嶋さんの声じゃない?」 「いいえ……違うと思うんですが」 「名前は?」浪江が鋭く訊いた。「名前を言ってないのか!」 「おっしゃられないんです……ともかく草薙さんを出せばわかると……」  浪江はいちばん手近の電話機に飛びついた。 「松田くん、248にまわしてくれ」 「はい」  すぐに呼び出し音が鳴る。雄大は受話器をとった。 「もしもし、草薙さんか?」  不自然にくぐもった声だ。マスクか何かをしたまま喋っている…… 「草薙ですが」  雄大は、早鐘のように鳴り出した心臓に片手をあてながら答えた。 「わたしに何の用です? どうしてわたしがここにいることをご存じなんです、あなたは誰なんですか!」 「妻は無事か、とは訊かないのかい」  受話器の向こう側で声が笑った。 「やっぱり、心配してるなんてのは形ばかりか。ただのポーズか」 「つ、妻はあんたと一緒にいるのか?」 「まあね」  声は笑い続ける。 「本人はもう帰りたいようだが」 「妻は……鮎美は無事なのかっ!」 「生きてはいるよ」  笑い声が大きくなる。 「今のところは」 「な、何が望みなんだ! 金ですか! 言ってください、どうしたら鮎美を返してくれるんですか!」 「まあそう、焦るなよ。ゆっくりいこうや。金もいいな、貰えるなら貰いたいね。だが金が目的であんたの奥さんに俺んちまでわざわざ来てもらったわけじゃあ、ないんだ。あんたにやって貰いたいことがあるのさ」 「な、なにをすればいいんですか?」 「後でまた指示する。警察には言うな、と言ってもどうせ言うんだろうな。まあ、警察でも何でも頼ってみたらいい。だが無駄だよ。あんたが俺の指示通りにしないなら、あんたの奥さんは死ぬ。わかったな」 「ま、待ってくれ、鮎美の声を……」 「家に帰って連絡を待て」  電話は切れた。  雄大はのろのろと受話器を置いた。別の電話機で会話を聞いていた浪江と視線が合った。 「警察だ」  浪江が言った。 [#改ページ]    絶 対 服 従      1  目の前で起こっている騒動は、まるで現実感を伴っていない、と雄大は思っていた。テレビの二時間ドラマで見た光景によく似ている。  電話機に取り付けられた傍聴と録音の為の機械。宅配便業者やピザの配達人の制服を着た警察官。サラリーマンスーツに身を固めた生真面目そうな短髪の刑事が数名、無線だか携帯電話だかで忙しくどこかと連絡を取り合い、ソファの上には、顔をこわばらせた皆川恵理と浪江が座っている。まるで、その二人が夫婦で、誘拐されたのは二人の間の子供であるかのような構図。  雄大は、あまりのことに自分がパニックを通り越して茫然自失状態になっていることに気づいた。本来なら、浪江のところに座るべきなのは自分じゃないか。何をしてるんだ、俺は。  雄大はのろのろとソファに移動した。本庁の特殊捜査班、一係とかいう部署の係長名刺を持っていた、真壁《まかべ》という名の刑事が、雄大の方に身を乗り出す。 「もう一度確認しますが、犯人は、金は目的ではない、と言ったんですね」  雄大は頷いた。 「金も貰えるなら貰ってもいい、と言っていましたが、それが目的ではないと……」 「次の電話があったら、何とか金で解決出来ないだろうかと持ちかけてみてくれませんか。ご存じと思いますが、誘拐事件では、身代金の受け渡しの時が犯人逮捕の最大のチャンスなんです」 「しかし……奴はわたしに、何か他のことをさせたいようだったんです」 「目的が別にあったとしても、犯人に金銭欲がないとは思えない。交渉してみる価値はあると思いますよ。それと、他のこととはいったい何なのか、草薙さん、見当がおつきですか」  雄大は首を横に振った。まるで見当などつかなかった。 「ストレートに金を要求してこない点だけ考えても、言い難いことではあるんですが、草薙さん、今回の事件の犯人はあなたかまたはあなた方ご夫妻に対して怨恨を抱いている可能性が高いように思うんです」 「わたしと鮎美が、誰かに憎まれているという意味ですか」 「そうなります。率直にお聞きしますが、心当たりはありませんか」 「そんな……突然そう言われても……」 「人の恨みというのは実につまらないことで買ってしまうものです。決して、極悪非道なことをした人間だけが恨まれるわけではない。場合によっては、まったく落ち度がなくても恨まれてしまうことはあります。よく考えてみてください。ここしばらくの間に、変な電話が何度かかかってきたとか、何か嫌がらせめいたことをされたとかいう記憶はありませんか」  雄大は、そんな憶えはありません、と答えようとして突然気づいた。  あのオヤジ狩りと、その後立て続けに起こった、放火や管理人に対する不審な電話などこのマンションに対しての嫌がらせだと思われていた事柄もすべて、雄大たち夫婦に向けてなされたものだったとしたら……? 「何か、思い当たられることがありそうですね」  真壁は鋭い視線を雄大に向けたまま低い声で言った。 「どんなことでもいい、関連があるとかないとかはこちらで判断しますから、ともかく包み隠さずに話してください」  雄大は頷き、話し始めた。      *  須原と高村の二人の刑事は、真壁に向かって手際よく、雄大が複数の人間に暴行をくわえられた事件について説明していた。雄大はまたしても、他人事のような思いでそれを眺めていた。それから管理人が呼ばれ、古新聞への放火の件と昨夜の奇妙な電話について説明する。交番の警官の顔も見えていた。今や雄大と鮎美の居心地の良かった小さな住居は、他人で埋め尽くされてしまっていた。  真壁はすでに、すべての事柄がひとつに繋がっているという方向で仮説を立ててしまったようで、雄大に、誰かに恨まれている憶えは本当にないのか、としつこく訊いてくる。結局、会社を辞めるに至ったいきさつまで根掘り葉掘り訊かれたが、最終的には敗者として追い出された雄大を恨む人間がいるとも思えなかった。 「遅いですね」  真壁はいらついたように腕時計と壁の時計とを交互に睨んでいる。 「最初の接触が朝の十時過ぎだったというのに、もう午後四時を過ぎる」 「まさか、鮎美に何か……」  雄大は自分が涙声になってしまうのを抑えることが出来なかった。 「悪いことを想像したらだめです。こうした時には、可能な限りポジティヴに考えましょう」  ポジティヴとは言いがたいしかめつらで、それでも真壁は言った。 「不謹慎な言い方になりますが我慢して聞いてください。営利誘拐の場合でしたら、犯人にとって人質は極端な話、生きていても死んでいても一緒です。しかし今回のケースは、草薙さんご夫妻、あるいは草薙さんひとりが標的なのかも知れませんが、何かの恨みを晴らすために苦しめようというのが目的ですから、鮎美さんが死んでしまえばある意味で、犯人にとってのゲームは終わってしまいます。あなたをそれ以上苦しめることが出来なくなるからです。その点から考えて、犯人は鮎美さんを、最後まで生かしておこうとするのではないかと、わたしは考えています」  口当たりの良い慰めより、残酷な言葉でもそうした理路整然とした推測の方が、確かに希望を与えてくれる。  しかし、何とも厳しい希望だった。鮎美が生きているとしても、犯人によって苦しめられている可能性が高いと、真壁は言っているのも同然なのだ。 「犯人は、夜になるのを待っているのかも知れないな」  真壁の言葉に、雄大も頷いた。 「いったい、わたしに何をさせるつもりなんでしょうか」 「何かヒントになりそうなことは言ってませんでしたか」 「まるで」  雄大は両手の掌で顔を覆った。 「……どうしてこんなことに……どうして……」 「会社をお辞めになった経緯については聞かせていただきましたが、その線で今でもあなたを恨んでいる人がいるとは、いまひとつ考えられないですね」  真壁は腕組みして言った。 「他に、少しでも原因になりそうなことはありませんか。たとえば……女性問題、とか」  雄大は思わず顔を上げてしまい、真壁と視線がぶつかった。 「草薙さん……今は非常事態なんですよ、おわかりですか」  真壁の口調が厳しくなる。 「奥さんの命がかかっているんです。他の懸念はどうか、今は棚上げにして、すべてを我々にお話しいただきたい」  雄大は、唇を湿らせた。饗庭景子のことを話さなくてはならないのか。 「草薙さん」  真壁の声が大きくなった。 「どうぞ話してください。隠さずに」 「昔の……同僚の女性と、結婚後に関係を持ったことがありました。しかしトラブルなどはなくて、三年ほど前に彼女は結婚退職したんです」 「恨まれるようなことはなかった?」 「結婚するので最後にしたいと言い出したのは彼女でした。わたしの方から、無理に別れたわけではないんです。そしてそれ以来、彼女から連絡もありませんでしたし……ただ……」 「ただ?」 「本当に、偶然なんですが、昨夜、皆川さんのお宅から戻る途中でタクシーを探していて、彼女に遭《あ》ったんです」 「なんですって?」  真壁の眉が大きく動いた。 「三年も音沙汰がなかった女性と、たまたま、よりによって奥さんが連れ去られたその夜に出遭った、というんですか」 「でも本当に偶然だったと思います」  雄大は慌ててポケットを探り、携帯電話を取り出した。 「彼女の家が皆川さんの家の近くだったんです。それが本当かどうかは彼女に聞いてみればすぐわかると思います」  雄大は着信履歴を見た。そして、思い出した。そうだ、沙帆の携帯電話も登録しなくては。  あれ?  着信履歴が三つあった。時刻からみて、いちばん古いものは昨夜、池袋の駅で沙帆が雄大の携帯にかけたものだろう。雄大はまずそれを登録した。次に、昨夜の景子のものがあった。そして三つめは……また沙帆からだ。最初のものと同じ番号。  どうして気づかなかったんだろう? 鮎美からの連絡を待っていたので、ずっと携帯のことは気にしていたのに。着信時刻は今朝の十時三分……ああ、そうか! 『楽園時代』の編集部にいた頃だ。もしかしたら、例の犯人からの電話を受けていた最中だったのかも知れない。だとしたら、マナーモードにしてあった携帯がポケットの中で振動しても、それを気にしている余裕はなかったかも。たぶん、沙帆はすぐ電話を切ってしまったのだろう…… 「どうかしましたか」  真壁の声に雄大は我にかえり、景子の番号を登録してそれを真壁に見せた。 「昼間は勤めに出ているみたいでした。立ち話だったので詳しいことはわからないんですが」 「ご主人のことは?」 「あ……離婚したと言ってましたが」 「ほう?」  真壁の目つきが一段と悪くなる。 「三年前に結婚退職されたのに、もう離婚されている……そうですか。わかりました、ともかくその女性のことは調べましょう。お名前は?」  雄大は、電話機の脇に置かれているメモ用紙をとって饗庭景子の名前を書いた。 「これは旧姓ですね? 結婚されていた時の名前はご存じありませんか」  その時、玄関の呼び鈴が鳴った。 「出てみてください」  真壁が諭すように言った。 「ただしくれぐれも、何が起こっているのか知られないようにお願いしますよ。犯人がこのマンションの住人と無関係だという保証はどこにもありません。少なくとも今朝、あなたは奥さんの会社に行くところを見張られている。マンションの内部に共犯者がいた可能性はあります」  雄大は頷いて玄関に向かった。  インターホンの誰何に答えたのは、伏見美香だった。      2 「あの」  伏見美香は、探るような笑顔で言った。 「どなたか、お客さま?」  刑事たちの話し声は玄関までは聞こえない。靴もすべて中に持って入っているので、玄関にあるのは恵理と浪江のものだけだった。 「あ、ええ、女房の会社の人たちが、ちょっと」 「あら、奥様もうお帰りなのね」  美香は眉を少しだけ寄せて、どことなくつまらなそうな顔をほんの一瞬だけ見せてから微笑んだ。これが計算された演技だとすれば、このひとは女優並みだな、と雄大は思った。 「だったらこれ、余計なものだったわね……また今夜も草薙さんがお夕飯、お作りになるんじゃないかと思って、お持ちしたんですけど」  美香は両手の上に大きな皿を載せていた。ラップがかけられていて、その下には鶏の空揚げが山になっている。 「鶏のもも肉がお安かったんですよ、それでね、これ作りましたの。空揚げなんて、少し作ってもたくさん作っても手間は変わりませんでしょ」 「あ、ありがとうございます……いただきます。いや、寿司でもとろうかと話していたところで」 「あら、それならよかった。無駄にならなくて」  美香はにっこりした。 「でもわたしが余計なことばかりすると、奥様、お怒りになるかしら」 「いえ、感謝していました。ヒレカツも旨かったと……あ、いや、ほんとでしたらあがっていただいてご一緒に……」 「とんでもない。奥様の会社のみなさんなんでしょう。お邪魔するわけにはいきませんわ。いいのよ、どうせ食べていただこうとお持ちしたんですから、お役に立てればそれで。あの、わたしね」  美香は、長い睫《まつげ》を揺らして瞬きした。 「わたし、嬉しかったの。わたしの料理をほめてくださって、おいしいって食べて貰えて、本当に。そういうこと、ずっとなかったから」  それだけ言うと、美香は皿を雄大に押し付けてさっと背中を向け、玄関から消えてしまった。 「なんでした?」  真壁の問いに、雄大は空揚げの皿を突き出した。 「二軒隣の奥さんが、夕飯のおかずの差し入れに来てくれたんです……わたしが失業して夕飯を作っていることを知っている人なもので」 「そうですか」  真壁は安心したように頷いた。 「我々は、管理人さん以外のマンション住民に気づかれないよう、最大限注意しています。どうか草薙さんもその点、よろしくお願いします。今、浪江さんと相談していたんですが、いつまでも編集長が会社を空けているわけにはいかないでしょうから、浪江さんたちには一度会社に戻っていただこうかと思うんですが、どうでしょう」 「それはもちろん」 「いえ、わたしは残ります!」  恵理が大声で言った。 「編集長、ここに残らせてください。仕事のことでしたら、電話で連絡をつけてなんとかします。有休を使わせてください、お願いします!」 「皆川さん、本当にもう。あなたのせいではないですから」 「でも……わたしが走ってでも追いついて、高嶋さんが車に乗せられるのをとめていれば……」  恵理は顔を覆った。 「いや、妻は最終的には自分の意志で車に乗ったんだと思います。もし本気で抵抗していれば、まだ宵の口で通行人もいたわけですから、なんとかなったでしょう。やはり、犯人は妻の知っている人物なんです。ですから、皆川さんには責任はありません」 「草薙さん」  浪江が立ち上がった。 「皆川では何の役にも立たないかも知れませんが、ここに残らせてやってはいけませんか。もう時間的にも遅いし、今から会社に戻っても、皆川のこの状態では仕事になりません。わたしは一度帰りますが、連絡係としてでも皆川がここにいてくれれば、わたし自身もいくらか気が休まります。刑事さん、どうでしょう、そうさせて貰えませんか」 「係長、女性にいて貰うのはよろしいんじゃないかと思うんですが」  それまで部屋の隅の椅子に座っていた、三十代半ばくらいの女性刑事が言った。 「彼女がこの場にいることを犯人に印象づけられれば、いざとなった時、犯人は女性である皆川さんを取り引き相手に指名してくるかも知れません。その場合、わたしが行くことが出来ます」  真壁は頷いた。 「わかりました。わたしはそれでけっこうです。草薙さんはどうお考えですか?」 「皆川さんにご迷惑でなければ……しかし、たとえ皆川さんが指名されても決して」 「わかっています。犯人が皆川さんの顔を知っていた場合にはどうしようもありませんが、そうでないようなら、うちのものを代わりに行かせます」  恵理は安心したように肩を上下させ、ソファに深く座り込んだ。帰れと言われても絶対に帰らない、と、真一文字に結んだ唇が宣言している。  雄大は浪江を玄関までおくった。警察に指示された通り、玄関ドアを半開きにしたままで、陽気な挨拶を交わして芝居を打つ。だがドアを閉めたとたんに、演技とはいえ、こんな状況で自分が笑っていたのがゆるせないような気持ちになった。  時刻はすでに六時をまわった。余りにも、犯人からの連絡が遅い。部屋の中の誰もが苛立ちはじめている。  雄大は伏見美香の作った空揚げを捜査員たちにすすめたが、彼らは食料を持参していた。美香の厚意を無駄にするのはしのびなかったので、ラップをはがしてひとつつまんでみた。まだほんのりと温かく、確かに美味だった。それでも、ひとつ呑み込むのがやっとだった。心痛のあまり食欲がまったくなくなる、という経験を、雄大は生まれて初めてしていた。  七時を過ぎた。真壁の顔にはもう、一片の笑みも浮かばなくなった。  なぜなんだ……あいつは、なぜ連絡してこない!  突然、胸のポケットが振動した。  雄大は携帯電話を掴み出し、表示を見て相手を確認する前に叫んでいた。 「もしもし、鮎美か!」  だが耳には何も聞こえてこなかった。雄大は携帯を見た。  受信メール一。 「メールか」  雄大は受信したメールを開いてみた。  空だった。何も書かれていない。 「誰からなんですか?」  真壁の鋭い声が飛ぶ。雄大は発信者の氏名を見た。  沙帆からだった。 「知り合いの中学生です」 「中学生?」 「以前にこのマンションに住んでいた子なんですが、登校拒否というのか、学校に行ってなくて。進学のこととかでたまに相談されるんです」 「何と言って来たんです?」 「それが、何も書いてないんですよ。たぶん、何も書かない内に間違って送信しちゃったんだな。さっきは不在着信があったんです」 「ややこしい時ですからね、もしその子から何か言って来ても、ここに押し掛けて来られないよううまくあしらって下さいよ」 「わかってます」  雄大は頷いた。ゆうべ駅で別れた時の沙帆の顔が思い出される。また今日も、彼女は退屈して池袋にいるんだろう。沙帆を放っておきたくない、という気持ちが自分の心にあるのを雄大は意識していた。本当は素直で可愛い娘なのだ。なんとか、今の閉息状態から救い出して、もっと溌剌《はつらつ》とした十五歳にしてやれたら。  だが今の雄大には、鮎美のことだけでめいっぱいなのだ。  時刻は七時半を過ぎた。皆川恵理がキッチンで熱い茶を用意してくれたので、捜査員たちは簡単な夕食にとりかかった。と言っても、コンビニで買って来たらしい握り飯だけ、という、簡素な上に片手で食べられる夕飯だった。多めにあるのでどうぞ、と言われたが、雄大は断った。空揚げひとつもまだ胃の中に重く残って感じられるほど、ものを食べたいと思う気持ちが一切、なかった。  七時四十五分。遂に、電話が鳴った。携帯ではなく、電話機が。      3 「……もしもし?」  声が震える。雄大は、音をたてないように深呼吸した。 「もしもし、朝電話をくれた人ですか? もしもし?」 「そうだ」  相変わらず、不自然に低く、くぐもったような声。ボイスチェンジャーを通している。雄大は自分を見つめている真壁に向かって頷いた。捜査員が全員、瞬時に緊張する。 「警察がいるようだな、そこに」  相手は笑っている。 「逆探知か。無駄だね。プリペイド携帯からかけてるんだ。それも最近買ったやつじゃないよ。規制される以前の、偽名でも買えた頃のもんさ。インターネットの裏サイトを漁《あさ》れば、こんな便利なもんもけっこう買えるんだよ。まったくいい時代だな」 「鮎美は、鮎美は元気なんですか!」 「いちおうは生きている」  声は冷たかった。 「生きてればそれ以上、高望みはしないでほしいな。お姫様みたいに大切にしろって言われても困るよ」 「声を、聞かせてください。お願いです、声を……」 「今は寝ている。無理に起こしたら気の毒だろう。さんざいたぶられて、やっと眠れたところなんだから」  雄大の背筋に氷のような冷たさが走った。それなのに、頬が熱を持ってこめかみがずきずきと痛み出す。 「……鮎美に……いったい何を……」 「言っただろ。生きてはいる。それで満足するんだな。その方があんたにとっても幸せなんだよ。わからないか? 女房が他の男にどんなひどい目にあわされたか、事細かに知ったところで楽しくはあるまい?」  受話器を持つ手が震えた。  怒りが激しすぎて、言葉がなかなか出なかった。真壁がさかんに合図する。もっと喋るんだ、もっと! 「ど、どうしたら、鮎美を返してもらえるんですか」  雄大は、やっと声を振り絞った。 「な、何が望みなんですか! お金なら用意します、き、金額を言ってください!」 「金の相談は最後にしようや」  笑い声が響いた。 「その前に、あんたにはやってもらいたい仕事があるんでな。あんたの携帯電話の番号を教えてくれないか」  雄大は番号を告げた。 「よし。これから何度かあんたに電話で指示を出すから、その通りに働いてくれ。なに、簡単な仕事さ。あんた、車はあるな」 「も、持ってます」 「どこかでガソリンを満タンにしてから、小金井街道を花小金井に向かって南下しろ。二十分後にまた連絡するから、それまでに西武新宿線の花小金井付近まで行っておくんだ。いいな」 「あ、ちょっと待ってください、ちょっと聞き取れな……」  電話は切れていた。 「発信エリアは特定出来たか!」  真壁が怒鳴る。部下が携帯電話会社と必死でやり取りしている。  無駄だ。雄大は思った。相手も車で移動する気なのだ。 「急がないと間に合わない!」  雄大は叫んで、免許証と財布をポケットに突っ込んだ。 「刑事さん、わたしは行きますよ!」 「待ちなさい!」  真壁が強く言った。 「待つんだ、草薙さん!」 「遅れるわけにはいきません」 「わかってる。坪井!」  若い刑事が呼ばれた。 「予定通り頼む」 「わかりました」 「予定ってなんなんですか?」 「車が使われた場合には、後部座席にもぐってあなたに同行することになっているんです」 「そんなことをして犯人にバレたら……」 「大丈夫です」坪井は頷いた。「訓練は積んでいますから」      *  幸いなことに、ガソリンはほぼ満タンだった。坪井は後部座席の下に器用に入り込み、からだの上から黒いゴムシートのようなものをかけている。上から窓ガラス越しに覗き込んでも、ちらっと見たぐらいではそれが人間であることはわからないだろう。  一部渋滞はあったが、車は順調に東久留米市を抜けた。雄大は運転が得意な方ではない。たまの休みにドライヴする程度で、普段はほとんど車を使わない。だが、今は、それまでやったこともないような乱暴な運転でスピードをあげた。雄大の車の前後には、覆面パトカーが三台挟んで走っている。  気持ちがせいて、ハンドルを握る手がじっとりと汗ばんでくる。  ようやく小平市に入ったところで携帯が鳴った。刑事から借りたインカムに向かって雄大は怒鳴った。 「頼む、もう少しで着くから待ってくれ! めいっぱい急いでるんだ!」 「それは殊勝な心がけだ」  声は笑った。 「まあせいぜい頑張るんだな。ただし事故は起こさないでくれよ。今夜あんたに仕事をしてもらえないなら、今回の取り引きはなかったことにさせてもらうからな」 「大丈夫だ、どんなことがあってもあんたの言う通りにします! だから、どうすれば鮎美を返してくれるのか、何をしたらいいのか早く指示してください」 「そのまま西武新宿線の線路を越えてしばらく走ると、鈴木町の交差点に出る。そこで右折だ。そのまま直進すると鈴木中通りとの交差点が見えるから、その手前五メートルのところで路肩に寄せて停めるんだ、停めたら車から降りて、そこに落ちているものをあんたの手で拾って車に乗せろ。いいか、素手で拾えよ。いいな!」 「いったい何が落ちてい……くそっ!」  雄大は電話を諦めてそのままアクセルを踏み込んだ。後部座席で、雄大のインカムを傍受していた坪井がごそごそと報告する声が聞こえる。  ともかく言われた通りにするしかなかった。男の指示通りに西武新宿線の踏切を通り越し、鈴木町の交差点まで行って右折する。間違えないようスピードを落として左に寄りながら、目の前に小さな交差点が見えたところで停車した。  雄大は車から降りた。  そこに落ちているもの……落ちているもの……  空缶に煙草の吸い殻。紙屑。  ……猫。  雄大は、おそるおそる近づいた。  猫の、死体。  見たところ眠っているように綺麗だったが、口から血を流している。  素手で拾え。  男の命令を思い出した。  これだ。  雄大は深呼吸した。無気味さに膝ががくがくと震える。  この猫はいったいどうしたんだろう。変態の誘拐魔に惨殺されたのか?  手を伸ばして指先で触れた。ごわっと毛が固まり、元が生き物であったとは思えないほど硬かった。死後硬直か。  抱き上げると、意外なほど軽い。痩せた野良猫に見えた。  雄大は車に戻った。何かでくるもうと思ったが、用意がない。ダッシュボードにゴミ袋のストックがあった。一枚取り出してそれに猫の死体を入れ、そっとくるんで後部座席に置いた。  わけがわからない。  いったいどういう意味なんだ?  雄大は運転席に戻った。 「なんだったんですか」  坪井がごく小さな声で訊ねる。 「猫だ」  雄大はぼそっと言った。力が抜けて、しっかりした声が出なかった。 「野良猫の死体です」 「猫ぉ?」  坪井が間の抜けた声を出す。 「どういう意味なんですかね」 「まるでわかりませんよ!」  雄大は、ハンドルを拳で殴った。 「あいつは……異常者だ。何を考えているのか見当も付かない……」  待つしかなかった。次の指示をそこで待つしか。  時の経つのがひどくのろく感じられた。たっぷり十分、犯人から電話がなかった。  突然携帯が鳴り出して、雄大は叫び出しそうになったのを堪えた。 「もしもし?」 「落とし物は拾ったか」 「猫でいいのか? 猫しか落ちてなかったぞ!」 「上出来だ。素手で拾ったんだろうな?」 「他にどうするって言うんだ」  雄大は敬語をつかう気力もなくしていた。 「手で拾ったよ」 「ならいい。今後も同じようにしてくれたまえ。それでは次に行こうか」 「次に行くって、鮎美は!」 「少しぐらい我慢したらどうなんだ、せっかちな男だな。今夜一晩仕事をしたら、ちゃんと返してやるさ。さあ、時間を無駄には出来ないぞ。次だ。そのまま直進すると次の信号が新小金井街道との交差点。左折して新小金井街道に入れ。ひたすら進んでJRの高架をくぐったら、貫井南町で連雀通りと交差するから左折。連雀通りに入って二十メートル。そこでまた落とし物を拾ってもらう。さあ急げよ。急がないと落とし物を片付けられてしまうぞ。いいか、一個でも拾うことが出来なかったら、それでゲームオーバーだ。わかってるな?」  アクセルを踏む以外に出来ることはなかった、距離的には大したことはないのに、指示された場所に行き着くまでの時間は無限に感じられた。途中で捜査本部から坪井に連絡が入ったが、男はいくつかの携帯電話会社のプリペイド携帯を併用しているらしく、また、明らかに都内をぐるぐると移動していると、予想した通りのことが判明しただけだった。 「しかし、我々の近くを車で移動していることは間違いないですから。必ず今夜中に逮捕しますよ」 「いや」  雄大は運転しながら首を横に振った。 「そうは思いません……奴は、見ていない」 「どういうことです?」 「我々を監視しているのではなく、先回りして指示したらその場を離れているんじゃないかな……さっき十分もタイムラグがあったのはそのせいだと思います」 「しかしそれでは、草薙さんが指示にそむいてもわからないんじゃ……」 「そむくと思いますか?」  雄大は思わず笑った。余りにも空しい笑い声が車内に響いた。 「あなた方がそむけと命じたとしても、わたしはそむきません。何が起ころうと何を要求されようと、今夜はあいつの言うことに絶対服従するしかない。たとえ少しでも鮎美を危険な目に遭わせる確率を増やすことは出来ません」  指定された場所で車を停めて車外に出た。道路を見たが、何も落ちていない。だが、血の染みに見える黒い液体が、車道の隅にたくさんこびりついていた。  雄大は周囲を見回した。街路樹の根本に、何かが置かれている。  近寄って見た。想像していた通り、今度も猫の死体だった。  今度はそんなに硬くなってはいなかったが、抱き上げると首がもげてしまいそうにぶらぶらした。雄大は片方の手で猫の頭を支え、そっとその死体を車内に入れた。  もう間違いない。あいつは今夜一晩中、俺に猫の死体の回収をさせるつもりなのだ。  だけど、なぜだ?  俺に猫の死体を集めさせる目的で、あちらこちらで猫を殺してまわっているとでも言うのか? 異常者だとしても、それではあまりにも脈絡がなさ過ぎないか?  どうして俺にそんなにまでして猫の死体を集めさせたいんだ?  雄大は考えた。考えて考えて考え抜いた。それでも、答えは見つからなかった。  七分後、また携帯が鳴った。 「今度はそのまま連雀通りを吉祥寺方面に行くんだ。吉祥寺通りとの交差点で……」  雄大はもう無言だった。今夜、百匹の猫の死体を集めさせられることになっても、決して逆らうまいと心に誓っていた。警察など何の役にも立ちはしない。この東京の夜を車で走り回りながら、使い捨ての携帯電話に向かって喋っている異常者など、どうやって探し出す?  いいさ、従ってやる。どこまでも言うことを聞いてやる。  だが、その代わり、鮎美は取りかえす。  どんなことをしてでも。 [#改ページ]    五 里 霧 中      1  明け方が近付いた午前五時過ぎに、ようやく犯人は言った。 「ご苦労だったな。今夜のところはこれで終わりだ」 「鮎美は! 約束通り鮎美を返してください。あんたの言うことはちゃんとやったじゃないですか!」 「今夜はな」  犯人は笑った。 「だけど今夜だけなんて約束をしたおぼえはないんだぜ」 「そんな……それじゃ話が違う!」 「まあそうカッカしないで、ともかく帰ってゆっくり寝ろよ。夕方までは連絡しないから、せいぜいからだを休めて夜に備えておくんだな」  切れてしまった電話に向かっていくら怒鳴っても無駄だった。  車内には、七匹の猫の死体を入れた袋と、憔悴した坪井がいた。 「戻りましょう」  坪井に言われて、雄大はのろのろとアクセルを踏んだ。 「ふざけやがって!」  真壁はそれまでの冷静さを一瞬失い、ソファに拳を叩きつけた。 「一晩中、都内を引きずりまわして猫の死体七匹か! まったくどういう奴なんだ、犯人は!」 「ただの精神異常者とは思えないんですがね」  坪井はよれよれになったネクタイを引っ張りながら言った。 「余りにも計画が用意周到です。これだけ引きずりまわされて、結局奴がどこにいたのかわからなかったわけですから」 「車で都内をぐるぐる移動されたからな。しかし猫の死体を置くという行為は必ず誰かの人目をひいているはずだ。死体を回収した場所付近の聞き込みは徹底させる」 「頭のいい奴です。バイクを使っているのかも知れません」  真壁は頷いて頭を叩いた。  雄大はソファに倒れ込んだ。皆川恵理がいろいろと世話を焼いてくれたが、礼の言葉もろくに出ないほど憔悴していた。  怨恨なのは間違いない。犯人は、自分に素手で猫の死体の始末をさせることを喜んでいた。だがいったい、それほどの恨みを買うような何を、俺がしたと言うんだろう? 「猫は解剖にまわしました」  坪井が雄大の横に座り込んで囁いた。 「ちょっと奇妙なんですよね」 「奇妙?」 「はあ……死亡時刻がばらばらのように思えるんです。猫の。いや、見た感じだけなんで正確なことはわからないんですがね、死後数日経っているのもあれば、我々が到着する寸前に殺されたようなのもある」 「それは……わたしも感じました」  雄大は、猫の死体に触れた時の掌の感触を思い出した。 「まだ温かく思える、柔らかなのもあったし、とても硬くなっているのもあった。それから……腐敗しているようなのも……」 「これも犯人が周到に準備していたことの証《あか》しなんでしょうね。つまり、数日前から猫を殺して死体を用意していたわけだ。そしてそれを、あちらこちらの道路にばらまいてあなたに拾わせた。……正直、こんな異様な犯罪は初めてですよ。これまで携わった誘拐事件とはまるで性質が違っている」 「なんで猫なんでしょうか」 「さあ……いろいろ考えられます。まずいちばんありそうなのが、犯人が猫嫌いなケースです。猫というのは面白い動物で、好きだという人には溺愛《できあい》されますが、嫌いな人には徹底的に嫌悪されます。生理的な嫌悪感を持たれると言っていいくらいです。自分の家の庭に猫が入り込んで糞をすることに腹をたてた男が、猫をおびきよせてボーガンで射殺《いころ》していたり、殺した猫を軒下に吊るしていたりという事件は実際にありました。以前は動物を殺しても、その動物が誰かに飼われていてかろうじて器物損壊罪が適用できる程度でしたからね。今はまあ、野良であっても残酷な殺し方をすれば逮捕できますが。ただ今回は単純な猫嫌いというのとはどうも違う気がするんですね……その死体をあなたに回収させている。それも、素手で。あなたまたはあなた方ご夫妻への恨みを猫をつかって晴らしているのだとしたら、その恨みの原因になった事柄も、猫が絡んでいると考えた方が自然です。草薙さん、猫の絡んだことで何か心当たりはありませんか? どんな些細なことでもいいですから、考えてみてください」 「わたしもずっと考えていたんですよ、一晩中、運転しながら」  雄大は頭を横に振った。 「しかし……わたしども夫婦は結婚してすぐここに越して来たんですが、賃貸なんです。ですから、ペットは最初から諦めていました」 「このマンションは本来は分譲ですよね」 「ええ。わたしたちが結んだ大家さんとの契約書では、ペットは不可になっていたんです。当然、結婚してから猫を飼ったことはないし、猫絡みの問題で他人に迷惑をかけたという記憶もありません」 「結婚前はどうでした?」 「わたしは猫を飼育した経験はありません。妻は、確か、子供の頃には飼っていたようなことを言っていましたが、かなり昔の話ですよ。今は妻の実家にも猫はいません。犬が一匹、いますが、年寄りのシーズーです」 「草薙さん、少しお休みになられた方がよくありませんか」  恵理が心配そうに雄大を見ていた。 「犯人は、夕方また連絡すると言っていたんでしょう? たぶん、また夜通し草薙さんを引っ張りまわすつもりですよね。だったら今の内に少しでも眠って体力を蓄えておかないと……」 「そうですね」坪井も頷いた。「そうしてください、草薙さん。何かあったらすぐに起こしてさしあげますから」 「しかし……神経が昂《たかぶ》っていて寝られそうにないですよ」 「少し酒でも飲まれたらいい。いや、不謹慎と思われるかも知れませんが、そのくらいやってでも寝ておいた方がいいんです。こういう膠着《こうちやく》状態の時は、起きているというだけで神経をすり減らします。草薙さん、我々としても、あなたに参ってしまわれたのではお手上げになってしまうんです。犯人はまた必ず、あなたを引っ張り出して加虐的な愉しみを味わおうとするでしょう。その時にあなたが動けなくては、手の打ち様がなくなります。なんでしたら薬を用意させましょうか。弱い精神安定剤か何か」  雄大は薬は断ったが、キッチンでウィスキーを少し飲み、寝室に入った。  シャワーを浴びる気力も、着替えようとする気持ちすら起こらなかった。ベッドにひっくりかえるとさすがに疲労感で眩暈がしたが、眠ろうとして瞼を閉じると、鮎美の顔が浮かんできて頭から離れなくなる。  こうしている間も、鮎美があの変態男にひどい目に遭わされているのかも知れないと思うと、大声で叫びまわりたいような気分だった。  何もかも、悪い夢だ。  猫。猫。猫。  いくら考えてもわからない。  携帯が鳴り出した。雄大はドキッとして跳ね起きた。  だが、発信者番号は非通知ではなかった。登録されていない番号だった。 「……もしもし?」  こわごわ口を開くと、予想外の声が耳に飛び込んできた。 「あ、雄大? 先日はどうもぉ。今、ちょっといい? それともまだ寝てた?」  恭子だ。  腕時計を見た。午前八時過ぎだった。 「いや、起きていたけど。何かな?」 「鮎、まだ寝てる?」 「あ」  雄大は唾を呑み込んだ。 「う、うん……ゆうべ遅かったみたいだからしばらく起きないと思う」 「そっかぁ。だったらしょうがないか」 「恭子、どうして俺の携帯番号、知ってるの?」 「何言ってるのよ、教えてくれたじゃないの、所沢で」 「そうだったっけ」  恭子はけらけらと笑った。 「何よ、自分で鮎美を説得してくれみたいなことを言って頼んだくせに。ちょっと雄大、すごーく声に元気ないけど、どうしたの?」 「ああ……風邪、ひいた」 「へぇ。それはお大事に」 「あの、鮎美と会ってくれるって話だったら」 「実はね」  恭子は雄大の言葉を遮るようにして言った。 「一昨日から試してるんだけど鮎と連絡がとれないのよ。雄大にあんなこと頼まれてさ、まあ事情くらいは確かめてみようかなと思ったんだけど、何となくね、何年も音沙汰なくていきなり連絡するのって不自然かもって迷ったのね。でも、もともとは親友だったんだしいいかって、一昨日から雄大に教えてもらった携帯に何度も電話入れたんだけど、つながらないの」 「恭子」  雄大は、警察に止められていたことをちらっと思い出したが、言わずにはいられなかった。 「いないんだ、鮎美」 「……いないって? 寝てるんじゃないの? いいわよ、無理して起こしてなんて言わないから」 「そうじゃなくて、本当は一昨日の夜から、帰ってないんだ」 「帰ってないって……それ、連絡もなかったってこと?」 「連絡できないんだ……鮎美は……誘拐された」  携帯電話の奥で、恭子が息をのむ音がはっきりと聞こえた。 「……何よそれ」  恭子は無理に笑おうとしていた。 「やめてよ、悪い冗談。悪趣味だよ、雄大」 「冗談じゃない……本当なんだ。警察には誰にも言うなと止められてる。鮎美の実家にも、俺からは連絡していない。警察の方で知らせてくれることになってる。家の電話は警察が傍受している。でもゆうべ犯人にはこの携帯の番号を教えた。これはデジタルだから傍受は出来ないけど、犯人と話す時は傍受できるインカムを取り付けることになってる。けど、この番号にかかってきた電話番号は携帯電話の会社との連携でチェックされてるから、この電話のこともそのうち知られてしまう。もちろん、君にこの話をしたとわかったら怒られる」 「……雄大」 「だけど話さずにはいられなかった。鮎美が今、どんな目に遭ってるかと思うと……いてもたってもいられないんだ……」 「……お金を要求されてるの?」 「いいや。犯人は俺たち夫婦か俺に恨みがあるんだと思う」 「恨み? 心当たりがあるの?」 「まるっきりないよ……いくら考えてもわからないんだ……わからない……ただ、猫が何か関係してることは間違いない」 「なに? 今、なんて言ったの?」 「猫だよ。動物の、猫だ」 「どういうこと?」 「犯人はまだ金を要求していない。その代わり、ゆうべ一晩俺を、東京中引きずりまわして、猫の死体を回収させた」 「猫の……死体……」 「まるでわけがわからないんだ。指示された場所に行くと猫の死体があって、それを車に積んで持ち帰れと言われる。ただそれだけなんだ……」 「精神異常者なのかしら」 「まともじゃないだろう、それは。でも、ただの異常者にしてはやらせることが突飛過ぎる。何か意味があるんだ、きっと。でもその意味がわからない」 「鮎は生きてるのね?」 「犯人はそう言ってるが、まだ声は聞いてない」 「そんな……」  恭子の声がゆがんだ。 「信じるしかない」雄大は絞り出すように言った。「鮎美が生きていると信じるしかないんだ。ともかく、犯人は夕方また接触してくると言ってる。たぶん、また猫の死体を回収させるつもりだろう」 「その猫だけど」  恭子の声からは抑揚が消えていた。 「どんな殺され方をしていた?」 「死因はよくわからないんだ、まだ。今、ゆうべ回収した七体の解剖結果を待ってるところだよ。でも見たところ、何かで殴られたか、コンクリートみたいな硬いところに叩き付けられたって感じが多かったように思う」 「刃物で切り裂いたりはしていないのね」 「そんなふうには見えなかった。口から血を流していたのとかあったし……あれは毒かも知れないな」 「或いは、頭を強くぶつけたか、ね……今からあたしがそこに行っても、中には入れて貰えないわよね」 「たぶん、駄目だと思う。警察は君のことも疑うよ、きっと」 「そうでしょうね。オーケイ、わかった。また電話する。お願い、鮎の無事が確認できたらすぐ連絡して」 「恭子、このことは……」 「わかってる」  恭子の声は低く、真剣だった。 「あたしを信じて、雄大。あたしはあんたのことはまだ今でもちょっとだけ憎いけど、鮎のことは大好きなのよ。このことは誰にも言わない。そして、あたしに出来ることがあれば何でもする。ともかく鮎が生きてるって確認出来たら電話ちょうだい」  恭子は自分から通話を切った。なぜなのか、恭子の声を聞いていて、雄大は自分が自信を取り戻していくのを感じていた。恭子は弱音を吐かない。鮎美が誘拐されたと聞かされても、決して取り乱さない。  自分も負けてはいられない。  鮎美を取り戻すまでは、絶対に弱音など吐くものか!      2  雄大は、またコップに半分ほどのウィスキーをあおって無理に眠った。今夜も一晩中引きずりまわされるのは覚悟の上だった。体力勝負になるだろう。  それでも長くは眠れなかった。午後一時前に目がさめて、捜査員たちが簡単な昼食をとっている居間に入って行った。恵美はソファで横になり、からだには毛布がかけられている。 「皆川さんには一度自宅にお帰りくださいと申し上げたんですが」  坪井は苦笑いした。 「頑として動こうとされないんです。奥さんが車に乗り込むのをとめられなかったことに、よほど責任を感じておられるんでしょう。それはそうと」  坪井が小声になった。 「電話会社から報告が入っています。今朝方、どなたからか携帯に電話が入りましたね」 「すみません、話すのを忘れていました。妻の古くからの友人でした」 「ほう」坪井は眉を少ししかめた。「奥様のご友人がなぜ、あなたの携帯に連絡を?」 「あ、いや、実はわたしの友人でもある人なんです。学生時代からの友達です。妻は急な発熱で寝込んでいるということにしておきました」  坪井は手帳を取り出した。 「念のためお名前は?」 「吉川恭子さん。電話番号も必要ですね」 「お願いします」  雄大は着信履歴に残された番号を坪井に告げようと、ポケットから携帯を取り出した。  メール着信あり。  坪井に番号を教えてから、メールを開いてみた。また沙帆からだった。着信は今朝の午前十一時三分。雄大が眠っていた間に入ったのだ。 「なんだこれ?」  雄大は思わず声に出した。 『たせけた』  メールの中身には、ひらがなだけでそう並んでいた。 「どうかしましたか」 「いえ……どうもいたずらみたいなんです。例の中学生からです。昨日、遊んでやれなかったのでいたずらメールをしてきたんでしょう」 「あまり詮索されないようにした方がいいかも知れませんね」  坪井は肩をすくめた。 「中学生というのはいちばん難しいですからね。精神的にはまるで子供なのに、自分のことを子供だとは決して認めようとしない。しかも、肉体的には大人とそう変わりません。わたしは任官してしばらく、少年課にいたことがあるんですよ。もう毎日毎日、理解出来ないような事件ばかりであたまがおかしくなりそうでした。大人の犯罪を扱うようになって、少なくとも犯人の考えていることがいくらか想像出来る点だけでも、正直、ホッとしました。まあしかし、今度の事件だけはまるでわけがわかりませんが。そうだ、それと変なことが判明したんですよ。その件で今、真壁は捜査本部に戻って会議しているところなんですが」 「変なこと、と言いますと?」 「猫の死因です」 「毒物か何かですか」 「いいえ、それが……」  坪井はファックス用紙を読み上げた。 「直接の死因と推定されるものをあげるとこうなります。頭蓋骨骨折、内臓破裂、脳挫傷、頸椎骨折、全身打撲によるショック、腹部裂傷からの出血多量による失血死」 「ずいぶんバラエティに富んでいますね。つまり一匹ずつ、異なった殺し方をした、ということですか」 「いいえ、その逆ではないか、と解剖を担当してくれる東都大学獣医学部の今田教授は推測しています」 「逆?」  坪井は頷いた。 「直接の死因はともかく、猫たちに起こったことはみな同じなのではないかと……つまり、交通事故です」 「車にはね飛ばされたということですか」 「はい」  雄大は、恵理を起こさないように注意しながらソファに腰をおろした。 「つまり犯人は、わざわざ車で猫をひき殺して、その死体を集めて、わたしに回収させるためにばらまいた、と」 「もちろんそうも考えられます」  坪井は複雑な表情をしていた。 「しかし、現実的な問題として、いくら東京には猫が多いといっても、ただ車で走り回っているだけで、そう都合よくひき殺せるところに猫の方から次々と出て来てくれるということはないでしょう」 「では……生きてる猫を集めておいて、逃げられないような場所で一匹ずつひき殺した……」 「まあ、それもやって出来ないことではないでしょうね」  雄大は恐ろしさに身震いした。そんな、残酷というよりも偏執的な殺害方法をとる犯人の精神構造というのは、いったいどうなっているのか…… 「しかし、もう少しましな、というか、現実的な解釈も成立するんですよ。わたしとしては、その解釈をとる方がかなり気持ち的に救われるんですが」 「と、言うと?」 「犯人は、自分で猫を殺したわけではない、という解釈です」 「……しかし、猫は殺されているんですよ」 「ええ、そうです。猫は殺されています……車にはねられて」  雄大は坪井の顔を見た。坪井の考えていることがわかった。 「……車にはねられた猫の死体を探して集めたんだ……」  坪井は頷いた。 「わたしもそう思います。七体の猫の死体の内、もっとも早く死んだと思われるものは死後百時間以上経過していたようです。つまり、五日前です。今、この東京で五日間夜通し探したとしたら、七体くらいの猫の轢死体《れきしたい》ならば見つかるのではないか、そうは思いませんか」 「犯人は、事故に遭って死んだ猫の死体を探してかき集め、ある程度の数になったところで鮎美を誘拐した……そしてその死体をばらまいて、わたしに集めさせた……」 「問題は、なぜ犯人がそんな手間をかけたのか、ということなんですよ、草薙さん。昨夜、我々もあなたも、犯人は猫嫌いな人物、猫に憎悪を抱いている人間だと考えていました。しかしそれならば、猫を集めてから自分の手で殺してばらまいた方がずっと簡単だったはずです。何も、わざわざ交通事故に遭った猫を探しまわらなくたってね。犯人がそんな手間をかけたのはつまり、犯人は、自分の手で猫を殺すことが出来なかったからではないのか」 「まさか、犯人は猫好きな人間だ、ということですか」 「好き、とまでは断定できませんが。本当に猫が好きな人だったら、草薙さんにどれだけの恨みを抱いていようと猫の死体を道具に使うことには抵抗を感じたでしょうからね。しかし、猫が嫌いだから殺してばらまいたのではないと思うわけです。いや、いちばん大事な問題はその点ではありません。今回の事件は、猫が車にはねられた、という事柄がキーポイントなのではないか、そう思うんですよ。それでわたしや真壁は考えていたわけです……草薙さんか奥さんが、車を運転していて猫をはねてしまったことがあるのではないか、と」 「……いいえ」  雄大は真剣に考えて、それから言った。 「そんな記憶はありません。それに、妻は運転免許を持っていません」  坪井が、明らかにがっかりして腕組みした。 「違いましたか……もしそうした事実があったのなら、事件解決に一気に結びつく可能性が高かったんですが」 「そうですね」  雄大は大きく息をはいた。 「しかし、本当に記憶にないんです。今、よく思い出そうとしているんですが……わたしの家族や友人にもそんな話があったかどうか……しかし、仮にあったとしても、猫をはねられたくらいで誘拐までするとは……」 「ペットに対する愛情というのは、時としてひどくゆがんでしまうものなんですよ。もともと自己満足の上に成り立っているようなものですからね、ペットとの関係というのは。だがもちろん、わたしもそんなに短絡的な事件だとは考えていません。何か特別な理由があって、犯人が猫にこだわっているのは間違いないと思います。そして今のところ、そのことが犯人を割り出す上でもっとも重要な手がかりであるわけです。犯人と、猫と、そしてあなたもしくはあなた方ご夫妻との間には、必ず何かつながりがあると思うんです」 「もう一度考えてみます」  雄大は両手の掌に顔を埋めた。 「でも……結婚してからここで暮らしている間に、猫の絡んだ事件だとかトラブルというのは本当に経験していないんです」  電話が鳴った。雄大はビクッとした。坪井が目で、受話器を取りなさい、と促した。 「もしもし?」 「草薙さん?」  どこかで聞いた声だ、と思った。だがすぐにはわからなかった。 「小松です。三〇二号室の小松です」 「あ、はい」  雄大の頭にようやく、甲高い声を出す元気のいい女性の顔が思い浮かんだ。老剣道家の若い妻だ。 「あのですねぇ、突然お電話なんかしてごめんなさいねぇ」 「いいえ」  雄大は坪井を振り返り、大丈夫だ、と首を軽く振った。 「あの、何か」 「いえねぇ、鳴尾さんからお聞きしたんですけど、ほら、昨日の朝。資源ゴミをこっそり出して逃げちゃった人がいたって話ですけど」 「ああ、はい」 「ねぇ、わたくしにだけこっそり教えていただけません? 逃げた犯人って、伏見さんの奥さんじゃありませんでした?」 「……は?」 「お顔、ご覧になったんでしょ、草薙さん。隠さなくてもいいんですよ、わたくし、もうわかってますの。だって先週もそうだったんですもの。わたくしね、ジョギングをいたしますの、毎朝。先週の水曜日だったかしら、ちょうどジョギングから戻った時に、エレベーターに乗り込む伏見さんのお背中を確かに見たんです。その時はゴミと伏見さんのことは結びついていませんでしたから、わたくし、うっかり声をかけてしまったんです。おはようございます、ってね。なのに伏見さんたら、確かに聞こえる距離だったはずなのに、返事もなさらないでエレベーターに乗り込んでしまわれたの。それで、おかしいわねぇ、と思ってふと見ると、土曜日でもないのに資源ゴミの袋が出ているじゃありませんか! あらまあ、それじゃ伏見さんが? ってわたくし、とっても驚きましたの。だってあの方、一流大学をお出になられた才媛で、テレビに出ていらしたこともあったとかお聞きしていましたでしょ。あんな方がねぇ、随分と非常識なことをされるものね、と思ったんですけれど、証拠がございませんしねぇ。でも草薙さんも目撃されたんでしたら、わたくしの言うことが嘘ではないってみなさんわかってくださるでしょうし、あのね、ご相談なんですけど、この話、管理人さんと自治会長さんに話した方がいいんじゃないかしらと思うんですけど、草薙さん、どう思われます?」  雄大は、思わず笑い出してしまいそうだった。  この電話の向こうにいる女性と自分と、今、どちらがより非現実的な状況の中にいるのだろう?  妻が誘拐されて生死もわからず、憔悴しきっている男と、ゴミ出しの曜日を守らない住人を目撃して、それがたまたま評判の美人で高学歴な女性だったことを知って興奮している、女。  自分と小松夫人とは、間違いなく、同じ建物の中にいて呼吸しているのだ、この同じ空気を。それなのに、二人の感情は、まるで千光年も離れているかのように、少しの共鳴もしていない。  ゴミ出しなんてどうだっていいだろう! こっちは今、それどころじゃないんだっ!  そう怒鳴ってしまえたら気持ちがすっとするだろうか。  雄大は一瞬そう思ったが、小さく深呼吸して堪え、言った。 「申し訳ありません、小松さん。昨日の朝は本当に、ゴミを出した人をはっきりとは見ていないんですよ、わたしは。鳴尾さんからお聞きになったと思うんですが、たまたまベランダに出たところ、何かゴミ置き場で人の気配がしたように感じたので上から覗いてみたんです。そうしたら人影が走り去ったように見えたので、また放火されていたら大変だと思って下におりてみたわけです。それだけなんです。ですから、ゴミを出した人が誰だったのか、本当にわからなかったんですよ」 「あのね、草薙さん」  一瞬の沈黙の後で、小松夫人は忍び笑いするような声を漏らした。 「お噂、ありますのよ、あなたと伏見さん」 「……噂?」 「あら、ごめんなさい。余計なことですわね、こんなこと。でも、伏見さんにはお気をつけになった方がよろしいんじゃないかしら。まあ、あれだけお綺麗な方ですものね、男性がどうしても甘くなってしまうのは仕方がないんでしょうけど。ただねえ……中道さんのところも、伏見さんのことでご夫婦喧嘩されて大変なことになりましたでしょ、その話はご存じ?」 「いいえ」 「四一八号室の中道さんのご主人様がね、ゴルフだと奥様に嘘をついて出かけられて、伏見さんとお台場で遊んでらっしゃって、斎藤さんご一家と鉢合わせしてしまわれたんですよ」  小松夫人はくすくす笑っていた。 「もう大変な夫婦喧嘩だったんです。下の階の新藤さんが驚いて管理人さんに連絡したくらい。それ以来ねぇ、どうもその、伏見さんには気をつけた方がよろしいですわね、なんて話になってしまって。もっとも、鳴尾さんなんかは伏見さんと仲がおよろしいので、たまたま中道さんのご主人と出逢って一緒にいただけでしょう、なんておっしゃってましたけど、そんな、たまたまだなんて、ねぇ。お台場ですもの、場所が場所ですわ。もともと、ひとりで行くようなところじゃないじゃありませんか。遠いし。ですから草薙さん……」 「あの」  雄大は我慢しきれなくなって小松夫人の言葉を遮った。 「お話はそれだけでしたら、実は今、来客中なもので」 「あらまあ! それは失礼いたしました。いやだわ、言ってくださればよろしいのに。ご迷惑でしたわね」 「いいえ、迷惑だなんて。ともかく、そんなわけでわたしはゴミを出した人の顔も何もちゃんと見てはいないんです。ですから、管理人さんにご説明に行かれる時にお役には立てないんじゃないかと」 「ええ、わかりました。ごめんなさいね、つまらないことでお電話なんかさしあげて。いいんですのよ、わたくし別に、伏見さんを犯人にしたくてこんなこと言っているんじゃありませんもの。ただゴミ出しの問題はとても重要だと思ったものですから、ちゃんと管理人さんにお話ししないといけませんでしょ。それでは、そういうことですので。ごめんあそばせ」  受話器をおくとホッした。ぺらぺらと、本当によく喋る人だ。  ゴミ出しの問題はとても重要。  雄大はまた笑いたくなってきた。重要なんだろうさ、確かに。しかし妻が誘拐されている最中の男にとっては、そんなもの、とことんどうでもいい問題だ。  小松夫人。  彼女はいくつぐらいなんだろう? 伏見夫人にあれほど対抗意識を燃やしているところからすれば、同じくらいの年齢なんだろうか。三十代半ば? 三十歳以上も歳のはなれた夫と、なんだか元気のない息子。  あの息子は、いつ見ても陰気な顔をしている。もう高校はとっくに出た年頃のはずだが、今、社会問題になっている「ひきこもり」というやつなのか、大学にも行っていないようだし勤めにも出ていないようだと、以前に鮎美が言っていたのを思い出した。  どうでもいい。  雄大は溜息をついた。  そんなどうでもいいことばかり考えて一日が過ごせたら、どんなにいいだろう。くだらない噂話や悪口で時間がつぶせるほど、今、自分が幸せだったなら。  堪えていたものが一気に噴き出してきた。我慢していたのに、もう駄目だった。  雄大は、電話機の前で頭を垂れたまま、号泣した。      3 「申し訳なかったです」  管理人の水谷は本当にすまなそうに声を掛けた。 「こんな大変な時にゴミ出しのことなんかでわずらわせてしまいまして……」 「管理人さん、このことは他の人には決して言わないでくださいよ」  坪井がかなり強い口調で言った。 「嫌な言い方になるが、犯人もしくは犯人の仲間がこのマンションの住人ではないという証拠は、どこにもないですからね、まだ」 「わかっています。しかし先程、小松さんから草薙さんのお宅に電話をしたと聞いたものですから、こんな時にほんとに申し訳なかったと思いまして」 「気にしないでください」  雄大は、水谷にソファをすすめた。 「水谷さんには感謝しています」 「あの、それで手がかりの方は?」  雄大は首を横に振った。 「ゆうべは犯人から接触がありました。しかし、どうやら犯人の目的は金ではないようなんです」 「ちょうどいいので水谷さん、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」  坪井が手帳を出したので、水谷ははっきり緊張して身構えた。 「な、なんでしょうか」 「猫のことなんです」 「……猫?」 「ええ。こちらのマンションは分譲で、室内で飼う場合にはペット禁止ではないと伺っているんですが、本当ですか」 「え? いいえ」  水谷は否定した。 「今は室内でも動物の飼育は禁止ですが。例外として認められているのは、小鳥とかハムスターなどの、ケージの中で飼える小動物、ということになっていたはずです」 「ほんとですか」  雄大は首を傾げた。 「知らなかったな。わたしたちは賃貸で入居しているんで、もともとペット禁止でしたから……」 「わたしも詳しいことは知らないんですが、三年前に規約が改正になっているそうですよ」 「ああ、水谷さんはまだ……」 「はい、ここの管理人になって二年七カ月です」 「水谷さんは、管理会社から派遣されたかたちになっているんでしたね」  坪井の問いに、水谷は頷いた。 「いちおう、そういうことになっています。と言っても、最初から住み込みのマンション管理人募集、という広告に応募しましたから、会社の仕事というのはやったことがないんですが。後でお調べになられると思うので先に申し上げておきますが、実はわたし、定年まで警察に勤めておりまして」  水谷が照れたように言うと、坪井は目を見開いた。 「本当ですか」 「はあ。いちおう警視庁の方に。定年直前は、葛西署の地域課におりました。階級は、定年時で巡査部長でした。早い話が、定年まで制服を着て交番におったわけです。しかし結婚が遅かったものですから、定年時点でまだ息子が学生でしてね、京都の大学に行っているもので、仕送りが必要なんですよ。それで、最初はビル管理会社に入って、一晩中、警報システムの前に座っていたわけです。しかしどうもその、座りっぱなしという仕事は性に合いません。それで知人に相談したところ、住み込みになるかも知れないが、大手のマンション管理会社で管理人の募集をしていると教えてもらいまして。どのみち女房に早く死なれて気楽な身分ですから、住み込みもいいだろうと応募したわけです」 「それを伺って安心しました」  坪井は頷いて言った。 「ともかく、今度の事件については慎重にも慎重を重ねないといけませんので。しかし管理人さんに事情を説明しないでは、我々捜査員がマンションに出入りするのに支障を来しますからね」 「そうした点は、ご心配には及びません。わたしが責任を持って、最大限捜査に協力するようにいたします。あのそれで、実はゴミの件だけでここに参ったわけではないんです……もし捜査のお役に立てればと思ったものですから」 「何か、わかったことがあるんですか!」  雄大は思わず水谷の腕を掴んでいた。 「教えてください、どんなことでもいい!」  雄大は水谷の腕を引っ張ってソファに座らせた。やっと目をさました皆川恵理が慌ててキッチンに飛び込み、茶のしたくを始める。  水谷は恵理の背中を不思議そうに見ていた。 「妻の会社の人なんです」  雄大は説明した。 「心配して来てくださっていて」  水谷は納得したように頷いた。 「そうですか。いえ実は、この地域の小・中学校のPTAに、補導、という役目があるんですが」 「補導、ですか」 「はい。つまりPTAが、駅前の繁華街などを定期的に見回って、非行に走っている子供がいたら注意する、そんな仕事ですね。この補導の本年度役員会の委員長さんから先程、電話が入ったんです。まだ未確認だが、警察は例のオヤジ狩りの犯人グループを割り出したらしい、というものです」 「それでは、やはり……」 「ええ。犯人グループはどうやら中学生ですね。警察としても、少年犯罪なので捜査はかなり慎重に、しかも極秘で行なっているようでして、細かなことまではわからないんですが。それでその犯人グループの中で主導権を握っていると思われている子供と、委員長さんが直に話をしたそうなんですよ。本人はもう何度か警察に呼ばれて事情を聞かれているので、逮捕されるのは覚悟しているようなんです。ただ、ひとつだけ変なことがあると。それが草薙さんの事件なんですが……その首謀者の中学生は、草薙さんの事件は自分たちがやったのではない、と言っているらしいんです」  手帳にメモをとっていた坪井がいくらか身を乗り出した。  雄大は、なんと答えていいのかわからずに、曖昧に頷いた。 「それはつまり、わたしのケースは一連のオヤジ狩りとは無関係だった、ということですか」 「まだそこまでははっきりしていません。その子が嘘をついている可能性もありますし。しかし、委員長の感触では、どうも草薙さんの事件だけは、オヤジ狩りのひとつではないように思う、ということでした。そうなると……今度の事件とも関係している可能性が出てくるのではないかと思ったわけなんです」 [#改ページ]    光 明 一 筋      1 「至急、確認を取らないといけませんね」  真壁が腕組みしたままで唸るように言った。 「しかしどうしたものかな。草薙さんがこの部屋を留守にすることは出来ないし」 「問題の子供はまだ逮捕されたわけではないんでしょう、水谷さん」 「はい、何度か警察に呼ばれて事情を聴かれている段階ですが。ただ、逮捕は近いはずです」 「逮捕されていなければ、ここに連れて来てもらうことは可能ですよね」 「それはしかし」  真壁が頭をかいた。 「難しいかも知れませんよ、草薙さん。隠しても仕方ないんでぶっちゃけたところを言いますが、我々本庁の捜査員と所轄の警察官との間の風通しというのは、決していいわけではありません」 「でもこんな場合なんですよ!」  雄大は思わず声を張り上げた。 「お願いします、真壁さん。なんとか頼み込んで、その子に会わせて貰えませんか。要するにその子の声だの何だのにわたしが憶えがなければ、その子の言っていることは本当だという可能性が高くなる」 「本当だということになったら、手がかりがひとつ消えますよ」 「いや、ひとつ消えてひとつ生まれるんですよ! 水谷さんがおっしゃったように、その場合にはあの夜の襲撃が今度の誘拐と結びついている可能性が高くなるわけです。襲撃事件の犯人が捕まれば、誘拐事件も解決するかも知れないんです! 鮎美を連れ去った犯人の目的がわたしをなぶることだとすれば、後何日もゆうべのようなことをさせるつもりでしょう。しかし向こうが事件を長引かせようとするなら、逆に、別の方向からの捜査が間に合う確率は高くなるんじゃないですか」 「わかりました」  真壁は頷いて部屋を横切ると、待機している捜査員に何か指示し、部屋の中に設置したデジタル無線で捜査本部に連絡をとった。  水谷が頭を下げて部屋を出て行っても、雄大は立ち上がって見送る気力もなく、ソファに腰を沈めていた。  無理にとった睡眠のせいでいくらかからだは軽くなっていたが、心臓のあたりは感覚が麻痺したかのように硬くしこっている。掌を押し当ててみても鼓動すら聞こえない気がする。  自分が生きているのかどうかさえ、雄大にはもう曖昧になっていた。不安と焦躁が激し過ぎて、思考が少しも繋がらない。  唯一はっきりとわかっていることは、自分が本当に、心の底から鮎美を愛してる、ということだけだ。  どうしてこんなことになってしまったんだろう。  いくら考えてもわからない。  雄大は、顔を覆った指の隙間から水滴がこぼれ落ちているのに、自分の膝が感じた冷たさでやっと気づいた。鮎美が戻って来るまでは絶対に泣くまいと思っていたのに。 「あの、草薙さん」  震えるような小さな声がした。  顔から掌を離して見上げると、ぼんやりと滲んだ視界の中に、恵理の心細そうな顔があった。 「……本当に、大丈夫ですか? 警察の方が、お医者様の往診を頼んだ方が良ければそうするがとおっしゃってますけど……」 「いや」雄大は微笑もうとした。うまくいったとは思わなかったが。「大丈夫です。それより皆川さん、いつまでもここにいらしては仕事にも差し障るし、第一お疲れでしょう。犯人は金を要求してこない。目的はわたしを振り回してなぶることなんです。この先何日、こんな状態のまま膠着するかわかりません。もうお帰りになった方がいいでしょう」 「いつまででも、高嶋さんが戻って来るまでここにいます。いさせてください」  皆川恵理は、驚くほど強い眼差しを雄大に向けた。 「そうでなければ仕事なんて手につかないし、部屋に戻ってもただ心配なだけで何もできません」 「妻のことで責任を感じてくださっているのでしたら、もうそれは」 「そういう問題じゃないんです!」  恵理の声が甲高くなったので、雄大たちの方に捜査員が顔を向けた。 「責任とかなんとかじゃないんです……そうじゃなくて……高嶋さんには本当によくしていただいて、いつも助けて貰って、だから……」  恵理は興奮したのを恥じたように下を向いた。 「ともかく、もう少しここにいさせてください。あの、あたし、何かつまめるものを作ってきます。ほんの少しでもお食べにならないと……」  恵理が台所に消えるとすぐに真壁が雄大の隣に座り、前を向いたまま囁いた。 「彼女、どうしてあんなに興奮したんでしょうかね、今さっき」  雄大は思わず真壁の顔を見た。真壁は表情を変えていなかった。 「正直なところ、草薙さんはどう思われますか。会社の同僚というだけであんなに一所懸命になれるもんなんですかね」 「真壁さん」  雄大は怒りを感じて不機嫌な声を出した。 「何がおっしゃりたいんだかわかりませんが、皆川さんは妻が車で連れ去られたのを目撃していたんです。責任を感じているんだと思いますよ」 「それにしてはムキになり過ぎじゃないかな」  真壁は唇だけゆがめて音のない笑いを発した。 「いや、深い意味なんてないんですよ。すみません、我々の商売は人を疑うところから始めないとね。それだけのことなんですが」 「どんな可能性もすべて検討してみなくてはいけないというのは理解できます。しかし、彼女がここにいてくれることはわたしにとって、慰めなんです……本当にわずかの」 「わかります」  真壁は頷いた。 「つまらないことを言って申し訳ない。わたしも神経質になっているんですよ。いや、我々だって、こんな状況にしょっちゅう遭遇してるわけではありませんからね」  真壁は立ち上がり、また捜査員たちの輪の中に戻った。だが雄大は、真壁なら皆川恵理に対して抱いた疑惑をそのままにしてはおかないだろうと思った。  つくづく、嫌気がさした。いったいいつまで、周囲の人間のすべてに疑いの目を向けるような情けない状態のままでいなくてはいけないのだろうか。  こんな事態になってみて雄大は感じていた。自分たちの生活、自分と鮎美との日常生活は、周囲から切り離されて成立していたいわば離れ小島だったのだ。身近なところに心をゆるして相談できる人間がひとりもいない。すぐ壁を隔てた隣家の人間の心根すら、雄大にはわかっていないのだ。二人で働いていて、将来にわたって充分な経済力があると思っていたのもただの幻想だったことは、失業という事態になってみて身に染みた。その上、そうして二人で働いてこの家を、マンションを、地域を留守にしていた時間の長さの分だけ、自分たちは遠ざかっていたのだ、それらの地域から、マンションから、家から。忙しくなるとほとんど寝に帰るだけになっていたこの家が、周囲の時間から置き去りにされてしまったのは当然のことだ。自分たちは何も知らず、何にも関心を持たず、ただ自分たちのことだけ考えて生きてきた。そしてそのツケが、こんな形でまわって来たのだ。  気がついて見回してみれば、周囲には見知らぬ人々の輪があった。それが現実だった。  この家を取り囲む周囲の人々にとって、自分と鮎美とはいてもいなくてもいい存在であり、何も与えてくれずにのうのうとしている存在だった。ゴミ出しのトラブルについても知らず、野菜の宅配についても知らず、そして、マンション内の様々な人間関係についても何も知らない。知らなくても生活できると思い込んでいた。知ることは下品な詮索だと都合良く解釈していた。自分たちさえ最低限の規則を守って生活していれば、それで済むのだと勘違いしていた。  味方がいない。  雄大は、また情けなさに嗚咽《おえつ》が漏れるのを止めることが出来なかった。  こんなに近くに大勢の人間たちが生きていたのに、こんな時に誰ひとり、疑いなく味方になってほしいと頼める人間がいない。助けてくれとすがれる人間が、いない!  恵理の作った軽食を形だけつまみながら、雄大はじっと鳴らない電話を見つめて過ごした。時間の感覚がどんどん麻痺していく。鮎美が連れ去られてからまだ丸二日も経っていないのに、もう何カ月も何年も、ソファに座り続けて電話を待っているような錯覚にとらわれる。  二時間近く経って、そろそろ日が落ちようとしていた頃に来訪者があった。所轄署の少年課署員に連れられた一人の中学生だった。真壁と打ち合わせていた通りに、玄関先で親戚の子供を出迎える下手な芝居をぎこちなくしてから、雄大は二人を部屋の中に入れた。  三宅朗《みやけあきら》、というその少年は、地元の公立中学の三年生だった。不良グループの中心人物だというので赤い髪をした崩れた服装の子供を想像していたのだが、ふつうの黒い髪を短く切りそろえて、ジーンズにトレーナーという常識的な格好だった。だがその黒い髪は、どうやら金髪を染め直したものらしくて生え際に半端に色の抜けた毛がちらちらと見えていたし、ジーンズは真新しくてついさっき買ったばかりという色をしている。オヤジ狩り事件の首謀者として再三警察に事情を聴かれ、今日、明日にでも逮捕される可能性があるわけだから、早めに改悛《かいしゆん》の態度を示してなんとか軽い刑罰で済むようにと、周囲も本人も必死なのだろう。  雄大が二人にソファをすすめると、朗はおどおどした様子で浅く腰掛け、膝の上に置いた自分の手を見ていた。 「わざわざ来て貰ってありがとう」  雄大は立ったまま、朗に向かって頭を下げてから、朗の真正面に座った。 「詳しいことは話せないんだけど、今ね、ちょっと困ったことが起こっていて、ぜひ君に助けて貰いたいと思って来て貰ったんです」 「助けるって」  朗は下を向いたままで言った。 「何も知らないです、ほんとに。おじさんのこと殴ったのは俺らじゃないです」 「そうなんだってね。でも、わたしが殴られたことは知っていたんだね」  朗は頷いた。 「新聞に出てたから」 「驚いたでしょう。自分たちがやったんじゃないのにって」  朗は大きく頷いた。 「……俺ら……殺すつもりなんてほんとになくて……あのくらいで意識不明になるなんて思ってなかったから……だからもう止めよう、やばいからって言ってたのに……」 「君に助けて貰いたいのは、わたしを襲った連中に心当たりがないかどうかってことなんです。わたしもどうやら複数の人間に襲われたのは間違いがないみたいなんだ。だけど、そいつらもわたしを殺そうとしたわけではない。怪我は軽かったからね。ところがそのすぐ後で、わたしはとても大きなトラブルに巻き込まれてしまった。それで考えたんです。もしかしたら、あの時わたしを殴った連中は誰かに雇われていたんじゃないかって」  雄大の言葉に、いちばん大きく反応したのは真壁だった。片方の眉をぐっと持ち上げて、どうしてその仮説を先に話してくれなかったのだ、と雄大を非難する目つきをしている。 「おじさんを襲った奴に心当たりはないけど」  朗は、真壁の顔色を窺《うかが》うように用心深い目つきで言った。 「でも、変な噂なら聞いたことがある」  真壁が思わず腕を伸ばしかけたのを、雄大はかろうじて抑えた。 「どんな噂でもいいよ、教えてください」 「俺ら」  朗は唇を舐めた。 「やってないことまで犯人にされたらやだと思ってさ……おじさんの事件の後、俺らの真似した奴はどいつだって、いろいろ聞いたんだ」 「情報収集したわけだね?」 「うん。俺らとおんなじ中学かなとか思って。そしたら……」  朗は声を低めて、不安そうな表情になった。 「信じて貰えないと思うけど」 「いや、信じる」雄大は朗の腕を掴んだ。「信じるから、教えてくれ!」 「駅前の……小暮学習塾って知ってる?」 「いや」  雄大は記憶をたぐった。 「ああ……あるね、そう言えば。北口だね?」  朗は頷いた。 「そこの……塾長がさ、俺らの中学とは違うんだけど、別の中学の奴らにバイトしないかって話してたらしいんだ……すごく面白いバイトでバイト料も弾むって。でも、どんなバイトなのかは秘密なんだって……で、そのバイトを引き受けたって連中が、おじさんの事件の後、やばいんじゃないのとか話してたって……」  真壁は手帳に何かメモすると、部下を呼びつけて耳もとで囁き、メモを渡した。 「俺、嘘言ってないけど、でも確かめたわけじゃないから……」  朗は刑事の動きを見てまた不安そうな顔になった。 「大丈夫、君の言葉は信じてるよ、みんな。そしてちゃんと確認してくれるから」  雄大は朗の肩を叩いた。 「ほんとにありがとう。おかげで助かるかも知れない」 「助かるって、誰が?」 「いや……」  その時、また雄大の携帯がメールの受信を知らせた。雄大はポケットから携帯を取り出した。 「空《から》だ」  発信人は沙帆になっている。 「また書き忘れかな」 「どうしたの?」  朗は興味深そうに雄大の携帯を見ていた。 「……知り合いの子からメールが来たんだけどね、空なんだ。中身がない。そう言えば、前のメールも変だったな」 「変って?」 「いや」雄大は受信メール記録をたどった。「こんなのなんだ。今、若い人の間でこういう暗号みたいなのが流行《はや》ってるのかな」 『たせけた』  沙帆から午前十一時三分に入ったメールにはそれだけ書かれていた。雄大はそれを朗に見せた。 「な、意味がわからないだろ?」  朗はその文字をじっと見て、それから自分のポケットに手を突っ込んで携帯電話を取り出した。 「君も持ってるのか」 「プリペイドだけどね。電話料金がすごくなり過ぎて、親に怒られて解約されちゃったから。えっと……これさ、おじさん、押し間違いじゃないの?」 「押し間違い?」 「見ないで押すとさ、行き過ぎるじゃん、あれ」  朗は自分の携帯を押して確認している。 「最初の、た、は、タ行のいちばんあたまだから押しちがえることはないと思うんだよね、だから、た、でいいと。最初が、た、で、あとは二個目がサ行、三個目がカ行、最後がタ行のどれかの文字が入るって考えればいいんじゃないかな。何行かってのは、指先で数えると間違えないでしょ。これ、手探りで見ないで打ったんだよ、ぜったい」  雄大は自分の携帯をじっと見つめた。  最初は、た。  次がさ、し、す、せ、そ。  次はか、き、く、け、こ。  最後がまた、た、ち、つ、て、と。  たさ。たし。たす……たす?  たすか……たすけ……  たすけ……て。  たすけて! 「助けて、だ!」  雄大と朗はほぼ同時に叫んだ。 「おじさんこれ、やばいよ!」 「真壁さん!」雄大は真壁に怒鳴った。「どうも知り合いの女の子が困ったことになってるみたいなんです! 鮎美の事件とは関係ないかもしれないけど、万が一のことがあるかも知れない!」      2  携帯電話会社に調べさせると、沙帆のメールがどの中継ポイントを通ったかはわかるらしいが、時間がかかる。それより、沙帆の行動範囲を調べてもらった方がいい、ということになったが、真壁も含めて警察はあまり乗り気ではなかった。携帯メールの「たすけて」だけでは、事件なのかどうかの判断が難しいというのである。  沙帆から聞いた、両親の離婚と自分の出生の秘密にまつわる話も、真壁には眉唾に聞こえたようだった。実際、雄大自身が信憑性《しんぴようせい》に疑問符を付けていたのだからそれは仕方ないのだが、沙帆がこのマンションの住人の誰かから出生の秘密についての情報を得ていたのは、本当のことのように思えた。そして雄大は、結局このマンションがすべての事件をひとつにまとめるキーポイントだと思い始めていた。  だとしたら、沙帆のSOSは本物で、それも鮎美が誘拐されたことと関連している可能性は高いことになる。  雄大は何度か沙帆の携帯を呼び出してみたが誰も出ない。留守電は、メールを打てる状態にあれば解除出来るはずなので、沙帆はわざと留守電を解除していないことになる。つまり……呼び出し音が鳴っても電話に応答することは出来ない状態、あるいは、呼び出し音をそばにいる誰かに聞かれたらまずいという状態!  雄大の背中が汗で冷たくなった。  なんとかしなければ。だがどうしたら、どうやったら沙帆と連絡が取れる?  電話をかけたら留守電になる。だがメールならば……沙帆はマナーモードにしているはずだから……  雄大は沙帆のアドレスに向けてメールを打った。どうせ文面は読めないだろうから、中身はなんでもいい。問題は沙帆が気づいて応答してくれるかどうかだ。それにはともかく、回数を打つしかない!  雄大は、がんばれ、と打ったメールを何度も何度も沙帆のアドレスに再送した。マナーモードのバイブレーターが連続して振動すれば、沙帆がそれが何か意味のあることだと気づいてくれるだろう。 「メールですか」  真壁が雄大の様子に気づいた。 「例の女の子に?」 「真壁さん、この子のSOSは、鮎美の事件と関係があるような気がするんです」  真壁は腕組みしていた。 「しかし、その沙帆という少女は草薙さん、あなたとは何も関係がなかったのでしょう」 「ありません」  雄大は強く首を横に振った。 「しかし犯人が誤解したかも知れない。たった一度とは言え、わたしはこの子と池袋で一緒にいました。水族館を見て食事をしただけでしたが、もし犯人がその様子を見ていたとしたら、誤解して沙帆ちゃんにもちょっかいを出した可能性はあると思うんです」 「携帯電話会社に依頼はしてあります。しかしどの電波中継点を通ったか最後までたどるには少し時間がかかるんですよ」 「今、この子からヒントをもらおうと思ってるんです」  雄大は休まずにメールを送信し続けた。 「もしかしたら……この子の居場所が、鮎美の居場所と同じだということも、考えられる」 「わかりました」  真壁は立ち上がった。 「所轄にはわたしがかけ合いましょう。緊急配備でその子を探させます」 「お願いします!」  雄大が膝に額がつくくらいまで頭を下げたその時、雄大の携帯がメールの着信を知らせた。 「来た!」 『ママ』 「……ママ?」 「沙帆という子からですか」  雄大は頷いた。 「しかし……意味が……ママ。でもマ行の先頭の文字だから、慎重に打てば間違えようがない」 「つまり、そのものズバリ、ママ、というのが文面だということですね」 「母親だ!」  雄大は立ち上がった。 「真壁さん、この子の母親のところには?」 「さっき連絡はしましたよ。でもね、その子の母親、西村さんは、その子は最近たまに無断外泊をするようになっていたとかで、今回も警察に相談しようかどうしようか迷ったが様子を見るつもりだった、と言ってましたが」 「捜査員を沙帆ちゃんの母親のところに派遣してもらうわけにはいきませんか。沙帆ちゃんは、わたしがSOSに反応して連続メールを送ったことに気づいたんです。だから自分がどこにいるのかわたしに教えるために返答した、そしてそれが、ママ、だった。だとしたら、この子の居場所に母親が関係しているのは間違いないはずなんです! わたしはここを動くわけにはいかない。でも沙帆ちゃんが頼ってきたのはわたしなんだ。お願いです、この子の母親のところに……」 「わかりました。すぐ行かせましょう」  真壁が動く気になってくれたので雄大はホッとした。そしてまたメールを連続送信した。メッセージは受け取ったよ、と沙帆に伝える為に。  あまりにもいろいろなことが続けて起こって、雄大は感覚が麻痺し始めている自分に気づいていた。自分がなぜこんなところにのんびり座っていなくてはならないのか、焦りはとっくに沸騰して焦げ付いてしまい、もうものを考えることさえ面倒になっている。  だがここで諦めるわけにはいかなかった。そろそろ夕刻、誘拐犯から連絡が来る頃だ。また一晩中、猫の死体を集めさせられて終わるのかも知れない。だがそれでもやらなくてはならないのだ。犯人はただの思いつきで自分にあんな真似をさせたのではない、必ず、必ず理由があるはずなのだ。それがどんなに理不尽で突拍子もない理由であれ、犯人にも論理は必ず、ある。その論理の筋道さえわかれば、それが犯人に結びつくことは絶対に間違いない!  猫の死体。犯人は猫嫌いなのか?  猫が嫌いな人間が、他人に猫の死体を回収させるなんてこと、するだろうか? 猫を殺せと命じられたのならわかるが……  雄大が猫のことを考え始めた時、それに呼応するように真壁のところに連絡が入った。真壁は携帯電話を手に奇妙な顔をしていたが、電話を切ると首を傾げながら雄大に言った。 「猫の解剖所見が正式に出ましたよ。東都大学獣医学部からの連絡で、猫の死因はやはり交通事故だと思われる、とのことです。しかも、たぶん同じ車によるものではなく、それぞれ車は違っているのではないかと。傷口に車の塗料が付着していた猫が三匹いたんだそうですが、いずれの塗料も色が違っているんだそうです。それとタイヤ痕が潰れた身体に残されているのが二匹、このいずれもタイヤのメーカーが明らかに違うと。模様が違うんですな。これはいったい、どういうことだと思いますか。もちろん草薙さんがお気づきになったように、死亡時刻も七匹全部、違っているようです。いちばん古い死体は死後五日は経過していて、いちばん新しいものは、昨夜の九時頃に死んでいるようです」  真壁も当惑していたが、雄大も当惑した。やはりあの猫はすべて交通事故。では誘拐犯は、交通事故で死んだ猫の死体をわざわざ雄大に集めさせた?  どうしてそんなことをする必要がある?  何の意味なんだ? 「それぞれ別の日、別の時間に、別の車でひき殺された猫。つまりあの猫たちに共通していることは、交通事故に遭って可哀想だった、ってことだけなわけだ」  真壁はしまいに笑い出した。 「いったいなんなんだ、犯人は猫の葬式を草薙さんに出して貰いたかったのかな」  ……それだ。  雄大は顔を上げた。 「……真壁さん……それです」 「は?」 「犯人はやっぱり猫嫌いなんかじゃない……たぶん、その逆だ。犯人は猫が好きなんです」  真壁は瞬きした。 「どういう意味です?」 「わたしが集めさせられた猫の死体はみんな、犯人が都内で見つけた死体なんです。さっきの想像がやっぱり当たっているんですよ。犯人は交通事故で死んだ猫の死体を探し、その死体をわたしに探させた。まだ温かい死体、あんなのは犯人がゆうべ見つけたものなんだ。犯人はわたしに……死んだ猫たちの弔《とむら》いをさせようとしているんだ」 「しかし草薙さん、あなたは猫を車ではねた記憶はないとおっしゃったじゃないですか」 「ありません。憶えている限り、そんな経験はない」 「だったら変でしょう。あなたに猫が交通事故に遭う実態なんか見せて死体の弔いまでさせようと言うのだから、当然、犯人はあなたに何らかの反省を促しているわけですよね、猫の交通事故に関して。それなのに当のあなたはまったく覚えがないなんて、そんなことは……」  雄大は真壁の言葉を聞いていなかった。雄大の頭の中に今、ひとつの可能性が浮かんでいた。 「真壁さん、ちょっとこのマンション内部で電話したい人があるんですが」 「何か思い当たられたんですね?」  真壁は雄大の腕を掴んだ。 「我々にも話していただけますね?」 「確かめないとならないんです……あまりにも突拍子もない話なんで。ともかく、電話、使用していいですね」 「構いませんが、我々も聴かせていただいてよろしいですかね」 「けっこうです」  雄大は受話器を取り、自治会会長宅の電話番号をプッシュした。      *  マンションの自治会長、竹下良雄は、五十代の後半、数年前に勤めていた家電メーカーを定年退職して、六十前に引退してしまった男だった。定年退職自体も繰り上げ定年の希望退職で、退職金が三割増しになる代わりに定年が数年早まる方を選択したということらしい。雄大には、まだ六十にもならず健康なのに引退してしまう気持ちというのはまるでわからなかったが、噂では竹下はとても多趣味な男で、仕事を引退しても退屈を知らない生活をおくっているようだ。自治会の仕事も竹下にとってはその趣味のひとつなのかも知れない。自分から立候補してすでに二期六年を務めあげている。 「お電話をいただいて、すぐ調べてみたんですが」  竹下は持参したファイルを居間のテーブルの上に広げた。 「確かにそういった事実はあったようですね……はい、今から三年前です、一九九八年九月の臨時総会。これですね」  一同は、竹下が指さした部分を一斉に覗き込んだ。 「こちらの表で見ていただければと思います。規約改正案に賛成五十二、反対二十二、棄権四。規約改正には総世帯数の三分の二の賛成が必要ですが、この時、総世帯数は七十八でしたから、実にぎりぎり、三分の二ジャストでマンション規約は改正されたわけです」 「改正内容がペットの飼育問題だったわけですね……」 「そうです。旧規約では、各世帯一匹に限り、危険ではない愛玩動物の飼育が認められていたんですが、この時の改正で、熱帯魚や小鳥など、常時ケージに入れて飼うことの出来るペット以外の飼育が一切禁止されたわけです」  雄大は顔を覆った。 「……うちは賃貸でしたから、賃貸契約にすでにペット禁止条項が入っていたんです。だからこの規約改正がそんなに重大な意味を持つなんて……考えていなかったんだ」 「しかし、これがどうして草薙さんが恨まれる原因になるんです?」  真壁がまた首をひねった。 「この規約改正は草薙さんが提案されたわけではないんでしょう」 「わたしは……我が家は、ということですが、この総会に出席しなかったんです。委任状を出して採決権を他人に譲ってしまいました……会長さんに」  竹下は頷いた。 「確かに委任状をお預かりしていますね……欠席される方の委任状はほとんどわたしの名前を書いて出されるので、結果的にはわたしひとりが、多い時になると十数世帯分もの投票権を持ってしまうことになるんです。これはあまりよろしくないので、出来るだけ総会には出席していただくよう、折に触れてお願いはしているのですが……」 「それでは、会長さんは」 「規約改正に賛成しました。いえね……わたしだって、既にペットを飼育している人がいるのにそれを今さら禁止するなんて嫌だったんですよ。家族同然のペットを処分しろと命令することになるわけですからね。ただ、この改正案が出される一年ほど前から、マナーの悪い飼い主によって住民が嫌な思いをし続けていたんです。ペットのトイレを平気でベランダに置かれると、夏になると隣や上下の住民が窓も開けられなくなるんですよ、臭くてね。他にも、不燃ゴミのはずの猫のトイレ砂が燃えるゴミと一緒に大量に出されたり、廊下やエレベーターなどでちゃんと引き綱をかけられていない犬が住民にとびついたり吠えかかったりして住民をおびえさせたり。苦情が出る都度、問題のあった飼い主の人に注意していたわけなんですが、素直に受け取っては貰えないことが多くて、わたしもほとほとその問題では疲れてしまっていたんです。結局、ペットを飼育できるマンションにしてはこのマンション自体が非力でした。ペットが飼えるマンションは最近たくさんつくられていますが、みな最初から、匂いや鳴き声に対して対策がとられていたり、ペットを連れている人と連れていない人とがエントランスやエレベーターを使い分けられるようになっていたりと、それなりの設備を有しているわけです。うちでは無理だな、と思った時、改正案には賛成せざるを得ませんでした」 「しかし、委任状を出したのは草薙さんだけだったわけではないのでしょう」 「ええ……この時は全部で七軒の世帯が委任状を提出し、内四軒がわたしの名前を書いていました。ただその」  竹下は、真壁と雄大の顔を交互に見て、それから苦笑いのような表情を顔に浮かべた。 「草薙さんの奥さんが大変なことになっていると知った以上は、どんな細かなことでも話しておいた方がいいわけですよね……すみません草薙さん、決してわたし自身がそう思っているわけではなくて、その、ただ……」 「わかっています」  雄大は頷いた。 「どうぞお話しください。そのつもりでこちらにお呼びたてしたわけですから」  竹下は頷いた。 「ええっと……つまりですね、わたしのところに委任状を預けた四軒の内、草薙さん以外のお宅はもともと、改正案賛成派だったんです。たまたま親戚の法事があったとか、旅行の予定が入っていたとか、仕事だったとかでそれぞれ総会は欠席されましたが、改正案賛成派だということはみんな知っているような人たちばかりでした。わたしが改正案に賛成するつもりだというのは、総会の前に何度か行なわれた規約改正に関する会議の席ですでに述べてありましたからね。で、草薙さんについては、ご夫婦ともお仕事をされているので無理もなかったんですが、会議には一度もご出席いただいておらず、改正案に賛成なのか反対なのか、事前にはわかっていなかったんです。それがわたしのところに委任状が届いたので、あ、賛成されるおつもりなのだな、と思ったわけですが。で、総会でこうした結果になって、ペットを飼っていたお宅にしてみたら、あと一票のところで改正案が通ってしまい、大変に悔しい思いをされたわけですよね。反対派も総会の前に票読みというのはしていたでしょうから、結局……草薙さんさえちゃんと総会に出て反対票を投じてくれれば、という何と言いますか……逆恨みのような発言も出てしまっていたようなんですね……」  間違いない。  雄大は確信していた。原因は、それ、だ。  雄大はすっかり忘れていた。真壁との会話で、犯人が猫好きな人間ではないか、と思い至るまですっかり。だが確かに三年前、その総会があった直後に何度か電話がかかってきていたのだ。名前を名乗らない人物から。  無責任!  そうヒステリックに叫んで電話を切った女性や、自分たちさえ良ければそれでいいのか、と低い声で呟いた男性。そうした嫌がらせはすぐに鎮まったのでたいして気にしていなかったのだが。 「わたしも……妻も誤解していたんです」  雄大は、ゆっくりと言った。 「わたしたちは賃貸でこの部屋を借りていて、その賃貸斡旋をしてくれた不動産会社から渡された契約書にサインをしました。その契約書はこの部屋の持ち主とわたしたちとの間の、言わばパーソナルな契約だったわけですが、それにははっきりと、ペットの飼育は禁止する、と書かれていたんですよ。それでわたしたちはてっきり、このマンション自体がペット禁止で、飼っている人たちは規約違反を平気で行なっているのだ、と思い込んでいたんです。ですから三年前に、ペットの飼育に関する規約改正について回覧板がまわって来た時に、まるっきり逆に考えていたわけです。つまり、規約で禁止しているペット飼育を規約改正で認めさせようという動きがあるのだと。ろくに中身も読まずにいたわけですから言い訳にはなりませんが……」 「それで、草薙さんとしては賛成だったわけですか、反対だったわけですか」 「正直……どちらでもいいと思ったわけです。今禁止されているわけだから、このまま禁止であっても仕方ない、それを承知で入居したんだから。でも解禁されるならされたで、自分たちも猫くらい飼えるかも知れないね、などと妻とは話していました。もし……禁止されていなかったものを禁止する、という話だとちゃんと理解していたら……改正には反対したと思います。現実に生きた動物と暮らしている人たちに、その動物を始末しろなどと迫るのは、やはりどう考えても……間違っていると思うからです」  竹下は反論しなかった。竹下自身、その時の自分の判断に痛恨の思いがあることは、その苦しそうに歪んだ顔からはかり知れた。だが竹下のその当時の苦悩もまた、決して小さなものではなかったのだ。  真壁まで黙り込んで、三人はしばらくそれぞれの思いを噛みしめていた。が、やがて真壁が両手で自分の頬をぱちん、と鳴らした。 「いけません、考え込んでいる時じゃない。いや、わたしも官舎生活でしてね、子供がペットを飼いたいとだだをこねて、可哀想にと思ったことが何度かあるもんですから、つい。ともかくその、規約改正反対派の人たちの中には草薙さんを逆恨みする可能性がある者もいた、という結論は出たわけだ。竹下さん、その後、規約改正に反対されていた方々はどうされたか、おわかりになりますか」  竹下は頷いた。 「わたしの記憶が正しい、という前提でお話ししてよろしいのでしたら。えっとですね……このリストでいきますと、まず、現在でもこのマンションにお住まいでいらっしゃるのは、相澤さん、青木さん、足立さん、綾木さん、川崎さん、小松さん……」 「すみません、そのリストに印をつけていただけますか。コピーさせていただきます」 「わかりました。ええっと、小松さん、坂口さん、高松さん、内藤さん、福西さん、伏見さん、古川さん、山下さん、ですね」 「十三軒。すると反対派の中で九軒は転居されたわけだ」 「ええ。大嶋さん、大沼さん、竹内さん、辻さん、花田さん、牧原さん、松尾さん、皆川さん、山田さん、この方たちが転居されています」 「転居の理由はやはりペット問題でしたか」  竹下は、いっそう苦い顔で頷いた。 「そうだったのではないかと思いますね……いや、はっきりとそうおっしゃって出られた方もいらっしゃいましたが、転居の理由など他人が詮索するものではありませんから。しかし……規約が改正されたために九世帯もの人たちが結果として追い出された形になったというのは……やはり異常事態だったということですね……もう少し他にやりようがなかったのかと思うと……」 「この方たちはみなさん、分譲でお住まいだったわけですね?」 「いや、調べなくてはわかりませんが、賃貸の方もいらっしゃいましたよ。まあ賃貸の場合には転居もさほど困難なことではありませんが……分譲だった方は、わざわざ家を売って転居しなくてはならなかったわけですからね。ペットを飼っていなかった我々にとっては、何も殺せと言っているわけじゃないんだから、誰かにあげるなりなんなり方法はあるだろう、ぐらいについ思ってしまったわけですが、考えてみればそんなことはほとんど無理なわけですよね。仔猫や仔犬ならともかく、成犬などを他人がひきとってくれる可能性は薄いわけですから、規約の改正というのはつまり、飼っているペットを殺せと強制するのと結果としては変わらないことになる。そんなことは出来ない、と、転居してしまう人が出てくるだろうことは予測出来たわけです。予測出来ていてなお規約の改正を断行したわけですから、賛成派は反対派をマンションから追い出したいと考えた、と受け取られても仕方がない。結局……一見民主主義のルールを守ったようでいて、我々のやったことはもっとも民主的ではないことだった。そう非難されても仕方ないですね」 「いや、会長さん」  雄大は溜息をついた。 「要するに、話し合いの段階でもっといろいろな可能性を探るべきだったということだと思います。マナーの悪いペットの飼い主に対して、マナーを守ってもらうことが出来なかったのか、とか、ペットの飼育を禁止するにしても、現在飼っているペット一代限りの猶予をつけるとか。民主的な解決方法はきっとあったはずなんですよ……それなのに、わたしたち夫婦はその話し合いにすら、参加しなかった……無責任だと言われても当然です」 「現在マンションに残っている人たちはペットをどうされたんですかね」 「半年の猶予期間というのはありましたから、その間に新しい飼い主を見つけるとか……それぞれ、対処されたのだと思います。あるいはそのままこっそり飼い続けておられた人たちもいたとは思いますが、その後は苦情もトラブルもありませんでしたから、そこまでは、ね」  真壁はリストを眺めていた。雄大も、ぼんやりと同じものに視線を這わせていた。  ふたりは、ほぼ同時に立ち上がった。 「皆川恵理!」  真壁は叫んだ。 「あの女は、どこにいる?」 「一時間ぐらい前に、一度アパートに戻って仮眠すると出て行かれましたが」  捜査員のひとりが言った。 「でもうちの婦警をひとり、つけてますよ」 「すぐに連絡を取れ! あの女をここに連れ戻すんだっ!」 「真壁さん、でも名字だけでは」 「草薙さん!」  真壁が鬼のような形相になった。 「こんなもんが偶然であるはずがないだろう!」 [#改ページ]    最 終 段 階      1  皆川恵理は消えていた。  雄大のマンションから恵理の自宅アパートまで付き添っていた婦人警官は、恵理と共に一度部屋の中まで入ったのだが、恵理がシャワーを浴び終わり、仮眠します、と挨拶して寝室に引っ込んでからは、ずっと居間に座って待機していたらしい。そして恵理は寝室の窓から消えていたのである。  雄大はショックを受けていた。皆川恵理のことは最後まで自分たちの味方だと思っていたかったのに。 「皆川誠治さんのことは憶えてますよ」  竹下は考え込みながら言った。 「確かに、規約改正反対派の中では強硬な意見の持ち主だったと思います。しかし恵理という娘さんは、いなかったですよ。少なくとも、一緒には暮らしておられなかったです。皆川さんところには男の子がひとりいました。当時でまだ小学校の低学年くらいでしたか。なんでも病気でほとんど入院しているということでしたが、ごくたまに、自宅に戻っていることがあったようですね」 「奥さんはいらっしゃらなかったんですか」 「いらっしゃらなかったです。……記憶が曖昧ですが、死別されたと聞いた憶えが……しかしあの皆川さんが……ああ、そうそう。皆川さんは伏見さんとご昵懇《じつこん》にされていたと思いますが」  竹下はなぜか、皮肉な笑顔になった。 「伏見さんも改正反対派でいらしたし、ね」 「旦那さんの方ですか」 「いいえ」  竹下の笑みがまた少し歪んだ。 「奥さんの方です。伏見さんご夫妻は規約改正反対派でいらっしゃいましたが、ご主人の方は本当はどうでもいいと思ってらしたみたいですよ。伏見さんのところはペットは飼ってらっしゃらなかったんです、ご主人が動物の毛にアレルギーがあるとかで。ですからまあ、どうして反対されているのか、とわたしも疑問に思わなかったわけではありませんが……」  竹下の言い方で、雄大はピンと来た。要するに、皆川という男と伏見美香とは、そういう関係だと竹下や他の住民から見られていた、ということだ。  雄大は伏見美香の一瞬の唇を思い出した。自分と彼女のことも、すぐにマンション中の噂になり、既成事実として扱われるようになるのかも知れない。  なんて狭い世界なんだろう。雄大は、今さらのようにこの、マンション、という建物の中にいる数十世帯の社会に憎悪と恐怖とを感じていた。男と女が少し親しく言葉を交わせばすぐにふたりはあやしい、という話になり、ゴミ出しの問題ひとつで他人に対して疑心暗鬼になり、さらに、ペットを飼う、飼わないの問題で憎しみ合ったあげく、追い出すとか追い出さないとかという事態にまで発展する。  しかし、別の見方をすれば、これこそが社会、なのだった。マンションの中で起こることはそのまま、社会全体で起こることの縮図に過ぎない。そしてこれまで自分と鮎美とは、このマンションの中で起こっていることはすべて「取るに足らないこと」だと片付け、見ない触れない関わらない、を通してしまっていた。どうせ賃貸で永久に住むわけではないし、面倒だし、と。その気持ちの根底には、自分たちは外に出て働いている、社会に貢献しているのだ、こんなマンションの中にいてお山の大将にでもなった気分の連中には付き合えない、という思いあがった気持ちがあったことは否定出来ない。仕事をはやばやと引退して、マンション自治会の仕事に夢中になっている竹下のような人物に対しては、無意識の軽蔑を抱いていたことはたぶん、事実なのだ。  雄大は、背中を流れる汗の冷たさに身震いした。  もし竹下が克明に、三年前の臨時総会について記録をとっていなかったら。今度の事件に皆川恵理が関与しているという事実はわからないまま、あと何日、犯人に翻弄されることになっただろう。  料理、買い物、ゴミ出し、自治会総会。ここ数日、雄大はそれまで漠然と、自分の仕事ではない、と考えていた事柄に触れてみて、痛切に感じていた。それらの一見くだらない事柄、取るに足りない事柄が、実は人間が社会生活をしていく上での基本中の基本だったのだ。そして自分はこれまで、そんな基本的なことすらわからずに、いっぱしの社会人を気取っていたのである。  専業主夫になってほしい。  雄大は突然、思い至った。鮎美は自分に、そのことを言いたかったのではないのか?  警察に伴われて部屋に入って来た伏見美香は、真壁からおおまかな事情を聞くと顔面蒼白になり、それから啜《すす》り泣きを始めた。  雄大は、伏見美香への質問は真壁に任せ、目を閉じたままじっと座っていた。伏見美香の顔をまともに見られるだけの心の余裕がなかった。 「……皆川さんは……誘拐なんて、決してそんなことをする人では……」 「まだ皆川誠治さんが犯人と決まったわけではありません。しかし皆川恵理さんという女性が、事件の最初から目撃者としてかかわっていて、しかも突然姿を消したという事実があるわけですよ。伏見さんは皆川恵理さんについて何かご存じではありませんか」 「恵理さんは、皆川さんの姪御《めいご》さんだったと思います。皆川さんのお姉様の娘さんじゃなかったかしら」  雄大と真壁は顔を見合わせた。真壁が頷いた。もはや決定的だった。皆川恵理は今度の事件に関与していたのだ。 「でも、恵理さんが最初から関与していたって、それはいったいどういうことなんですか」 「皆川恵理さんは草薙さんの奥さんの同僚なんですよ、会社のね。それで、奥さんが誘拐されたと草薙さんに連絡してきたのが恵理さんで、それ以後もずっとここにいて、いろいろ手伝ってくれていたんです」  伏見夫人は驚き、困惑して瞬きを繰り返した。 「それじゃ……まさか恵理さんが草薙さんの奥様を……? そんな馬鹿な! わたし、恵理さんにはお会いしたことがあります。とても優しい、いいお嬢さんで、そんな、誘拐だなんてそんなことのできるような人ではありません」 「しかし現実にですね、先程も説明したように、草薙さんはゆうべ一晩中、猫の死体を集めて東京中を走りまわらされたんです。そしてそんなことをされる覚えは、ペット規約の改正総会に出席しなかったこと以外はない、と言っておられる」 「それだけのことで奥様を誘拐するだなんて、いくらなんでもそんな……」 「そんな恨みを抱いたはずはない、と、あなたは断言できますか。さっき調べたところでは、皆川誠治はマンションを売却して引っ越しをしている。バブル崩壊以降マンション価格が下落の一方だったのはあなたもよくご存じでしょう。せっかく分譲マンションに住んでいたのに、それまで飼うことをゆるされていたペットたちを始末しろと迫られたあげく、大損をしてマンションを売るはめになった人の悔しさというのは、話を聞いただけのわたしにもよくわかりますよ。それもたった一票差、しかも、本来なら草薙さんは、規約改正に反対の考えを持っていた人だった。それなのに総会を欠席しただけではなく賛成派だった自治会長に委任状を渡すという、いわば裏切り行為をはたらいたわけです。もともと改正に賛成していた人々よりも草薙さんに対してゆるせない、と、皆川誠治が思ったとしてもそんなに不自然ではないでしょう」  伏見美香は黙って下を向いている。真壁はその顔を覗き込むようにしてさらに訊いた。 「実際、どうだったんです。あなたは皆川誠治と懇意にしていらしたようだが、皆川はペットに異常な愛情を抱いていたんじゃないんですか。そしてそのペットを守る為に、損をして自宅を売却しなければならなかったことで、草薙さんの悪口を言っていた。違いますか。その総会とやらの後で、草薙さんのところに嫌がらせめいた電話をかけてきた者が二、三いたようですが、皆川もやってたんじゃないのかな」 「あの方は」  美香は下を向いたままで言った。 「そんな非常識な人ではありませんでした……少なくとも、以前は。確かに皆川さんの家には猫がいました。そして家族同然にしていたことは事実です。でもそれって、当たり前なんじゃないですか。ペットを飼っていて、家族と同じように愛情を感じていない方がどうかしている、わたしはそう思います。そしてそれをわかっていながら、数の論理で一方的にペットを処分することを命令する、そんな規約改正をする人たちって、冷酷だと思います。皆川さんがおかしいのではなく、あの時規約改正に賛成した人たちの方が、頭がおかしいんです」  美香は頭を上げ、雄大を見た。雄大は、その視線の強さを受け止めることが出来ずに目をそらした。 「皆川さんは変質的にペットを愛好していたわけではありません。ごく普通に愛情を注いでいただけでした。そして……篤志《あつし》くんも、あの猫をとても可愛がっていたんです」 「篤志くん? 皆川誠治の息子ですか」 「ええ。……筋ジストロフィーで、入退院を繰り返していたんです。自宅にいられるのは一年の内半分もありませんでした。でも自宅に戻っている時は、いつもあの猫……ポンタと一緒でした。幼い頃からの闘病生活で学校にもほとんど行けない子でしたから、ポンタがいちばんの親友だったんだと思います。皆川さんは規約改正が決まった時、とてもがっかりはしていました。けれど、仕方がない、ポンタはうちの家族なんだから誰にもやることなんて出来ないとおっしゃって、すぐにマンションの売却を決心されたんです。草薙さんに対する恨み言なんて一言も言ってませんでした。本当です。わたしが言ってもどうせ警察は信じてくださらないのでしょうけれど……草薙さん」  呼ばれて、雄大は顔を上げた。 「わたしは皆川さんと特別な関係だったわけではありません。ただ……わたしの従兄も筋ジスで十歳の時に死んだんです。それで篤志くんのことが他人とは思えなくて……本当にそれだけでした。それだけだったのに……」  美香の綺麗な顔が歪んだ。 「誰もそうは思ってくれなかった。規約改正のこともそうです。わたしはわたしの考えで、すでにペットを飼っている人たちがいてそれが認められていたのに、力でもって規約を改正し、動物の命を危険にさらしても平気だという考え方がどうしても納得出来なかったから反対していただけです。わたしの他にも、ペットは飼っていないけれど反対を主張している人は何人もいました。でも、マンション内の噂でわたしと皆川さんとが関係があるように言われてしまい、皆川さんにもご迷惑だったと思います。わたしも……そのことで主人と衝突してしまいました。わたしだって……本当はここを出たかったんです。でも主人はローンが残っているのに買い値を割り込んで自宅を売ることなどとんでもないと言い、わたしにしても、離婚するだけの勇気も実行力もなく、仕方なくここに残ったんです。奥様にはお気の毒だと思います。でもわたしは、皆川さんが奥様を誘拐するだなんて、今でも信じられない」  雄大は何も言わなかった。言えなかった。だが、美香の言葉は真実だと思った。美香は確かに自分に対して誘惑めいた仕種をして見せた。しかしそれは、何もやましいことがなかったのに不倫を既成事実として吹聴され、|そうした女《ヽヽヽヽヽ》とレッテルを貼ったこのマンションの隣人たちに対するある種のあてつけだったのだ。たぶん、美香は誤解していた。雄大もまた美香について「よからぬ噂」を聞いており、そういう女だと信じていると。だから雄大にそれらしいそぶりを見せつけてからかったのだ。どう、噂通りの卑猥な人妻でしょ? これであなたの好奇心は満足した? さあどうしたのよ、こちらがその気になっているんだから誘ったらどう? 押し倒したらどうなのよ! どうせ、下心があってのこのこ家まであがり込んで来たくせに!  だが雄大は、それでもまだ信じたかった。あの時、伏見美香が感激した涙は本物だったと。野菜のスライサーに単純に驚き感心していた雄大に対して、抱いてくれた親近感は本物だったのだと。  あなたの噂なんて聞いていませんでした。  そう、聞いていなかったのだ。雄大も鮎美も、このマンションの中で起こっていることにはほとんど無関心で過ごしてきた。日々の仕事に比べればそんなことはどれもこれもくだらないことだと思っていた。実際、伏見美香が皆川誠治と不倫しているかどうかなど、くだらないことだった。聞かなくて済んで良かった、と思うようなことだった。だがそれでも、それを聞いていたら、少なくとも皆川、という名前が出た時皆川恵理に対して疑いくらいは抱いたかもしれない。嫌なこと、つまらないこと、醜いこと。だが社会がそうであるように、重要な問題はいつも、そうした耳にしたくない情報と背中合わせに流れているものなのだ。 「それで伏見さん、皆川父子が今どこに住んでいるのか、あなたはご存じじゃありませんか」  真壁の問いかけに、美香は首を横に振った。 「ここから引っ越した先は存じていました……東京の荒川区の方でした。でも……昨年の秋に、篤志くんが……」  美香は顔を覆った。 「そのお葬式の後、お礼状と香典返しが届いたのですが、それきりです。今年の年賀状は宛先不明で戻って来てしまいましたから、郵便局に転居届けも出しておられないんだと……」 「息子は死んだわけか」  真壁はほとんど無意識にそう呟いたのだろうが、その言葉はあまりにも冷たく耳に響いた。 「息子の死から時間が経って、周囲の者に対する憎悪がかえってつのってしまったということはあり得るだろうな」 「刑事さん、そんなこと……」  美香が頬を赤くして真壁を睨んだ。 「本当にそんな方ではないんです! とても優しい、温かい心の持ち主で、ポンタが交通事故で死んだ時だって……」 「なんだって」  真壁が美香の腕を掴んだ。 「皆川の飼い猫は交通事故で死んだのか!」  美香は、自分が口走った言葉の重みに押しつぶされたように、ぐっ、と喉を鳴らした。 「どういう経緯だったのか、説明してもらいましょうか、伏見さん!」  真壁が美香の腕を揺さぶる。美香が苦痛に顔をしかめたのを見て、雄大は思わず立ち上がりかけた。美香はそんな雄大を悲しそうな目で見て、それからすすり泣きながら頷いた。 「……ポンタは結局……親戚の方のところに引き取られたんです。皆川さんはペットの飼える物件を探されたんですが、マンションを売却してもローンの残債が残ってしまって、とても一戸建ては無理だったようですし、賃貸でもなかなか条件に合うところが見つからなかったとかで、とりあえず少しの間だけ、親戚の方に預けるという形にしたんだと思います。でも……篤志くんの容態がだんだん悪化して、皆川さんは家を探す暇もなくなってしまって。そうこうしている内に……親戚のお宅は一戸建てで、もともと飼っている猫が外出自由だったようで、ポンタも一緒に外出自由にしていたらしいんですけど……」 「交通事故で死んだわけだ。それはいつです」 「……確か、昨年の夏頃だったと思います」 「息子が死ぬ少し前だな」  真壁はひとり頷いた。 「猫の死を知った息子が希望を失って病気に負けてしまった。そう考えたら、猫と共に暮らしていた幸せを奪った規約改正問題が息子を殺したと思い込んで、八つ当たりのような憎悪を草薙さんに抱く可能性だって……」 「真壁さん」  雄大は苦しみながら言葉を絞り出した。 「それではあまり、飛躍が過ぎるでしょう。篤志くんという少年は筋ジストロフィーという難病だったわけです。皆川さんだって……それなりに覚悟は決めていらしたと思いますが」 「その通りですわ」  美香が頷いた。 「不治の病であることは誰だって知っているわけです。皆川さんだって、もちろん希望は最後まで繋いでいたでしょうけれど、同時に心の隅にはいつも、その日が来た時の覚悟は出来ていたと思います。刑事さん、あなたは人間を甘く見過ぎていると思います」  美香の口調は厳しかった。 「難病の子を抱えた家族というのは、もっと強いものです。誰のせいにも出来ない運命を背負って、みんな必死に協力して頑張るものです」 「わたしは人間をこの上もなく厳しく見ていますよ。なぜなら、人間には最終的に、どんな綺麗ごとも通用しない闇があることを知っているからです。子供が生きていた時は、確かに皆川は絶望せずに前向きに生きていたかも知れない。だが心の支えだった子供を失った時、皆川の心にどんな変化が起きたのかなんて、誰にもわからない。伏見さん、はっきり言うが、今度の事件の黒幕は皆川に間違いないとわたしは思う。しかし草薙さんの奥さんがまだ……無事でいるのであれば、皆川の罪はまだしも軽いし、実刑は避けられないとしても数年でまた社会に戻って来れる。今いちばん大切なのは、一刻も早く皆川を見つけ出して人生をやり直すチャンスを与えてやることだ。違いますか? 皆川がいるとすればそれはどこか、伏見さん、考えてください!」  美香はうめき声をあげながら顔をまた覆い、それでも必死で考えているのか、じっと動かなくなった。  その時、一度自分の家に引き上げていた竹下が戻って来た。 「刑事さん、頼まれたもの、持って来ました」  竹下が手にしているのは一枚の写真だった。 「皆川さんの写っているものはこれ一枚だけでしたよ。マンションの自治会が主催した納涼盆踊りの時のものです。こんなものでお役にたちますか」  真壁はそれを受け取り、ちらっと見た。そしてそのまま雄大の方に手渡した。 「この写真を元に緊急配備を敷きます。今夜もきっと皆川から連絡があるでしょう。あなたを電話であちらこちらと引き回す為に、皆川は必ず猫の死体のある現場の下見をしているはずだ。写真を元に聞き込めばきっと……草薙さん、どうされたんですか」  雄大は、写真を持つ手が激しく震えるのを押さえ付けることが出来ずにいた。  皆川誠治の写真。その顔と姿。  雄大はその男を知っていた。見たことがあった。  あの男だ。  鮎美が池袋で親しげにしていた、あの男!      2 「つまり、皆川はあなたの奥さんと池袋で密会していた。いや、失礼、密会というのは不適切な言葉ですね。ただ偶然出会って、以前に同じマンションに住んでいた者同士、お茶でもどうですか、というだけのことだった可能性もありますから」  真壁は雄大に気を遣うように言った。だが雄大は、あれはまさに「密会」だったと思い返していた。鮎美は親しそうに皆川誠治の腕をとっていたのだ。皆川が引っ越す以前、鮎美から皆川の名前を聞いたことすら雄大には覚えがない。鮎美は以前に同じマンションに住んでいた「から」あの時親しげにしていたのではなく、明らかに、皆川が引っ越しして別の場所で暮らすようになった以降に親しくなっているのだ。 「いずれにしても、皆川と奥さんに面識があれば、奥さんが簡単に誘拐されてしまったのも納得がいきます。奥さんは皆川のことをまったく警戒していなかった。だからどこかに誘い出されても何の疑いも持たずに出かけてしまい、監禁されてしまった」 「でも」  雄大は混乱した頭のままで言った。 「鮎美は車に引き込まれる時に抵抗していたと……」 「それは皆川恵理の証言です。今となってはまったくアテにならないどころか、嘘だった可能性の方がはるかに高い。恵理は、誘拐犯の誠治が鮎美さんと面識があることを悟られないように、鮎美さんが抵抗したと嘘をついたんですよ」  その通りなのだろう。鮎美は皆川誠治を信用していたのだ。だからあっさりと誘拐されてしまった。  雄大は皆川が憎かった。ただ鮎美を拉致しただけでもその罪は充分に重いが、鮎美の信頼を裏切り逆手にとったのだとすれば、あまりにも残酷だ。  たかが、自治会の総会に出席しなかっただけのこと。  たかが、深く考えずに投票を委任しただけのこと。  たかが、ペットのこと。  ここまで皆川に憎悪されなくてはならないようなことだったのだろうか、それが!  窓の外にはもう夕闇があった。そろそろ、皆川誠治から連絡が来る頃だ。今夜もまた皆川誠治は自分を東京中引っ張りまわして猫の死体を集めさせるつもりだろうか。だが恵理はどうして急に逃げ出したのだろう。恵理の役割は、警察が皆川誠治のことについて何か掴んだかどうか誠治に連絡することだったはずだ。恵理が姿を消した時点ではまだ、皆川誠治という名前は真壁との間で出てはいなかった。いや……恵理は自治会長が呼ばれた時点で、皆川誠治の名前が出ることは時間の問題だと踏んで逃げたのだ。  はたして、恵理からの報告で自分の正体がばれてしまったと知った誠治は、また連絡をして来るだろうか。このゲームはこれで終わりだと、一方的に連絡を断ってしまうのではないだろうか。  雄大の頭の中に、最悪のシナリオが浮かんでぐるぐるとまわり始めた。  午後七時、まだ皆川からの電話はない。 「草薙さん」  携帯で誰かと喋っていた真壁が言った。 「今からここに、あの沙帆という娘の母親が来ます。会っていただけますね」 「沙帆ちゃんの……母親?」  雄大は首を横に振った。 「わたしは面識がありませんよ」 「母親が希望しているようです。あなたと話がしたいと」 「それは構いませんが……沙帆ちゃんも鮎美と共に誘拐された可能性があることを、母親には?」 「説明させました。我々としては、沙帆という子がよこした携帯メール以外に手がかりがありませんから、母親が何か思い当たってくれることを期待するしかありませんからね」  雄大は頷いた。確かにそうだ。沙帆は、ママ、とメールをよこした。沙帆が、母親が自分の居場所を知っている、と言いたかったのだとしたら……  沙帆からは、ママ、を最後にメールが来ない。捜査員が十五分に一度、空メールを送信し続けてくれているのだが、応答がないのだ。メールすら打てない状況になってしまったのだろうか。雄大は、その想像にゾッとした。沙帆の危機は同時に鮎美の危機である可能性が高いのだ。  あ!  雄大は、雄大の携帯電話を握っている捜査員に向かって叫んだ。 「だめだ、もうメールは使えませんよ!」 「どうしてです、草薙さん」 「皆川恵理です」  雄大は頭を抱えた。 「彼女がまだ部屋にいる時に、わたしは三宅という少年と沙帆ちゃんからのメールの謎を解いてしまった。皆川恵理がそれを誘拐犯に伝えて、誘拐犯が沙帆ちゃんから携帯を取り上げたんです」 「草薙さん」  真壁が言った。 「まだ奥さんとその娘さんが一緒に誘拐されていると決まったわけではない」  真壁の慰めなどもう雄大の耳には入らなかった。雄大は、鮎美だけではなく沙帆の命までも危険にさらしてしまったのだ。  雄大は、壁に頭を叩き付けて死んでしまいたい気分だった。真壁が皆川恵理の態度に疑問を持った時点でなんらかの予防手段をこうじていたら……せめて、恵理がこの部屋から出て行くのをとめることが出来ていたら!  沙帆の母親は、雄大がまだショックから立ち直る前にやって来た。沙帆によく似て整った顔だちをしていたが、その頬からは血の気が失せて無気味なほど白かった。 「あの子がいるところ、わたし本当に知らないんです」  雄大の前に座るなり、沙帆の母親、洋子は叫ぶように言った。 「あの子があなたに出したというメール、見せていただけませんか!」  雄大は捜査員から携帯を返してもらうと、「ママ」とだけ書かれた沙帆からのメールを開いて洋子の手に渡した。  洋子はしばらくそれを眺めていてから、小さく横に首を振った。 「これだけでは……」 「これだけ出すのも精一杯だったんじゃないかと思います。沙帆ちゃんは……」  雄大は真壁を見た。真壁が頷いた。 「監禁されている可能性が高い。たぶん、後ろ手に縛られていて、携帯を見ながら打つことが出来なかったんでしょう。でもマ行がどこかは、指先で慎重にたどればわかります。そして最初の一文字ならば打ち間違えることもない。沙帆ちゃんがこれを送信してくる前に、タスケテ、という意味のメールを送ってきたんですが、打ち間違えがあったためになかなか意味がとれなかったんです。でもSOSだとわかって、こちらから何度もメールを送り、少なくともSOSの意味には気づいたことを知らせました。沙帆ちゃんはたぶんメールが読めない状態にいるので、受信した時のマナーモードの振動を何度も感じてもらうことで、こちらの意図を伝えたんです。沙帆ちゃんは意図を察してくれ、そしてこの、ママ、が送られてきました。つまり、ママ、という文字が、自分の居場所を教える最大のヒントになっていると思うんです」 「そう言われても」  洋子は首を振り続けた。 「あの子が監禁されている場所なんて……」 「奥さんは、皆川誠治、という名前をご存じではありませんか」  真壁の問いに洋子は顔を上げた。 「皆川……さんですか」 「ご存じですね」 「ええ……でも……以前にこちらに住んでおりました時、何度かお話ししただけですけれど。お隣さんでしたから」 「隣だった?」 「はい。あの、でも、私は離婚してここを出ましたから……皆川さんは今でもこちらに?」 「いや、数年前にやはり引っ越しされています」 「そうですか。皆川さんが沙帆のことに何か関係あるんでしょうか」  洋子は真壁と雄大の顔を交互に見て、それから苛ついたように声を荒らげた。 「わかるように説明してくださいませんか。いったい、どうして沙帆が誘拐されなければならないんですか。その犯人からはなぜ、わたしにではなく、草薙さんに連絡が来たんですか。草薙さんの奥様の事件と沙帆と、どこでどう繋がっているんですか。何もかも、わからないことだらけで……誰か説明してください、誰か……」  洋子は顔を覆って泣き出した。雄大はハンドタオルを手渡し、彼女がいくらか落ち着くのを待った。 「沙帆ちゃんは、このマンションに時々遊びに来ていたんです。それはご存じでしたか」  洋子は驚いた顔で首を横に振った。 「遊びに来ると言っても、ただ敷地に入り込んで下の児童公園をぶらぶらするくらいだったんですが、隣人の伏見さんの奥さんも、姿を見かけていました。しかしわたしは沙帆ちゃんのことを知りませんでしたから、沙帆ちゃんがわたしに声を掛けた時にも、ただの行きずりだろうと思ったんです」 「あの子が……草薙さんに声を……?」 「はい、池袋の駅で、彼女の方からわたしに声をかけてきたんです。たぶん、沙帆ちゃんはわたしに……わたしがオヤジ狩りに遭って殴られたことや、失業して酒に溺れていることなどをマンションの噂で聞き込み、興味を抱いて近づいたんでしょう。ともかく、彼女と二度ほど池袋の駅で出逢い、話をして、そして半日、一緒に遊びました。と言っても水族館に行き、ボウリングをしてから食事をした。それだけです。ですが、その時の様子を犯人に見られていたのではないかと思うんです」 「その犯人というのは」 「妻を拉致した人物です。犯人は、わたしと沙帆ちゃんとが親しい関係にあると知り、沙帆ちゃんに手を出したんだと思います」 「どうして……沙帆を巻き込むなんてこと……」 「犯人の目的は、わたしを苦しめることなんです」  雄大は拳を握りしめた。 「金じゃないんだ。わたしが苦しむことならなんでもいいんです。妻でも沙帆ちゃんでも。妻のことでさんざわたしをなぶってから、今度は沙帆ちゃんを持ち出すつもりだったんじゃないかと思います」  洋子は、ゆっくりと頭を振った。 「それでは、沙帆はとばっちりを受けたんですね。その犯人とやらと草薙さんの憎み合いの。その犯人っていったい誰なんです? 心当たりがあるわけでしょう、草薙さん! こんなこと……とても承服できません。心当たりがあるなら、どうしてさっさと犯人を逮捕して沙帆を連れ戻してくれないの、警察は!」 「主犯が誰かはわかっていませんが」  真壁は低い声で言った。 「皆川誠治とその姪の皆川恵理とが犯人側の人間であることは、間違いないと考えています」  洋子は一瞬、きょとん、とした顔をし、それから否定するように首を振った。 「そんなこと……信じられません。皆川さんとは特に親しかったわけではありませんが、とても評判の良い方でした。ご病気のお子さんを抱えてらっしゃるのに男手ひとつで頑張っておられて……」 「その息子さんが亡くなられたようなんです。息子さんが亡くなって、皆川の心根が変化してしまったのかも知れない。これはまだ憶測ですが、今度の事件は、草薙さんに対する逆恨みから起こした事件ではないかと考えられます」 「逆恨み……?」 「あなた方がお引っ越しになられてから、このマンションでちょっとした問題が持ち上がったんですよ。ペットの飼育についての問題です。結果から言えば皆川さんたちのようにペットを飼っていた人たちは、ペットを始末するかマンションを出て行くかしなくてはならなくなった。そして草薙さんは、その結果を招いた責任があると逆恨みされているようなんです。しかしまだ犯人がそうと認めたわけではないので決めつけることは出来ませんがね。たぶん、今夜にでもその点ははっきりするでしょう。ところで、沙帆さんは皆川と面識は?」 「ありますけれど……ここを出てもう六年以上になりますから、沙帆は当時まだ小学生でしたし、皆川さんが憶えておられるかどうか」 「伏見さんはすぐに沙帆ちゃんだとわかったようです」  雄大は言った。 「伏見さんがわかったわけですから、皆川さんにわかってもおかしくないですよね」 「でもそれなら、皆川さんが沙帆を誘拐して、しかも携帯電話も満足にいじれないように縛ったりするなんて、とても考えられないわ! 皆川さんは、沙帆にはいつも優しくしてくれていたんです。たまに廊下で顔を合わせる程度でしたけれども、学校は楽しいかな、好きなお花は何かな、なんて……よく声をかけてくださって。本当に、何かの間違いです!」  洋子は激しく首を振った。 「マンションの誰に訊ねていただいてもわかると思いますわ。皆川さんのことを悪く言う人なんていないと思います」 「奥さん、人というのは変わるものです」  真壁は厳しい声で言った。 「特に、大きな不幸に見舞われた後などは、精神的に立ち直ることが出来ずに曲がった方向へと進んでしまう人間は珍しくはありません。悲しいことですが、それは現実なんです。わたしがこれまで逮捕してきた凶悪犯の中にも、妻や子供を理不尽な形で奪われたことが転落のきっかけになってしまった、という者は大勢いました」 「皆川さんはそんなに弱い人間ではなかったと思います」  洋子はそれでも言い張った。 「皆川さんのお子さんは大変な難病だとうかがったことがありました。そんな難病のお子さんと暮らしていらっしゃれば、お子さんの死についてはいつも真正面から考えていらしたはずです。お子さんが亡くなられたとしても、その死をしっかりと受け止める覚悟は出来ておられたと思います……」 「お母さん」  雄大は、洋子に向かって訊いた。 「ひとつ、できれば教えていただきたいことがあるんですが。プライバシーにかかわる問題なので、もちろん、お答えいただけなくても仕方ないと思います。でも沙帆ちゃんの言葉で確認しておきたいことがあるんです」 「……なんでしょうか」 「沙帆ちゃんの実のお父さんの血液型なんですが、何型ですか?」 「……は?」  洋子は何度も瞬きした。 「沙帆の父親の、血液型、ですか……O型ですけれど。うちは夫婦ともO型だったんです」 「やっぱり」  雄大は思わず天井を見た。 「沙帆ちゃんの勘違いだったんだ」 「あの、どういうことですか」 「沙帆ちゃんは、実のお父さんの血液型をAB型だと勘違いしているんです。お父さんが交通事故に遭われてお見舞いに行かれた時に、看護婦さんの持っていたカルテだか処置指示票だかにそう書かれていたのを見たそうです」 「そんな馬鹿な」  洋子は、力なく笑った。 「確かにあの人は、少し前に交通事故に遭いました。わたしも見舞いに行きましたし、沙帆も行ったと思います。離婚してからも沙帆はちょくちょく、父親に会いに行ってましたから。でもあの人の血液型は間違いなくO型ですよ。夫婦として連れ添っていたんですから、記憶違いなんてことはあり得ません。一緒に献血したこともありますし、あの人が会社で受けていた健康診断の結果はいつも見せてもらっていました。第一、沙帆はO型なんですよ、もしあの人がAB型なら、沙帆がO型のはずはないじゃありませんか」 「その通りです。だから沙帆ちゃんは」 「まさか!」  洋子は半分腰を浮かせた。 「まさか、あの子はそれで勘違いして……それで学校にも行かなくなって……」  洋子は両手で顔を覆った。 「……そんな馬鹿なこと……どうしてそんな……。ちゃんと訊いてくれていたら、いくらでも証明してあげられたのに」 「沙帆ちゃんは、看護婦さんの持っていた紙を盗み見ただけですから、そこで誤解してしまったんでしょうね。おそらくは、たまたま同姓同名の患者さんが別の病室に入院していたとか、あるいは血液型の記載だというのが沙帆ちゃんの勘違いで、別の意味のABと書かれていたのか。しかし沙帆ちゃんは、自分の本当のお父さんがよそにいると思い込んでしまったわけです。でも、ただそれだけならば沙帆ちゃんは頭のいい子ですから、ちゃんとそれが真実なのかどうか確認を取ろうとしたと思います。そうすれば自分の勘違いだということはすぐわかった。なのに沙帆ちゃんは、血液型のことをきちんと調べもせずに自分の本当のお父さんは別の場所にいると思い込んだ。それには理由があったんです」 「理由って、なんですか! あの子の父親は、青桐です。疑われるんでしたらDNA鑑定でもなんでもしてもらって結構ですわ!」 「すみません」  雄大はいきり立ってしまった洋子をなだめるように、洋子の腕に掌を置いた。 「まわりくどい言い方をしてしまいました。実は、沙帆ちゃんに、本当のお父さんは別な場所……このマンションにいる、と教えた人物がいるんですよ。これも沙帆ちゃんから聞いたことなんですが」 「な」  洋子は呆然とした顔で言った。 「なんですって……誰が、誰がそんなことを沙帆に……」 「誰なのかまでは沙帆ちゃんは教えてくれませんでした。でも沙帆ちゃんは、ご両親の離婚原因についてはお母さんから説明されていたと。だから……自分はお母さんの恋人との間に出来た子だと思い込んだようなんです。と言うより、そう沙帆ちゃんに吹き込んだ人物がいたんです」 「……その人物って……このマンションに住んでいるとあの子は言ってましたか」 「さあ、そこまでは」  洋子が不意に立ち上がった。 「わたしと青桐の離婚理由については、確かに一部はあの子に話した通りです。でも話せなかったこともあります。おわかりいただきたいのですが、あの子はまだ精神的に完全に大人というわけではありません。何もかも包み隠さず話してしまうことがベストだとは思えませんでした。あの子が受け止められる範囲のことからはじめて、いずれはすべて説明するつもりではおりましたけれど。ですが、あの子は間違いなく青桐の娘です」  洋子の拳は固く握られ、小さく震えていた。 「わたし……ちょっと失礼いたします。所用を思い出しましたので」  洋子があまりにも素早く行動したので、真壁でさえがその動きについて行けなかった。洋子は玄関に飛びつくようにしてあっという間に部屋を出て行ってしまった。 「追えっ!」  真壁が叫んだ。 「誰かあの女について行くんだ! 連れ戻さなくてもいいから、余計なことを言いふらさないように見張れ! ついて行って、あの女がどこに行くか確かめろ!」  女性刑事が飛び出して行った。雄大はどうしていいかわからず立ったままでいた。 「あの女、何か知ってやがる!」  真壁が怒鳴った。 「心当たりがあるんだ!」  その時、電話が鳴った。      3  雄大の背中にどっと冷たい汗が噴き出した。真壁が頷く。雄大は、震える指先を押し付けるようにして受話器をとった。 「……もしもし?」 「たっぷり休めたか? さてゲーム再開だ」  昨日と同じ声だった。ボイスチェンジャーで変声させたらしい、無気味な声。  真壁が合図する。室内はしんと静まりかえり、張り詰めた緊張が走った。 「要領はもうわかってるな。携帯を持って車で待機しろ」 「皆川さん!」  雄大は思わず叫んだ。 「あなた、皆川誠治さんですね!」  電話は切れていた。  雄大は絶望的になって頭を振った。 「真壁さん……あいつは本当に皆川誠治なんでしょうか。もし違っていたら、我々はどうしたら……」 「気をしっかり持つんだ、草薙さん」  真壁が雄大の肩を掴んで揺さぶった。 「ともかく連絡があったということは、まだあなたの奥さんは無事かも知れないんだ。今がいちばん大事です!」  雄大は頷き、携帯を掴んで玄関に向かった。 「今日はまず、関越に乗ってもらおう」  電話の声が言った。 「所沢インターまでの行き方は知ってるな」 「知ってます」 「では関越に乗って新潟方向を目指せ。また指示をする」 「あなたが皆川さんだってことはわかってます! もうこんなゲームはやめて話し合いませんか!」  雄大はインターカムに向かって怒鳴った。 「余計な話をするつもりはないんだ」  相手は笑った。 「携帯のアクセスポイントも逆探知はできるからな。しかし番号から持ち主を割り出すのは無駄な努力だと警察に伝えておけ。今かけている携帯も昨日使ったものも、ウラから買ったプリペイドだ」  電話はまた切れた。雄大は指示通りに所沢インターを目指した。 「関越道全線に緊急配備を敷くよう埼玉県警、群馬県警、新潟県警に要請した」  無線から真壁の声が聞こえた。 「高速道路にいる間は電波状態も良好なはずだから、会話は出来るだけ引き延ばしてください」 「ブラックマーケットから買ったプリペイドだと言ってましたね」 「番号は?」  雄大は片手で携帯の着信履歴を見たが、非通知になっていた。 「プリペイドですから、いくつも持ってるんじゃないかと思います。電話の方からたどるのは難しいんじゃないかと」 「ともかく会話だ」  真壁が励ますように言った。 「皆川恵理が逃げたことで、犯人は自分の正体を掴まれたことは知っている。それでも連絡してきたということは、犯人も開き直って、いよいよ本当の目的を遂げようとしているということです。あと一息ですよ、草薙さん!」  本当の目的。  ハンドルを握る手が汗でじっとりと湿った。  犯人の「本当の目的」とはいったい、何なのだろう。  自分を苦しめるだけでは足りず、この上何をしようとするのだろう。  関越自動車道は渋滞というほどではなかったが、都心から郊外に出る車でそこそこ混んでいた。犯人の指示は、新潟方面。練馬へ行け、と言われたのなら、また猫の死体を集めさせられるのかと考えたところだが、新潟方面に向かうというのであれば確かに様子が違う。真壁の言う通り、いよいよ大詰めなのだ。  車線も多く走るには快適な高速道路だったが、首都圏から新潟方面に向かう車はいつもかなり多い。雄大は、犯人の指示がどう出てもいいように真ん中の車線を走りながら、携帯の呼び出しが鳴るのをじっと待った。  川越、鶴ヶ島とインターを過ぎても犯人からの電話はなかった。雄大は焦りでハンドルをきつく握り締め過ぎ、指に痛みを感じていた。真壁も焦れて、何度も連絡してくる。だが車内には集音マイクも取り付けられていたし、後部座席には捜査員がひとり、外から見えないように座席の下に寝転がってシートを被っている。雄大が警察に内緒で犯人と取引きすることなどは不可能なのだ。  東松山を過ぎ、花園インターまで二キロの表示が出たところで遂に電話が鳴った。 「皆川さん!」  雄大は叫んだ。 「どうすればいい、どこに行けばいいんだ!」 「そんなに焦らなくていい。まだしばらくそのまま走ってもらおう。それよりひとつ気になることがあるんで訂正させてもらうが、わたしは皆川という名前ではないよ、草薙さん」  雄大は、一瞬、眩暈を感じた。だが唇を噛んで叫んだ。 「ごまかしてもだめですよ、皆川さん。あなたが犯人だということはもうわかっているんです。あなたの姪が妻が誘拐されたとわたしに言い、丸二日、わたしにくっついて離れなかった。さらに、あなたはわたしの妻と池袋で親しげに歩いていた。妻とあなたは顔見知りだ」  犯人は笑った。耳障りな、雄大を嘲《あざけ》る笑い方だった。 「つまり、あんたの奥さんは皆川さんと浮気をしていたということか。これは面白い。しかし動機は? 皆川さんは温厚な人だ、あの人がここまでやるとしたら、よほどあんたを憎んでいなければならないと思うよ。奥さんを寝取ったというなら、あなたを憎むのは筋違いだろ?」  この男は本当に皆川ではないのか?  いや……捜査を攪乱《かくらん》しようとしているだけだ。その証拠に、こいつは俺が動機に気づいたかどうか知りたがっている。 「動機は、ペット飼育に関する住民規約改正の問題だ。わたしが総会に出ず、規約改正賛成派の自治会長に委任状を渡したことで、あなたはわたしを憎んでいた。もしわたしがちゃんと出席して反対票を投じていれば、住民規約は改正されずに済んだからだ」  数秒間、沈黙があった。それから、犯人はふふっ、と笑った。 「ようやく気がついたな、草薙さん。こんなことまでしないと気づいて貰えなかったのが、なんとも残念だよ」 「やっぱり皆川さんなんですね! 皆川さん、わたしは……」 「いや、わたしは皆川ではない。しかし動機のひとつはまさに、それだ。あの時、あんたたち夫婦は実に無責任だった。規約改正の会議にただの一度も出て来なかったばかりか、総会にまで欠席して何も考えずに自治会長に委任状を渡してしまった。もしあんたたちがペットの飼育に反対していたのなら、それはそれでやむを得なかっただろう。だが我々がゆるせなかったのは、あんたが規約が改正されてしまった後になって、可愛がっていたペットを親戚に預けなくてはならなくなって泣いていた内藤さんのところの由美ちゃんに、慰めの言葉などかけていたあの無神経さだ」 「内藤さんのところの、由美ちゃん……」 「あんたは他の住民のことにまったく無関心だったからな、憶えてはいないだろう。当時小学生だった女の子だよ。一緒にいた内藤さんの奥さんは、よっぽど罵倒してやろうと思ったが我慢した、と、後で悔し泣きしていたんだぞ。あんたは総会で何がどう決まったか、あんたの委任状がどんな意味を持っていたかまったく気にしていなかったんだ。腹を立てた連中が何人か、あんたのところに電話をしたが、あんたたちはそれでもたいして気にしているふうではなかった。まったく無責任で、そして冷血な夫婦だとみんな呆れたんだよ」 「勘違いだったんです」  雄大は、振り絞るような声で言った。 「我々の勘違いだったんだ! 住民規約では最初からペット飼育が禁止されていると思い込んでいたんです。だから規約改正の方が飼育賛成で、規約改正反対の方が、ペット飼育反対なのだと思っていたんだ……」 「言い訳になどならない」  犯人の声は冷たかった。 「ただ一度でも会議に出ていれば、勘違いしていたことなどわかったはずだ。ペットを飼育していた我々がどんな気持ちでいたか、ペットというのは家族そのものなんだ、それを簡単に他人にくれてやったり、ましてや殺すことなどできると思うか。それを強制的にさせられることになった我々の悲しさ、悔しさが、ペットを飼っていない人間になどわかるわけがない!」  本庄児玉を過ぎていた。このまま前橋から新潟に向かわせるつもりなのか、それとも長野方面に折れるのか。関越道は藤岡ジャンクションで上信越自動車道と分岐する。 「しかし草薙さん、あんたの罪はそれだけではないよ」  犯人はまた笑った。 「それはともかく、標識が気になるだろう? あんたの心配通りだよ。藤岡から上信越に入ってもらう。準備をしておけ」  電話はまた切れた。すぐに無線が怒鳴った。 「犯人があのマンションの関係者であることは確定したな。草薙さん、もう少しの辛抱です。今、自治会長の竹下さんにもう一度、改正反対派の現住所を調べてもらってます。長野県警にもすぐ応援を要請します」 「真壁さん」 「なんです」 「犯人は……この道路を一緒に走ってるんじゃないかと思うんですが」 「なんだって? どうしてそう思うんですか!」 「今、わたしは藤岡ジャンクションで分岐があるのを標識で確認して、車の位置どりをどうすればいいのか、迷って何度か後続車をミラーで確認したんですよ。犯人はそれに気づいた。つまり、わたしの様子が犯人から見えているんじゃないかと思ったんです。しかしもうあたりは真っ暗で、遠くから望遠鏡など使ったのではわたしがサイドミラーを気にしている様子までわかるはずがない。犯人はついさっき、わたしの車を追い越したんです、たぶん。それでわたしの様子を見ていたんだ」 「よし!」  真壁が元気よく叫んだ。 「それならこっちのもんだ! すでに関越道全線に非常警戒態勢が敷かれ、各インターの出口付近では検問を実施しています。犯人は袋の鼠だ!」 「でもあなたたちは、犯人を捕まえられない。鮎美の無事が確認できるまでは、迂闊《うかつ》に犯人に手を出したりしないでほしい」 「我々はプロだ」  真壁は厳しい口調で言った。 「信用してもらう他はない」  雄大は唇を噛んだ。犯人はもう、自分の正体を隠すつもりもないし、それどころか、逮捕されても構わないと思っている。そして真壁たち警察は所詮、犯人の逮捕の方が鮎美の無事よりも重要だと考えているのかも知れない……そうは思いたくないけれど。  藤岡ジャンクションから上信越自動車道に入ると、車の数がぐっと少なくなった。ついスピードが出そうになるのを堪えながら、雄大は慎重に運転した。いつ犯人の指示で高速を降りることになるかわからない。雄大の車の付近には、警察車両ではないかと思われる車が数台、距離をあけてずっと並走している。 「検問にはまだ犯人らしい人物はひっかかっていない」  真壁の声は、かなり苛立っていた。 「サービスエリアもひとつずつあたっているが、皆川誠治は発見出来ていません」 「真壁さん、犯人は、自分は皆川ではないとはっきり言った」 「目くらましということはありますからね。もちろん、手に入る限りの規約改正反対派の人たちの写真をコピーして捜査員には持たせてあります。今現在あのマンションにいる反対派の人たちには全家族、捜査員をつけました。外出していて居場所が掴めていない人たちがまだ数人いますが、すぐに捕まえられるでしょう。転居した反対派にもそれぞれ捜査員を派遣し、居所の確認を進めています。それが終われば、我々が相手をしている犯人が誰なのか、おのずと明らかになる」 「沙帆ちゃんのお母さんはどうなりました?」 「駅前の公衆電話から誰かに電話したようですが、その後ずっと駅前の喫茶店にいますよ。待ち合わせで人と逢うのは間違いない。捜査員が張り付いてます。やはりあの母親には、娘がどこに監禁されているのか心当たりがありますね」 「囮《おとり》にするのは危険だ。犯人に気づかれたら……」 「沙帆という娘を拉致した犯人と、あなたの奥さんを誘拐した犯人が同一人物なら、もうとっくに何もかも気づいている。それでもあの子の母親に犯人が接触するのであれば、それには何か意味があるはずです。ともかく草薙さん、今は犯人との交渉のことだけ考えてください。奥さんは、我々がきっと保護します」  下仁田を過ぎた。  電話が鳴った。 「碓氷《うすい》軽井沢で高速を下りて、碓氷バイパスで軽井沢に上がれ。ただし軽井沢には向かわず、追分までそのまま十八号を走るんだ」 「地図がないんだ! こんなところに来るとは思っていなかった」 「ほとんど一本道だよ。標識を見落とさないことだな。おっと、ただし、碓氷軽井沢のインターでは検問を解除するよう警察の連中に言っておけ。ま、どうせこの通話を盗み聞きしてるんだろうけどな。いいか、検問が実施されていれば、以後の指示は出さない。そしてあんたは永遠に奥さんには会えなくなる。わかったな」  雄大はそっと窓の外を見た。犯人はやはり、この高速を一緒に走っているのだ。  雄大の車を追い越して、白い乗用車がスピードをあげた。さらにその後ろからもう一台、紺色の車。  どこだ……どこにいる? 「草薙さん」  無線機から真壁の声が聞こえた。 「後続の捜査員が確認した。前方斜め右、追い越し車線にいる練馬ナンバーの白いレガシィ。運転席の女が、犯人から連絡が入っていた同じ時間、ずっとインカムで喋っていた」 「女、ですか!」 「サングラスをかけているので顔は確認出来ないが、女に間違いはないようだ。ボイスチェンジャーを口に装着してるんだな。ナンバーは今、陸運局に照会してる。たぶん、犯人に間違いないでしょう。犯人の要求通り検問は解除し、捜査員がこのまま追走します。あなたは犯人に言われた通りに走ってください」  承知するしかなかった。雄大にはもう他にどんな道も残されていない。ただ犯人と共にこの道を走って、そして犯人が自分に見せようとしている何かを見る以外に、どんな道も。  碓氷軽井沢の出口が見えた。雄大はハンドルを握りかえて小さく深呼吸した。問題の白いレガシィはずっと前方にいるらしい。雄大の車の周囲はもう、警察関係らしい車ばかりになっている。  料金所を過ぎて一般道に入った。検問はない。標識に従って碓氷バイパスを目指す。軽井沢に上がるには他にも道があるが、犯人の指示通りに走ることが大切だった。 「レガシィも碓氷バイパスに向かっている」  真壁の声。 「ナンバーの確認が取れましたが、盗難車でした。練馬区の会社員から三日前に盗難届けが出ています」  雄大は驚かなかった。それに失望しなかった。もはや、犯人は自分が逮捕されることを恐れてはいない。警察の車に取り囲まれていることは知った上で、雄大をどこかに連れて行こうとしているのだ。  碓氷バイパスは前にも走ったことがあった。鮎美と付き合っていた頃、何度か軽井沢にドライヴした時だった。だが今はもう夜、周囲の景色はまったく見えず、思い出の中の道の面影はまったくない。  バイパスを上り切ると軽井沢駅の南に出る。雄大は指示通り、そのまま前進して追分を目指した。  電話が鳴った。 「わたしがどこにいるかはもう、知っているな?」  犯人は言った。 「この先は仲良く一緒に行こう。追分の信号の先、二本目を北に入る。別荘地の中だ。わたしの車についてくればいい」  前方に、白いレガシィが、路肩に停車してハザードを点けていた。その車がウインカーを出して発進し、雄大の車の前に入った。 「警察が鬱陶しいな」  犯人は笑った。 「しかし、もう間もなくのことだ。我慢するとしよう。さてひとつ、感想を聞きたい。ゆうべ猫の死体をあれだけ集めて、あんたはどう思った? 何を感じた?」 「あの猫は全部、交通事故に遭ったものですね」 「そうだ。毎晩毎晩、実にたくさんの猫が交通事故で死ぬもんだな。わたしはあれらの猫をあんたに弔わせる必要があると思った。さっきの話に出た内藤さんのお嬢さんが飼っていた猫は、親戚の家に預けられて三日目に家出し、マンションの近くの路上で車にひかれて死んだんだ。たぶん、懐かしい我が家に戻ろうとしていたんだな。それだけじゃない、あんたがさっきから犯人と間違えていた皆川さんには病気のお子さんがいたのは知っているんだろう? そのお子さんが唯一の親友にしていた猫も、やはり交通事故で死んだんだ。マンションで飼われていて自動車の恐さを知らない猫が、急に外を出歩くようになれば、どうしたって事故に遭う確率は高い。外に出した飼い主の責任だと、あんたは言うか? マンションを追い出されさえしなければ、どっちの猫ももっと長生きしたとは思わないか? 猫だけじゃない……皆川さんのところの子供さんだって、猫が生きていれば、生きる気力をもう少し持ち続けられたかも知れない。こんなことを言っても、あんたにはただの言い掛かりにしか聞こえないかな」  雄大には何も言えなかった。何も言う資格がない、と思った。 「だが、考えてみてくれ、あんたの罪は大きいとは思わないか? あんたたち夫婦は、社会の中で生きていくのに必要な最低限の義務を怠ったんだ。何が共稼ぎの高給とりだ、何がディンクスだ! 自分たちさえ金を稼いで優雅に生活ができればそれでいいのか? あんたたちはゴミの収集日に、誰が廊下を掃除しているか知っているか? 収集場所の掃除は管理人がするが、ゴミの日には朝、廊下がひどく汚れることなどあんたは知らないだろう。あんたの住んでいる階の廊下は、誰が掃いている? もちろん、共同区域の清掃は、管理費の中から雇っている美装会社の清掃作業員がするのが規則にはなっている。だが彼らは午後にならないとやって来ない。朝から廊下に落ちている生ゴミは、午後までほうっておけば悪臭を放つ。さあ、それを掃いているのはどこの誰だ? 教えてやろう。あんたが馬鹿にしている専業主婦たちなんだよ、草薙さん。あんたたちの住む階のね。雨が降るとマンションのエントランスに外から水が流れ込んで水たまりをつくるのはあんたも知っているだろう。だがあんたたちは一度だって、管理人を手伝ってそれを拭いたことがあるか? 住人の中の何人かが、自発的にモップを持って管理人を手伝っていることを、あんたは知っていたかい?」  雄大は答えることが出来なかった。何も知らなかったのだ。 「あんたたち夫婦には言い訳があったろう。我々は外で働いているんです。忙しいんです。なるほど! だがそんなことが、他の住人に何の関係がある? 勘違いしてもらっちゃ困るよ、草薙さん。あんたたちが仕事で忙しいのは、それはあんたたちの勝手な事情なんだ。あんたたち夫婦がふたりで出版社だかメーカーだかに勤めて高い給料を稼いだって、それで他の誰が得をするわけでもないんだからな。それなのに、あんたたち、共稼ぎの高給とり夫婦の考えはいつだってこうだ。俺たちはたくさん税金を払っている、遊んで楽をしている専業主婦連中の分まで税金をおさめてやっているんだぞ! だからそんなくだらないことはやってられないんだよ! そんなくだらないこと! 自治会の総会に出ることも廊下を掃くことも、みんなくだらないことなんだ、あんたらの頭の中ではな。あんたらはわかってない。自分たちがしなければならない社会に対する義務を弱い者に押し付けて、そうした弱い者たちの無償の労働の上にふんぞりかえって海外旅行をしたり高級車を乗り回したり、子供を私立の学校にやったり、それがあんたらの正体なんだ。わかるか? あんたらは、インテリの共稼ぎ夫婦っていう名前の特権階級で、それはつまり、新しい形の寄生虫なんだよ、この社会のな!」 「違う!」  雄大はたまらなくなって叫んだ。 「違うんです! 我々はただ、鈍感だっただけなんだ。他の人たちが無償の労働を提供してくれていると知っていたら、決してその上にふんぞりかえったりはしなかった。ただ毎日毎日仕事に追われて、マンションに戻るのは本当に寝る時だけで、マンションの中で何が起こっているのかに気がつく余裕もなかったんです……本当に、それが真相なんだ。我々は決して優雅な人生なんか楽しんでやしない。いったいどうしてこんなに働かなければならないのか自分でもわからないまま、ただがむしゃらに働いて、短い睡眠時間を泥のように眠る。その繰り返しだったんです。総会のこともその前の会議のこともそうなんだ。会社の決算だとか妻は雑誌の校了だとか、ともかくどうにもならないことが重なって、仕事を抜けることが出来なかった。わかってます、それは確かに我々の身勝手です。でも、でもね、なんと言われようと、会社に勤めている以上、どうしてもしなくてはいけない時というのはあるんですよ! 抜けられない時というのは、あるんだ……」  雄大は泣いていた。なぜそんなに悔しいのか自分でもわからなかったが、ともかく、胸が張り裂けそうなほど悔しかった。あれほど会社の為に働いて、こんなにも周囲から憎まれて、それで最後に行き着いたのは敗北だったのだ。いったい自分は何をしていたんだろう。何の為に働いていたんだろう。何の為に…… 「優雅なんかじゃない……ふんぞりかえってなんかいない……ただ奴隷みたいに働いて働いて……鈍感になって……でくのぼうになっていた、それだけなんだ。それだけなんだ……」 「道をはずさないように」  突然、女の声が聞こえた。ボイスチェンジャーをはずした女性の声。その声には聞き覚えがあった。 「曲がるわよ」  前方の車の真似をして雄大もウインカーを出した。 「言い分はたくさんあるでしょうけど」  女の声は、なぜか優しかった。 「いずれにしたって結果は自分で引き受けなければならないのよ、草薙さん。わたしたちがあなたをゆるせなかったのは、あなたがせっかく仕事を辞めたのに今度は酒びたりになって、昼間はパチンコで時間を潰して、それでもなお、わたしたちを馬鹿にし続けたことなの」 「あなたたちを……馬鹿にし続けた?」 「駅前の酒屋の自動販売機の前で、あなたお酒を飲みながら大声で言っていたのよ。自分では憶えていないでしょうけれど。俺は絶対に負けないぞぉ、畜生、このままだと俺は、あの馬鹿な主婦連中みたいに毎日くだらないテレビばっかり見て、噂話ばっかりする低能になっちまう、ってね」  雄大にはまったく記憶がなかった。本当に、憶えていなかった。 「酔っぱらいのたわごと。もちろんそうよね。酔った時には人間って、とんでもないことを言うものよ。でもね、酔った時に心の奥にしまってあった本心が、ぽろっと出ることだってあるんじゃないかしら? 少なくとも、かけらも考えていないことならば酔った時にだって口をついては出ない。そう思うのよ。さあ着いたわ」  レガシィは停まった。前方に、小さな貸別荘があった。  突然、無線が叫んだ。 「草薙さん、あの沙帆って子が無事、保護された! なんとマンションの中にいたんだ。あの小松という夫婦の部屋に……」  雄大は聞いていなかった。レガシィのドアが開く。  雄大も車の外に出た。  ほっそりとした女性の後ろ姿の後を、貸別荘に向かって一歩ずつ歩いて行く。そのシルエットにも見覚えがあった。  小松夫人。  警察の車が狭い私道に詰めかけて次々と停止する。その車のドアがばたばたと開いても、小松夫人は動じなかった。  小松夫人が貸別荘の呼び鈴を押した。  ドアが開いた。  雄大は、驚愕で思わず、後じさりした。  顔を出したのは、饗庭景子だった。 [#改ページ]    試練を越えて      1 「……景子」  雄大は、やっと声を出した。それだけ言うともう膝から力が抜けて、その場にへたり込んでしまいそうだった。 「中に入って」  景子は穏やかな声で言った。それから、ドアの外に向かって叫んだ。 「わたしたちは逃げるつもりはありません! でも、後少しだけ時間をください。ご迷惑をおかけしてすみません。ご心配でしたら、責任者の方だけ中にお入りいただいてもけっこうです」  雄大は振り返った。遠巻きにして人垣をつくっていた警察官たちの間に、K署の二人の刑事がいるのが見えた。応援に出されているのかそれとも、あの暴行事件と今度の誘拐事件は同じ犯人だと踏んで参加しているのか。いずれにしても、雄大には彼らしか頼る者はいないように感じられた。 「須原さん、高村さん!」  雄大は呼んだ。 「お願いです。中に入っていただけませんか!」  縄張りだとか指揮系統だとか、こむずかしいことがいろいろあるのだろう。警察官たちは何やらやり取りをはじめたが、なかなか動こうとしなかった。雄大は焦《じ》れた。 「早くしてくれ! 妻がどうなってもいいのか!」  遂に、人垣の中から須原ともうひとり、知らない刑事が歩き出して雄大のそばに来た。 「捜査一課特殊班の村木です」  知らない刑事が小声で言った。 「みなさん、どうぞ中へ」  景子がからだを斜めにして道をあけた。小松夫人を先頭に、雄大も刑事たちも別荘の中へと入った。  ログハウス風の内装にアーリーアメリカン調の家具やカーテンなどがよくマッチしている、雑誌のグラビアになりそうな室内だった。キッチンまでオープンになった広いリビングダイニングだ。だが、その部屋のどこにも鮎美の姿はなかった。 「鮎美は!」  雄大は景子の腕を掴んだ。 「鮎美はどこなんだ! ともかくまず、彼女に逢わせてくれ!」 「奥様は奥の寝室です」  景子が、顎の先だけで部屋の奥を示した。そこにドアがあった。雄大は、村木が制止しようとするのを振り払ってそのドア目指して突進した。 「鮎美!」  開けたドアの向こうに、ベッドに腰掛けた鮎美がいた。  言葉が出なかった。涙で目の前が白くなった。  雄大は飛びかかるように鮎美に抱きついた。  いつもの、よく知っている匂いがした。鮎美の匂いだった。間違いなく、決して幻ではない、妻の匂いだった。 「雄ちゃん」  鮎美の声が、抱きしめた背中で囁いた。 「心配かけて……ごめんね」  雄大は何か言おうとしたが、涙で詰まって言葉が出なかった。無事で良かった、そう囁こうとしたのに、喉がぐぐ、と鳴っただけだった。  そのまま、抱き合ったままで、鮎美が啜り泣くのを雄大は聞いていた。自分も泣いているのだと気づくのに時間がかかったほど、ただ、鮎美の感触が、存在が、嬉しかった。  鮎美に満足してもらえるものではなかったにしても、どんなに不完全だったとしても、自分が鮎美を愛している気持ちだけは本物なのだ、と、雄大はあらためて感じていた。  長い、長い夜を越えて、雄大は今やっと、自分の腕の中にその愛を取り戻せたことに安らいでいた、鮎美という女性の中を、全身の力を抜いて漂っていた。  幸せだった。  ひたすらに、幸せだった。 「どこも、痛くない?」  永遠に続くかと思ったほど長い抱擁の後で、雄大はそっと訊いた。 「ぜんぜん」  涙声のままで、鮎美が答えた。 「お出かけは出来なかったけれど、快適だったの。ほんとよ。みんな優しかった」 「それは、よかった」  また涙で声が出せなくなった。  景子が入って来た。その後ろに小松夫人、そして皆川恵理が続いていた。三人が入ると、景子はドアに鍵をかけた。  ドアが激しく叩かれ、刑事二人の怒号が聞こえた。 「草薙さん」  景子が言った。 「刑事さんたちに、鮎美さんは無事だと伝えてください」  雄大はドア越しに大声で言った。 「すみません、心配いりません! 妻は無事です!」 「だったらここを開けてください!」  須原が怒鳴っていた。 「我々を同席させてくれるということだったんじゃないんですか!」 「奥様が無事に保護されたとたん、外の警官がなだれ込んでしまうでしょう」  景子は肩をすくめて笑った。 「あたしたちの話を草薙さんに聞いてもらう時間がほしいの。十分もかからないわ」  雄大は頷いた。 「わたしを信用してください!」  雄大は叫んだ。 「十分だけ時間が欲しいと、彼女たちが言ってるんです。わたしもその時間が欲しい。彼女たちの言葉を聞きたい!」  須原はそれでも不満そうに何か言っていたが、雄大はもう答えなかった。どちらにしても、警察官が別荘の中に入り込んで来るのは防ぎようがない。 「早く、話を聞いてしまおう」  雄大は景子を促した。 「君の……あなたたちの言いたいことを、僕はちゃんと聞くつもりだ」 「きっかけは、ほんとの偶然だったのよ」  景子は、立ったままで目を閉じて話し始めた。 「恵理さんと友達になった。すべてはそこから始まったの……今のアパートに越して来て、日曜日に近くの図書館に行ったの。離婚してまともな仕事もなくて、生活がきつきつだったから好きな本もろくに買えない。映画一本見るにも勇気が必要。図書館に行くぐらいしか娯楽ってないじゃない。そこで、恵理さんと知り合ったの。あたしが探していた本を見つけてくれたのが縁。もちろん、お互いにまったく接点はないと思っていた。まさかあなたと奥様とをそれぞれが知ってたなんてね、思ってもみなかった。恵理さんとはいい友達になって、たまに飲みに行ったりして、いろんな話をしたの。恵理さんからは、あなたの奥様の話がよく出ていたのよ。尊敬できる先輩だって。でも高嶋って名前だったから、あなたの奥様だなんてまるっきり気づかなかった」 「わたしも気づいていなかったんです」  恵理が、溜息を吐き出してから言った。 「高嶋さんのご主人が……草薙さんだなんて……高嶋さんの戸籍上の名前が草薙だというのは知識としては知っていたんですけど、ふだんまったく使うことがないので意識の中にはなくて。まさか……あの草薙さんだったなんて」 「今から、二カ月と少し前。あたし、新宿で偶然、井川さんと会ったの。井川公恵さん、憶えてる?」  井川公恵は、会社の同僚で後輩、総務部に勤務する女性だった。雄大と反目し合っていた上司、坂田と関係を持っているという噂のあった女性で、雄大は彼女のことがあまり好きではなかった。 「……知っているけど」 「彼女からあなたが会社を辞めたって聞いたのよ。あたし、とても驚いた。あなたは何を犠牲にしても会社の中で出世することを選ぶ、そんな人だと思っていたから」  雄大は景子の顔を見た。景子は、慈愛と呼んでもいいほど穏やかな顔をしていた。 「あなたにとっては、長い人生の中でちょっとした楽しい思い出、だったんでしょう。あたしもそれでいいと思っていた。だから、あなたを憎いと思ったことはないのよ。あなたは女のことなんかでしくじって出世をフイにするような人じゃない。あたしがいくら騒いでもじたばたしても、離婚なんて絶対にしてはくれないだろうし、それで傷つくのはあたしの方だってわかっていたから。あたしも卑怯だったの。傷つきたくはなかった。醜く泣いたり騒いだりしたくはなかった。だから……そんなに乗り気な結婚話でもなかったけれど、あなたのことを思い切る為に結婚することにしたの。その報いはちゃんと受けることになったけれど」  雄大は、鮎美を見た。鮎美は目を伏せていたが、とても静かだった。 「だから、あなたとのことはもうあたしにとっても、終わったこと、だった。それなのに……井川さんはわたしとあなたのことを知っていた」 「井川公恵が?」  雄大は驚いた。 「どうして……どうして彼女が……」 「あなたが喋ったのよ」  景子の口調が、少しだけ強くなった。 「彼女はそう言ったわ。一緒にお酒を飲んだ時に、あなたが自慢していたって。饗庭景子は俺に惚れていたけど、俺を忘れる為に泣く泣く嫁に行ったんだ、そう言っていたって」 「嘘だ!」  雄大は叫んだ。 「俺は……井川さんと酒を飲むような仲じゃなかった。君のことは誰にも言っていないし、ましてや彼女に言うなんてそんなこと、あり得ない! 君だって知ってるだろう。彼女は坂田の愛人じゃないかって噂があって、そんな女性に弱味を握られるような真似をなんでわざわざ……」 「ほら」  景子は、笑った。 「言った。弱味を握られる? あたしとのことはあなたにとって、なかったことにしてしまいたい、弱味だったのね」 「あ……」  雄大は首を振った。 「いや、そういう意味じゃなくて……」 「そういう意味、なのよ」  景子の口調がまた穏やかになった。 「わかっているの。あなたが彼女に喋ったんじゃないことは、後になって考えてみてわかったわ。でも彼女が知っていたことは事実だった。それはなぜ? それは……彼女が、あるいは坂田さんがかも知れないけれど、あなたのことを調べていたからよ。そして井川さんはおそらく、あたしに話したようなことを会社中にばらまいていた。権力闘争。彼女も可哀想な女性よね。坂田さんの敵であるあなたを陥れようと必死だったのね。でも……でもどうしてあたしがそれに巻き込まれなければならないの?」  景子が、不意に顔を覆った。 「……あたし……たまらなかった。悔しくて……あたしはあなたのこと、好きでした。本当は……ずっと前から好きだったの。片思いだった。でもあなたは愛妻家だと評判だったし、人のものを横取りするつもりなんてなかったから……。あなたに嫌われたり、鬱陶しいと思われないで、きれいな思い出として胸にしまってもらえるように別れたい。そればかり考えて。どれだけ苦しかったか……幾晩、朝まで泣いて、むくんだ顔を冷やしてから会社に行ったことがあったか……なのに……あたしのそんな悲しみも苦しさも、あなたたち男にとっては、最後にはただの、弱味なのよ。間違い、なのよ。なかったことにしてしまいたい、汚点なのよ!」  顔を覆ったままで、景子が深呼吸した。 「あなたのこと、憎いと、初めて思った。ごめんなさい……たぶん、これは八つ当たりなのよね。あたしが憎んでいるのはあなたそのものじゃなくて、女の、好きだって気持ちすら道具のように扱って、弱味だの武器だの、会社なんてちっぽけな組織の中でひとつ上に行くとかどうとか、くだらないことの為にずたずたにして汚してしまえる、そんな、男性全部なんだと思う。わかってるの。あなたが直接あたしをいためつけたわけじゃない。でもね、あなたと坂田さんとがつまらない権力争いなんてしていなければ、少なくともあたしがあなたを好きだったという純粋な気持ちまで、あたしのいないところでみんなの笑いのタネにされたりしなくて済んだはずでしょう」 「ちょうど、景子さんがそんな思いをしている時に、わたしが小松さんと偶然、お会いしたんです」  啜り泣いている景子の代わりに、恵理が口を開いた。 「叔父があのマンションに住んでいた頃、わたしはたまに、甥に会いに行ってました。小松さんの奥さんは甥のことをとても可愛がってくださっていて、それでわたしも仲良くしていただいていたんです。でも叔父が転居してからは、甥の葬儀の時にお会いしたきりだったんですけど」 「渋谷でお買い物をしていた時だったわね」  小松夫人が言った。 「その前の晩に、わたし、草薙さんが自動販売機のところで酔って騒いでいるのを目撃して、本当に腹を立てていたの。もう悔しくて悔しくて……草薙さん、あなたには説明してもわかって貰えないかも知れない。でもね、家にいて家事をしているだけの女にだって、悩みや苦しみはあるのよ。呑気に昼寝してワイドショーを見ているだけ、何も考えていない低能だってあなたたちは思ってるんでしょうけれど、わたしたちだって人間なんですもの、辛いことは山のように、あるのよ」  小松夫人の声もくぐもっていた。 「夫は知っての通りもう高齢で……こんなことは誰にも言えないけど、アルツハイマーの初期だと診断されているんです。今はまだ普通に話もできるし、生活も何とかなるけれど、これから少しずつ症状が進めば……。そして息子は、対人恐怖症でまともに社会に出て働くことも出来ない。最近になってようやく認知されて来た、引きこもり、という、あれよ。見た目のせいでみんな誤解しているみたいだけれど、息子はわたしが二十二歳の時に産んだ実の子なんです。今の夫とは再婚だけれど、息子と夫との関係はそれなりにうまくいっていたんです、息子が小学生の頃は。でも息子が中学に通うようになってから……いろんなことがどんどん悪くなって、わたし、もう死んだ方が楽かも知れない、と何度も思ったわ。草薙さん、あなたにわかる? 高齢で近い将来ボケ老人になってしまうとわかっている夫と、二十歳を過ぎても家からろくに出られず、仕事も出来ない息子とを抱えて、いったいどうやってこの先生きていけばいいのか、不安で不安でたまらない女の気持ち。それなのにあなたは、そんなわたしも含めて、毎日いろんな悩みや苦しみと闘っている女をみんなまとめて低能だと片付けたのよ。役立たずだと! ただ世間に出てお金を稼いでいない、それだけの理由で!」  小松夫人は肩で息をしながらしばらく黙り込んだ。感情の波を抑えているのが雄大にも伝わってきた。雄大はただ、頭を垂れていることしか出来なかった。  言い訳は星の数ほどあった。酔っぱらった時に自分がそんなことを口走ったのが事実だとしても、家にいる女性のすべてが低能だなどと本気で思っているわけはない。悩みや苦しみのない人生など、小学生の子供にだってあり得ないのだ。そんなことはわかっていた。ただ雄大は、徹夜で仕事をした後くたくたになって朝帰りした鮎美のことを遊び歩いているかのように噂したり、雄大が通りかかるとにこにこしながら頭を下げるくせに、通り過ぎるとその背中に冷笑をあびせてまた噂話に尾ひれをつける、あの、主婦たちの立ち話を鬱陶しいと思っていただけなのだ。それもある種の八つ当たりだった。自分は寝るために帰ることしか出来ないマンションに、平日の日中もいて、好きなように時間をつかっているように見える人々への嫉妬。本音はただ、自分も休みたかったのだ。そうやって立ち話に興じられるだけの自由な時間すらない自分自身に苛ついていただけだったのだ……  それでも、それはやはり、ただの言い訳だった。自分の言動がこうして現実に人を傷つけてしまったことに、雄大は激しいショックを受けていた。 「小松さんと話をしていて、わたしもゆるせないと思いました。叔父たちがマンションを出ることになったのは草薙さんたちが総会に出席しなかったことにも大きな責任があると聞いていましたし。小松さんと話をした夜、わたしは景子さんと夕食を食べたんです。そして草薙さんの話題になりました。最初は景子さんも、自分の知り合いのことを話しているなどとは思っていなくて、ただ憤慨していただけだったんですが、その人が最近失業したばかりの元エリートサラリーマンだという話になって、景子さんに草薙雄大さんのことだというのがわかったんです。景子さんも草薙さんに怒りを感じていた時で……ああ、でも……どうしてこんなことをしようなんて話になってしまったのか……」 「わたしが悪いんです」  小松夫人がきっぱりと言った。 「計画したのはわたしですから。ある時、交通事故で死んだ猫を見たんです。道路にへばりついて、何台かの車に轢《ひ》かれてぺちゃんこになっていました。とても可哀想で、なきがらを片付けてあげたいと思って、近くの交番に連絡したんです。車の通行量の多い通りでしたからひとりではどうにもならなくて。でもおまわりさんは、猫の死骸なら清掃局に連絡してくれと言って取り合ってくれず……結局、誰かが清掃局に連絡したんでしょうね、いつの間にかなきがらは片付いていましたけれど、もちろん弔ってなど貰えずにゴミと共に焼却されてしまったわけです。そのことがずっと頭から離れなくて……由美ちゃんの猫のことを思い出した時、せめて草薙さんに、由美ちゃんの猫の代わりに死んだ猫の弔いくらいさせてやりたい、そう思いました。どうすれば草薙さんにそんなことをさせられるだろう? いろいろ考えて、草薙さんが何より大切になさっている奥様を誘拐して脅迫したら、と思い付いて」 「誘拐、というアイデアを出してしまったのはわたしです!」  恵理が泣きながら言った。 「もちろん、高嶋さんをひどい目に遭わせるつもりなんてなかったんです。小松さんや景子さんと話をしている内に、話題になっている草薙さんが高嶋さんのご主人だということに気づいて、わたし、ものすごく驚きました。なぜなら高嶋さんは……」  恵理はその時、不思議な表情で鮎美を見た。鮎美が顔をあげた。鮎美は、泣いていた。ずっと。 「話してしまってかまわないわ、恵理ちゃん」  鮎美が囁くように言った。 「……わたしから話します。雄ちゃん、あたし」  今度は、鮎美が雄大の方を見た。ひどく悲しげな瞳だった。 「ごめんなさい……わたし……皆川誠治さんと……お付き合いしていたんです。うちの雑誌に、毎月ヒューマン・ドキュメントのシリーズを連載しているでしょう。重病を抱えたり、多くの苦難を乗り越えて生活している人たちと古典芸能とのかかわりを追いかけている、あのシリーズで、皆川さんに取材させていただいて知り合ったの。恵理ちゃんの紹介で。筋ジストロフィーの息子さんを男手ひとつで看病されながら、皆川さんは、津軽三味線の愛好会を主宰されて、ボランティアで老人医療施設などをまわって演奏会を開いていらっしゃったんです。息子さんが亡くなられてからは、チャリティコンサートを開いて募金を筋ジストロフィーの研究団体に寄付したり。取材でお会いしてわたし……皆川さんの人柄にすっかり惹かれてしまいました。それでコンサートに連れて行っていただいたり、一緒に福祉施設に出かけたり。でも……信じてください」  鮎美はまた目を伏せた。 「皆川さんの方はわたしのことを、親しい友人としか思っていないんです。お付き合いしている、と言っても、わたしの方が無理を言って付き合っていただいているだけなの」 「そんな人と出逢ったこと、話してくれなかったね」  雄大は、震える声で、やっと言った。 「同じマンションの住民だった人なのに」 「初めは知らなかったの。何度目だったかお会いした時に、あのマンションに住んでいらした人だとわかって驚いたわ。でもその時には……わたし、雄ちゃんに負い目を感じていたの」 「負い目?」 「だから……皆川さんに惹かれている自分を意識し始めていた。それでつい言いそびれている内に雄ちゃん、失業しちゃったでしょう、そんな時に、もし自分のほんとの気持ちを雄ちゃんに悟られたらって……」 「君は」  雄大は、鮎美に向かって、君、と発した自分の声の冷たさに驚いていた。 「だから、俺が酒に溺れてむちゃくちゃやってても、俺をゆるしたわけ?」 「違う……そうじゃないわ」  鮎美の声は震えていた。 「どうしたらいいのかわからなかったのよ、ここまで話しておいて信じてなんて言えないけど、でも、あたし、雄ちゃんのことが大事だったのも本当なの。心配だったのよ。でも、どうすればいいのか……だってあたしたち、結婚してからずっとそれぞれ別々に仕事してきて……会社でどんなことがあってもお互い、ひとりで乗り越えてきたでしょう? どうやって雄ちゃんに手を差し伸べたら雄ちゃんのプライドを傷つけないで済むのか、あたし、ほんとにわからなかったの。あたしたち……たぶん、本当の意味でお互いを必要としたことが、結婚してから一度もなかったんだと思う。夫婦なのに……いざっていう時に、あたし、何も出来ないんだってわかって……それなのに心の片方では皆川さんにどんどん惹かれる自分がいる。混乱していたの。自分で自分をどうすればいいのか、わからなくなっていたの」  愛し合い、理想的な生活をふたりで築いていたのだ、という錯覚。その錯覚に溺れていたのは自分だけではなかった。鮎美もまた同じだった。  結局、ふたりはただ、同じ部屋で寝起きしていただけのことだったのだ。ただの同居人。互いに相手の負担にならないように、と言い訳しながら、その実は、わずらわしいことを避けて好きなように生活したい、それが本音だったのかも知れない。 「叔父と高嶋さんのことを知っていたので、高嶋さんに辛い思いをさせなくても、誘拐の真似事ができるんじゃないか。わたし、そう考えたんです」  恵理が言った。 「叔父はとても真面目な人間ですから、そんな計画を手伝ってくれるわけはありません。でも叔父が誘えば、高嶋さんは叔父と一緒に少しの間東京を離れてくれる。それをうまく利用して誘拐に見せかけることが出来れば、一晩だけ草薙さんを思い通りに動かすことはできるかも知れない。わたしの発想はそんな単純なものだったんです」 「すぐにばれちゃってもいいと思ったの。要はちょっとの間、草薙さんを死ぬほど心配させて、猫の死体を片付けさせられればそれでよかったんだから。草薙さんに、わたしや景子さんの悔しさをわかって貰えればそれで鬱憤が晴れたんですもの」  小松夫人は肩をすくめた。 「ほんと……やっぱり八つ当たりだったのよね。草薙さん……ゆるしてもらえるとは思ってないけど……わたしも景子さんも、それだけ追い詰められてしまったのよ。あなたの言葉や、あなたの存在に。でもあなただけが悪かったんじゃない。たぶん……あなたは象徴だったんだと思う。わたしや景子さんを苦しめた人たちの象徴。あなたや奥様には本当に迷惑なことでした……ごめんなさい」  小松夫人は頭を下げた。雄大は、それでも言葉が返せなかった。ゆるすとかゆるさないとか、そこまで考えることも出来なかった。自分がそれほどまでに、二人の女性を深く傷つけていたという事実が重過ぎて、こめかみがガンガンと痛んでいた。 「叔父はこの時期、青森に出かけるんです、毎年。叔父の故郷なんですよ。津軽三味線の研鑽《けんさん》会のようなものが地元であるので、それに参加するためです。今もたぶん、青森にいると思います。わたし、叔父が高嶋さんを青森行きに誘うように仕向けました。実はわたし」  恵理は、一度言葉を切って鮎美の方をちらっと見た。 「……誤解していたんです。その……高嶋さんは叔父と……」  鮎美は何も言わなかった。  恵理は、苦笑いのような顔になって頷いた。 「ごめんなさい……そういう関係だとばかり思っていて。だから叔父に旅行に誘われても、高嶋さんは適当な嘘を草薙さんについて出かけるだろう。誘拐事件をでっち上げても、すぐには草薙さんから高嶋さんに連絡が取れないはず、そう思っていました。事実、叔父は一度承知したんです。それでてっきり、高嶋さんは叔父と一緒に、一昨夜から青森に行くものだと思い込んでいました。それでも念のため、会社で高嶋さんの携帯電話にわざとお茶をかけて壊し、草薙さんからは簡単に連絡がとれないようにしておきました」 「それで鮎美の携帯は繋がらなかったんだ」 「ええ……ところが……叔父は高嶋さんを誘っていなかったんです。わたしには誘うと言っていたのですが、やはり他人の奥様を誘うことに抵抗があったのか……叔父にしても、高嶋さんのことを嫌いだったはずはありません。本当は一緒に行きたかったんだと思います。わたしはそんなことを知らず、計画通りに草薙さんのお宅の留守電に伝言を残し、草薙さんから連絡があるのを待ちました。草薙さんから連絡が来てわたしの部屋に来ていただいた時に、おかしいな、と思ったんです。草薙さんから一言も、高嶋さんが旅行中だという言葉が出ない。叔父と青森に行くと本当のことは言えないとしても、一晩家を空けるわけですから、草薙さんに対して何らかの言い訳をしていったはずなのに、もしかしたら高嶋さんは草薙さんに泊まることも内緒にしているのだろうか。わたしは混乱してしまい、草薙さんが帰った後で小松さんに相談しました。携帯を壊してしまっているので高嶋さんに電話しても通じませんし、高嶋さんが青森に行かずに帰宅してしまえば、わたしのついた嘘だけが残ってしまいます。そうなると、次のチャンスを狙うことも出来なくなってしまう。小松さんの指示で叔父に連絡をつけようとしたのですが、叔父はふだんから携帯電話を持ち歩かないんです。宿泊先のホテルに連絡してみたものの、外出中で連絡もとれず……結局、小松さんが高嶋さんを探して、家に戻る前に足留めすることになったんです。マンションの前で待っていて、高嶋さんが戻って来たら何か理由をつけて中に入るのを引き延ばして、ともかく一晩だけ……」  小松夫人が、小声で笑った。 「悪いことを考えれば必ず神様が見ている、そういうことよね。タクシーを降りて出て来た草薙さんの奥さんの顔を見た時、わたし、どうしたらこの人を一晩、家から遠ざけておけるかとそればかり考えたの。ともかくたった一晩うちに帰らないで貰えばそれでいいんですもの。あの計画の為に、生まれてはじめて車を盗むなんてことまでしたのよ、どうしても計画は中止したくなかった。もっとも、たまたまスーパーの駐車場で鍵がついたまま置かれていた車をみつけて、計画に使える、と咄嗟に思って乗って来ちゃっただけなんだけど。その車に草薙さんの奥さんを誘って、わたし、嘘をついたのよ。ご主人が女性と二人で軽井沢の別荘に出かけて、そこで急病で倒れてしまった。ただの風邪だけれど熱がとても高い。お相手の女性は人妻で、家に帰らなければならない。なんとかこっそりとご主人を連れて帰れないか、わたしも手伝うので一緒に行ってほしい……そんなような嘘よ。奥さんはともかく信じてここまで一緒に来てくれたの。わたしは景子さんと恵理さんに連絡して、計画はこのまま実行する、ということにした。でも草薙さんの奥さんをここに残して東京に戻るわけにはいかないでしょ? だから、草薙さんを引きずりまわすのは一日延期して、景子さんにここに来て貰うことにしたの。恵理さんには、草薙さんの動向がわかるようにずっと一緒にいてもらってね。景子さんは車の運転が出来ないから、翌朝一番の新幹線で来ることになった。わたしたちとしても不本意だったんだけど、結果としては、本当の誘拐事件になっちゃったわけ」  小松夫人は肩をすくめた。 「なんだかこうやって説明すると、どうして途中で止めなかったのか、自分でも不思議。でもあの時は、もうわたしの頭の中はあなたを……草薙さんを東京中走りまわらせたい、それだけでいっぱいだった。本物の誘拐になっちゃった以上、もう警察だって動いているだろう、そう思ったらかえって開き直った気持ちになって……。一種のヒステリーみたいなものよね。これでやっとあの家庭から、夫や息子から解放される、逮捕されてしまえば何もかもおしまいにできる、って……。景子さんはさすがに心配して、もう無理なんじゃないかって言ってくれたんだけど」 「あたしも一緒だった」  景子が静かに言った。 「小松さんと一緒。一晩、奥様を監禁してしまったんですもの、もう後戻りは出来ない。そう思った途端に、むしろさばさばした気持ちになっちゃったの。朝一番の新幹線に乗って軽井沢に着いた時、あたし、決心していました。もう狂言じゃない。こうなったら、とことんやらないと意味がない。そう思った。どうせ草薙さんは警察に連絡するだろうし、成りゆきとは言え、奥様を監禁しちゃったことは事実なんだし、これで草薙さんを脅して何かさせれば、立派な誘拐事件だものね。一晩、鬱憤を晴らしたら自首して出よう。それで裁判で、言いたいことを全部言ってやろう……変よね」  景子は笑った。 「あたし……言いたいことがあったはずなのよ。裁判で叫びたいことが。でも今、こうして思い返してみると、それってうまく言葉に出来るようなものじゃないのね。あたしたちこれで逮捕されて、マスコミにいろいろ書かれて、でもきっと、どうしてあたしたちがこんなことをやったのか、結局は誰にも理解して貰えないんだと思う。ただのヒステリーで片付けられておしまいなんだと思う……今は、それでいいのかな、って気さえするの」 「自分からここに残ったのよ、あたし」  鮎美が、目を伏せたままで言った。聞き取り難いほど小さな声だった。 「無理にでも逃げようと思えば出来たかも知れない……小松さんも饗庭さんも、刃物を突きつけたわけではなかった。ただ、この部屋に鍵をかけてわたしを閉じ込めただけです。でもあたし……逃げる気になれなかったの。雄ちゃんがどれだけ心配してるかと思うと、申し訳なくて悲しかったけど……でも」  鮎美が顔を上げた。今度は、さっきりよりもっと切ない瞳で雄大を見ていた。 「こんなことになったのって、あたしにも責任がある。そうよね? 雄ちゃんだけが悪かったわけじゃないわ。あたしだって、仕事を言い訳にしてどれだけいい加減な暮らしをしてきたか……本当はしなくてはいけないことを他人に押し付けて、薄々誰かがやってくれてるってわかっていたのに、面倒だったし、やぶ蛇になるのが嫌で気づいていないふりを続けた。あたしも同罪なのよ。あたしたちって、やっぱり寄生虫みたいなもんなんだわ。大学を出て働いて、高いお給料をもらうようになったって、世の中で本当に大切なことが何なのか、真剣に考えたこともなかったし、その大切なことを守るために、無償で働いてくれる人々がいることを、わざと知らないふりを通してきた。福祉は国がするもの、ボランティアは暇人の道楽、自治会なんて広い社会を知らないお山の大将がいばりたいから熱心にやってるだけ。そんなふうにしか考えて生きてこなかった……あたしが毎月会社でつくっている雑誌が世の中から消えてなくなったって、誰がどれだけ困るの? 雄ちゃんが勤めていた会社の製品がひとつも売れなくなったって、関係者以外に悲しむ人がどれだけいるの?」  鮎美は、大粒の涙を頬に流していた。 「あたしも雄ちゃんも、大きな考え違いをしていたのよ。自分たちの仕事がいかにも社会に貢献しているすごい仕事みたいに思い込んで、マンションの中に起こっていることなんか、取るに足らないことだと馬鹿にしていた。でも違う……違うのよね。本当に大切なことは、大切な問題は、いつだって足下にあるものなのよ。毎日の生活の中に、日々の暮らしの中に、ごく身の回りにあるものなのよ。生きるってそういうことなのよ……社会って、そこから出来上がっていくものなのよ……あたしは逃げませんでした。わざとここにいたんです。雄ちゃんがここに来てくれた時、一緒に罰を受ける為に、ここに」  鮎美は、涙を拭《ぬぐ》って微笑んだ。 「これは誘拐なんかじゃない。あたしは自分の意志でここにいた。警察にはそう言います」 「そんなことはダメよ!」  小松夫人が叫んだ。 「嘘なんかついたって警察にはすぐばれちゃうわ。わたしたちに同情してくれなくたっていいのよ。わたしたち……少なくともわたしは、こんなひどい形になっちゃったけど、それに方法は間違っていたけれど、自分の手で自分を苦しめるものに闘いを挑めた、それだけでも救われたのよ」 「同情ではないんです」  鮎美は、しっかりと首を振った。 「それは真実なんです。わたしは逃げようと思えば逃げられた。でも逃げなかった。そのことを隠したくないんです。雄ちゃん」  雄大と鮎美の視線が、互いをとらえた。 「あたし、雄ちゃんにしばらくの間、働きに出ないで主夫になってほしいって言ったよね」 「……うん」 「あたし、恐かったの」 「恐い?」  鮎美は頷いた。 「あたし……どんどん、皆川さんに惹かれていく自分が恐かった。どうしてこんなに皆川さんのことを好きになってしまうのか、自分で自分がわからなかった。皆川さんと雄ちゃんのどこがどう違うんだろう、そればかり考えていたの。このままではいつか……雄ちゃんを裏切ることになる。そう思ったの。そしてふと、気がついたの。皆川さんは、自分の足下をいつもきちんと見て生きている。皆川さんはなんでも出来るのよ。お料理もその他の家事も、もちろん仕事も、そして趣味も、ボランティアも。でも決して頑張り過ぎてパンクしてしまうような、そんな生活じゃない。皆川さんはいつも自然体でおだやかで、そして決して絶望しない。あたし……失業しただけでお酒に溺れてしまった雄ちゃん、絶望してしまった雄ちゃんを見ているのが、すごく辛かったの。もしかしたら、もしかして、毎日の生活を、自分の足下をしっかり見るようになったら、雄ちゃんはもっと楽になって、そして立ち直ってくれるんじゃないか……そう思った。ごめんね、雄ちゃん。足下が見えていなかったのはあたしも同じだったのに、雄ちゃんだけが悪いみたいに……」 「鮎美の言いたいこと、いくらかわかったような気がする」  雄大は下を向いた。なぜか、鮎美の顔を見つめているのが辛かった。 「毎日の生活のことがなんにもわかっていない人間が社会に出てどんな仕事したって、そんなのはただの自己満足なんだ……寝て起きて食べる、そんな、生活するってことで自分から出るアクや汚れを、誰かが綺麗にしてくれると思ってた俺たち、やっぱり、ガキだったよね」 「あとね」  鮎美は小さな声で言った。 「もうひとつ……不安なこともあったの。ほんとはもっと早く雄ちゃんに相談してないといけなかったんだけど」 「……なに?」 「ほら、放火があったでしょ、マンションで。あれ、もしかしたらあたしに対しての嫌がらせだったのかも」  雄大は驚いた。 「どういう意味? どうして鮎美が脅されないとならないのさ」 「三カ月くらい前から、携帯に嫌がらせの電話が入るようになっていたのよ。ほとんどが無言電話で、出ると切れちゃうんだけど、二度か三度……嫌らしいことを言われたこともあったの。それだけなら気にしなかったんだけど、雄ちゃんが失業する少し前だったかな、あたし、風邪をひいて休んだことがあったでしょ。あの時に……部屋のドアについている新聞受けに、火のついたゴキブリを投げ込まれたことがあったの。カタン、って音がしたんで、チラシでも入ったのかしらと思っていたら嫌な、焦げ臭い匂いがして……」 「どうして言わなかったんだ! そんな大変なこと、どうして!」  鮎美は顔を上げ、それから悲しそうな顔をした。 「犯人が……もしかしたらあの、伏見さんの旦那さんかも知れないと思って」 「なんだって?」 「伏見さんの旦那さんね……雄ちゃん、あなたと奥様のこと、疑っていたみたいなの。一度、夜遅く帰って来た時にエレベーターの中で、酔っぱらった旦那さんに絡まれたのよ。お宅の亭主がうちの女房と不倫してるのを知っているか、って」 「そんな」  雄大は唖然としていた。 「そんな馬鹿なこと……俺、伏見さんの奥さんとは失業して家にいるようになるまで、ろくに話もしたこと、なかったんだぜ」 「わかってるわ。だからそう言ったのよ。そんなことは嘘です、あなたの妄想ですって。でもその時旦那さんはすごく酔ってて……あたしのこと掴んで、抱きしめたの。無理にキスしようとして。あたし、咄嗟だったんで思いきり蹴飛ばしてエレベーターを降りてしまったの。それからすぐ嫌がらせの無言電話が始まったの」 「でも、伏見さんの旦那さんが鮎美の携帯の番号なんて知らないだろう」 「名刺を渡したことがあったでしょう? いつだったか、ほら、雄ちゃんも一緒に渡したじゃない。あたしの携帯はほとんど仕事で使ってるから、名刺に番号、刷り込んであるのよ」  あの時だ。去年の町内運動会。伏見夫妻も自治会から頼まれて参加していた。競技を見ていた時、確か名刺を交換した覚えがあった。 「雄ちゃんに言わなくちゃ、と思ってはいたんだけど……あたし、嫌な女よね。やっぱり心のどこかで、伏見さんの旦那さんの言ったことがほんとじゃないかって疑ってる自分がいたんだわ。だからすぐに相談出来なかった」 「鮎美、そんなことは」 「いいの、ほんとにわかってる。あの旦那さんは少し異常なのよ。あんなに綺麗でマンションの人たちから注目を浴びやすい奥さんを持ってるとあんなふうに屈折しちゃうのかも」 「でも、伏見さんは、自分についてどんな噂が流れてもご亭主は気にしてないって言ってたけど」 「奥さんの前では気にしていない振りをして、でもほんとはすごく気になって、激しく嫉妬していたんでしょうね。きっと伏見さんの旦那さんって、本音と建て前の使い分けが激しいのよ。奥さんの前ですら建て前で生きようとしてるから、お酒を飲むとあんなふうに本音が出てしまうんだと思う」  雄大は、自分が自動販売機の前で醜態をさらしていたことを思い返していた。自分は自由に、生きたいように生きているつもりでいたのに、本当は建て前の中にきゅうきゅうとして、自我崩壊寸前だったのかも知れない。もし今度の失業がなくてあのまま会社員として過ごしていたら、いつかは伏見のように、酔って近所の人妻に無理にキスしようとするような情けない真似をしていたのかも。 「いずれにしてもあたし、いろんなことで頭がごちゃごちゃして、ともかく恐かった。自分の生活が、なにひとつきちんと地についていない、そんな気がしたの。仕事を辞めて主婦になって、今までほったらかしていたことをちゃんと片付けて、最初からやり直したい、本気でそう考えていたの。雄ちゃんのことも、もう一度、ちゃんと見つめてみようって」  鮎美がもう一度、雄大と視線を合わせた。 「でもね、あたし、今の仕事、やっぱり好きだった。明日こそ辞表を出そう、そう決心して眠っても、朝起きると、なんであたしがこんなに好きな仕事を辞めないとならないのよ、って怒りを感じてしまった。不安定で頼りない結婚生活だったけど、でもたったひとつだけ誇れたことがあるとすれば、お金の為に嫌々働いていたんじゃない、あたしは今の仕事が好きで、働くことが楽しかった。そんなふうに生き甲斐を感じて働くことを雄ちゃんが認めてくれていた、そのことだけは、他のどんな結婚生活よりあたしにとっては幸せだった。そう思ったら仕事を辞めるなんて悲しくて出来なかったの。大好きな仕事を辞めないと本当に生活を築くことって出来ないんだろうか、そう考えると、結婚ってなんて理不尽なものなんだろうって……」 「だから、俺に家にいて欲しい、と?」  鮎美は頷いた。 「どんな形でもいい、それまでとは違う結婚生活をしてみたかった。そして……ここがあたしの帰る場所なんだ、おうちなんだ、そう納得できる家庭がどうやったら作れるのか、考える時間が欲しかったの。皆川さんに惹かれて行く自分の心にもストップをかけたかったし、伏見さんにも、あたしたちは信頼し合っているんだって見せつけてやりたかったのね。あたしが外で好きな仕事を続けていても、ちゃんとしっかりした家庭が築けています、って」 「でもそれは、ふたりで働いていたって出来ることじゃないのかい」 「ええ……出来るかも知れない。でもあたしたち……失敗したのよ。やっぱり失敗しちゃったんだと思う」 「鮎美……」 「ごめんなさい」  鮎美の頬にまた涙が伝った。 「たぶん、あたしたちが失敗したのはふたりで働いていたからじゃない。あたしたち、ふたりで暮らすってことの意味を考えないでやって来た。それがいけなかったんだと思うの。あたしもやり直さないとならないのよね。一度、仕事もすべて休んで、生きるってどういうことなのか、暮らしていくってどういうことなのか、最初からやり直さないといけない。あたしも、いちばん最初のところから、はじめないと」  ドアがどんどんと叩かれた。時間切れだと須原が叫んでいる。  景子が立ち上がり、ドアを開いた。警察官たちがなだれ込んで来る。  手錠の音。  雄大は、小松夫人を、恵理を、そして景子を見た。  三人とも、なぜなのか晴れやかな顔をしている、と雄大は思った。  これから裁かれなくてはいけないのは自分たちなのだ、と、雄大は唇を噛んだ。鮎美も立ち上がった。雄大は手を伸ばした。  だが、鮎美は微笑んだまま、雄大の手から逃れて村木刑事の方へと歩いて行った。      2  警察の車に送られてマンションに戻ったのは明け方だった。鮎美は一晩、検査を兼ねて入院することになった。どこも悪くないのは見ただけでわかったが、警察としては少しでも暴行の痕跡などがあれば見逃さないつもりらしい。マンションにはすでにマスコミが殺到していた。雄大はもみくちゃになりながら黙り通し、管理人の助けを借りて自分の部屋へと帰った。  真壁たちはすでにすべてのものを撤収していた。部屋の中はがらんとして、この二日間の出来事が全部夢のように感じられた。  ひとりぼっちでリビングのソファに座っていると、疲れのせいなのかそれとも他の感情のせいなのか、涙が溢れて止まらなくなった。  やっと取り戻したと思った鮎美が、今度は自分からこの手を逃れた。  雄大は顔を覆った。鮎美は、皆川を愛し始めていたのだ。自分がだらしなく酒に溺れ、周囲のすべてに甘ったれていたその間に。そして鮎美は、景子とのことも知ってしまった。自分の裏切りを。  電話が鳴った。雄大はびくっとして電話機を見た。マスコミの取材だろうか。  受話器を取ると、優しい女性の声が聞こえてきた。 「お帰りなさい」  伏見美香だった。 「大変だったわね……あの、もしかしたらお腹が空いているんじゃないかと思って。おにぎりを用意したんですけれど……でも疲れているようなら一眠りされてから」 「いや」  雄大は涙を拭って言った。 「いただきます」 「すぐお持ちします」  電話が切れて数秒で、呼び鈴が鳴った。 「沙帆ちゃんのことがあったんで、ここも大騒ぎだったのよ」  美香のいれてくれた玄米茶の香ばしい香りが、雄大の意識をはっきりとさせた。 「沙帆ちゃん、小松さんのところにいたんだってね」 「小松さんの息子さん、健一くんが監禁していたの。健一くんも必死だったのよね。お父さんを守るために」 「お父さんを守るためって、どういうこと?」  美香は、溜息をひとつついて自分も茶をすすった。 「なんだかお気の毒で……健一くんも……あの小松さんも。小松さん、アルツハイマーで時々、記憶がなくなってしまうようになっていたんですって。ちっとも気がつかなかった。ふだんはきりっとして、剣道の先生らしいきちんとしたおじいちゃまだったから。一昨々日の晩、沙帆ちゃんは夜遅くなってからこのマンションに来ていたみたいなの」  雄大は、池袋の駅で別れた時の沙帆の顔を思い出した。沙帆はあの後、自分を追ってここまでやって来ていたのだ。 「たまたま沙帆ちゃんがあの児童公園にいた時に、発作を起こして徘徊をしていた小松さんと鉢合わせしてしまったのね。小松さんが何をどう勘違いしたのかは、誰にもわからないことですけど、ともかく小松さんは沙帆ちゃんにいきなり殴りかかったらしいのよ」  雄大は、手にしていた握り飯を取り落とした。 「殴りかかった!」 「ええ。沙帆ちゃんは髪の毛もあんな色にしていたし、お化粧も濃かったし、小松さんは沙帆ちゃんを不良だと思ったのか、あるいはまったく別の物語が小松さんの頭にあったのか。いずれにしても、沙帆ちゃんは悲鳴をあげて逃げた。そしてその様子を、小松さんを探しに出て来た健一くんが見てしまった。沙帆ちゃんは健一くんに、人殺しだって警察に訴える、と言ったんですって。健一くんはパニックを起こして、思わず沙帆ちゃんを平手でぶってしまった。沙帆ちゃんは倒れて、そばにあったブランコの支柱に頭をぶつけて気絶したらしいの。健一くんはどうしていいかわからないまま沙帆ちゃんを部屋まで担いで行き、そのまま監禁してしまったの。もしお母さんが家にいたらもっとましなことになっていたんでしょうけれど、小松さんの奥さんは……あなたのことでずっと家を空けていた」  そうか。雄大は、あの晩、おかしな電話が管理人室にかかったことを思い出した。あれは小松健一が外からかけた電話だったのだ。気絶した沙帆を担いだままでエントランスを通り抜ける為には、管理人をエントランスから一時でも離さないとならない。健一は、管理人が外を確認しに出ていた隙にエントランスを通り抜けたのだ。 「でも、母親の勘ってすごいなって、わたし感心しました。沙帆ちゃんが小松さんのところにいるんじゃないかって予測して、健一くんを呼び出して問いつめたのは洋子さんだったんですってね」 「どういうことだったの? 沙帆ちゃんのお母さんと小松さんとは面識があったってこと?」 「沙帆ちゃんたちがこのマンションにいた頃は、小松さんのおじいちゃま、沙帆ちゃんのことをとっても可愛がっていたんですって。でも……離婚の原因がいろいろと、ね……」  美香は雄大の湯のみに茶を注ぎながら、また溜息をついた。 「こんな小さなマンションの中なのに、人間関係って本当に難しい。本当は何もなくても、ちょっと親しくしているだけでいろいろ言われてしまうの。他にもあなたの耳に、もう入っているでしょう」 「いや……」 「隠さなくていいわ」  美香は微笑んだ。 「中道さんとのことなんか、夫も信じてしまって大変だったのよ」 「そう言えば……小松さんの奥さんがそんなこと言っていたけど」  美香は肩をすくめた。 「その小松さんの奥さんと青桐さんのことも、かなり噂になっていたんです」 「沙帆ちゃんのお父さんと、小松さんの奥さんが……そういうことだったのか」 「噂なのよ、本当はどうだったのかは誰にもわかりません。でもその噂をきっかけにして青桐さんご夫婦がうまくいかなくなったのはたぶん、事実だと思う。直接の離婚原因は奥さんにも恋人が出来たからだって聞いたけれど、そこに至るまでにはいろいろあったみたい。小松さんの奥さんと洋子さんが、何度か廊下やエントランスで口喧嘩していたのを、みんな見てました。そんなことがあったからかしら、母親の勘が、小松さんが怪しい、と思わせたんでしょうね」  沙帆に、実の父親は青桐ではない、と吹きこんだのは誰だったのか。  小松夫人? それとも……小松老その人か。  小松氏が沙帆に殴りかかったのはなぜなのか。小松老の頭の中では、その時の沙帆は沙帆ではなく、母親の洋子に見えていたのではないか?  いずれにしても、青桐家も小松家も、共に心無い噂話の犠牲者だったのだ。  雄大は、ゴミ出しのことで、わざわざ伏見美香の陰口を伝えて来た小松夫人のことを思い出した。あの電話は、アリバイ工作のようなものだったに違いない。彼女は自分が誘拐事件とは無関係だと印象づける為に、わざわざあんな電話をして来たのだろう。だがその時に選んだ話題が美香の不倫だった、ということが、すべてのことを象徴しているように思えた。  自分が嫌悪していたものはやはり、嫌悪すべきものなのだ。噂話。無責任に垂れ流される他人のプライバシー。  ただ雄大が間違ったのは、それを垂れ流している悪意の存在を、偏見から主婦たちの姿に単純に重ねてしまった点だった。目に見えない悪意は、わかりやすい井戸端会議の形などではたぶん、現れない。そんなに単純なものではないのだ。そうした悪意にできれば触れたくないと避けているだけでは、問題は解決しない。大切なことは、噂がされている現場に勇気を持って立ち会い、それを断ち切ることだった。だが誰もそれをしなかったのだ。自分も含めて。  視点を変えてみれば、見えてきたことはたくさんあったはずなのに。 「もう夜明けね」  次第に明るさを増していく窓の外を見ながら、美香は言った。 「まだはっきりしたことは言えないんですけど……わたし、たぶん、離婚します」 「伏見さん……」 「誤解しないで。草薙さんのことは何も関係ないし、他の誰のせいでもありません。そんなことのせいじゃないのよ……そうじゃなくてわたし、このマンションの閉じられた世界から、もう少し広い場所に出て、思いきり呼吸してみたくなったんです。それだけなの。人生をやり直すなら早い方がいいでしょう?」  美香は知っているのだろうか。夫が自分と雄大との仲を疑っていたことや、鮎美に破廉恥な行為に及んだことを。  だが雄大は、それを美香に告げる気にはどうしてもなれなかった。今さら夫に対する幻滅を深めさせたところで、美香の人生にはもうどうでもいいことに違いない。  美香は決心していた。この狭い部屋、小さな建物からもう一度外の世界に出て行くことを。  ただ顔が少し綺麗で、そして高学歴で、テレビに出たことがちょっとだけあった。それだけのことで、やっかみや興味半分の噂の標的にされ続け、さぞかし嫌な思いを積み重ねて来ただろう美香の結婚生活は、やっと終わるのだ。  美香は微笑んだ。どうしてなのだろう、その微笑みは、景子が見せたあの微笑みによく似ていた。  おだやかなのに哀しく、切ないのに幸せそうな、あの、不思議な微笑みに、そっくりだった。   *   *   * 「うん、鮎はこっちで元気にやってるわよ」  受話器の向こうで、恭子が力強く請け合ってくれたので、雄大はホッとした。 「すっかり迷惑かけてしまって、申し訳ない」 「勘違いしないでよね、あたしが鮎の面倒みてるのは、あなたに頼まれたからじゃないわよ。鮎はあたしの親友なんだもん、人生の一大事に助けてあげなければ女がすたるじゃないの」  恭子は笑った。そして笑いやんで言った。 「だけど、鮎はいつまで仕事、休むつもりなのかな。あたしが言ってもしょうがないんだけど、鮎には才能があると思うのよね。あんなことがあって迷うのはわかるけど、そろそろ吹っ切って、以前の鮎に戻ってほしいんだ、あたしとしては」 「俺もそれを期待してる。でも今は鮎美の思うようにさせてあげてくれないかな。鮎美も苦しんでるんだと思うから」 「うん」  恭子の声は温かだった。 「わかってる。でもこのまま離婚ってのだけはやめてよね。あたしはあなたと鮎の恋愛の面倒をみるのはもうたくさんなんだから。離婚するんだったら一度ちゃんと鮎を雄大のとこに引き取って、そっちで話し合ってからにしてちょうだいよ」 「離婚なんてしないよ」  雄大は言った。 「少なくとも、鮎美が望まないなら、しない。してたまるか。第一ここで離婚されたら、俺、食べていかれないんだぜ」 「ねえ雄大、あなた本気で専業主夫なんてなっちゃうつもりなの? もう勤めに出るつもりはないの? 仕事が見つからないなら、あたしの仕事、手伝わない?」 「君の仕事って、私立探偵なんて俺には無理だよ」 「私立探偵じゃありません。企業調査員です。あたしは浮気調査はやらないもの」  恭子は、雄大が助けを求めた電話を受けた後、すぐに行動を起こしていた。もっともそれは誘拐事件の真相とは方向がずれたものだったのだが、それでも恭子はとうとう、驚くべき真実を掘り起こして見せたのだ。  恭子は、雄大を襲った「オヤジ狩り」と鮎美の誘拐とが結びついていると考えた。そして雄大が誰かに憎まれるとするなら、その原因は雄大の会社勤務時代にあると推測した。  雄大を襲撃することを中学生に依頼したことが疑われた塾講師は、警察が証拠をそろえるのに手間取り、まだ逮捕されていなかった。しかし恭子は、その塾講師の交友関係、仕事の関係者をたどり、遂に、雄大を「こらしめる」ことを、その塾講師を介して中学生たちに依頼した真犯人を突き止めてしまった。  犯人は、坂田だった。  雄大を蹴落として勝利者となったはずの、坂田だったのだ。  まるで喜劇だった。坂田が雄大を襲うことを塾講師を通じて少年に依頼したのは、雄大が失脚して大逆転勝利が坂田のところに転がり込んでくる直前のことだった。坂田は自分が敗北者になることを確信し、会社を辞めるつもりでいた。だがどうしても雄大に対する腹の虫がおさまらずに、雄大の家の近くでオヤジ狩りが発生していたことに便乗して、雄大を痛めつけようと考えた。が、少年たちは気紛れだった。塾講師に雇われてからもなかなか仕事《ヽヽ》を実行しないでいた。そしてその内になんと、雄大の方が先に失脚して会社を去ることになった。坂田の方は、思いもかけずに勝利者となった喜びで舞い上がっていて、雄大を襲う依頼をしたことなど頭の中から追い出してしまった。実行されないならそのまま放っておけばいいと考えたのだろう。  その事実を恭子から告げられた時、雄大は絶句し、そして呼吸が苦しくなるほど笑い転げた。  愚かだったのは坂田か、それとも自分か。答えははっきりしている。双方とも、だ。  坂田は逮捕され、新聞に名前が載り、懲戒免職となった。雄大は坂田と民事訴訟で示談を成立させ、それをよりどころにして執行猶予のついた判決を求めて、坂田と弁護士とは裁判に臨んでいる。判決はあと数日後には出るだろう。だが少年を悪事に引き込んだ責任は重い。執行猶予は難しいのではないかと噂されている。  坂田にだって妻子はいたのに。  自分と坂田とは、いったい何の為にあれほど憎み合い、争って生きていたのだろう。今の雄大には、あの頃の自分が何を考えていたのかまるでわからなくなっていた。 「前の会社から戻らないかって誘い、あるんでしょ」 「どうして知ってるのさ」 「だから」  恭子は笑った。 「あたしはプロなのよ」 「魅力を感じないわけじゃないんだ。このまま外に出て働かずに一生やっていくって決めたわけでもない」 「復帰するなら早い方がいいんじゃない?」 「うん、そうだろうな。でも今はもう少し、この生活を続けたいんだ」 「どうして? まさか、家事が天職だとわかったなんて言うつもりじゃないんでしょ」 「とんでもない、やればやるほど、自分には家事の才能がなさそうだと絶望してるところだよ」 「だったらどうして」 「だからこそ、さ。出来ないことがあるって悔しいだろ? 料理だって洗濯だってバーゲン漁りだって、まともに出来ないなんて悔しいじゃないか」 「雄大って」恭子は笑い転げていた。「昔からそうよね。変なとこで負けず嫌いなんだから」 「悪いことだとは思ってないね。それとさ、俺、やってみたいことがあるんだ、主夫業を通じてね」 「何よ、やってみたいことって」 「うん」雄大は言った。「大袈裟に言えば、改革、だな」 「改革? 何の?」 「井戸端会議」 「……何ですって? 今、なんて言ったのよ」  呼び鈴が鳴った。 「あ、ごめん、時間だ。また連絡する」 「時間? どこかに出かけるの?」 「いや、野菜が来たんだ。それじゃね」  雄大は受話器をおき、走って玄関の戸を開けた。 「こんにちはー」  ドアの向こうに立っていたのは、予想外に、沙帆だった。 「遊びに来たよ」 「いいけどさ」  雄大は呆れて笑った。 「携帯持ってんだから、来るなら来るってメールぐらいしろよ」 「別に留守なら留守でいいと思ったんだもーん」 「留守じゃなくても、人には都合ってもんがあるんだろう」 「あ、その言い方」  沙帆は雄大を拳でコツンと叩いた。 「迷惑がってるぅ。いつでも遊びにおいでとか言ったくせに」 「それならいい。まあ入れ」  雄大は沙帆を玄関に招き入れた。 「これから仕事があるから、手伝わせてやるよ」 「仕事って何よ」 「野菜が来るんだ」 「野菜?」 「うん。たっぷりあるからここまで運ぶのはけっこう重労働だよ。覚悟しとけよ。それより沙帆ちゃん、先週から学校に行ったんじゃなかったの」 「行ったけどぉ」  沙帆は、上目づかいに雄大を見た。 「ちょっと疲れたよ。いいじゃん、今日ぐらい」 「ま、いいか」  雄大は笑った。無理をして学校に通う必要なんてない。沙帆にはきっと、沙帆がいちばん心地よく過ごせる場所があるはずだ。それをゆっくり探したらいい。  それでも沙帆はもう一度学校生活に戻ることに挑戦しているのだ。結果として戻ることが出来なくても、何かをやってみようと思えるようになったことは、沙帆にとって大きな前進のはずだ。 「ねえ、喉渇いた。なんか飲ませて」 「冷蔵庫にウーロン茶が入ってるよ。コップの場所はわかるだろ」  沙帆は鼻歌を歌いながら台所に入って行った。あれから、沙帆はちょくちょく遊びに来るようになった。気丈な娘だ、と雄大は思う。監禁されて相当恐い思いをしたはずなのに、そのマンションにこうして来られるのだから。  沙帆はコップに注いだウーロン茶を立ったままおいしそうに喉を鳴らして飲んだ。その仕種の若々しさに、雄大は思わず眩しさを感じて瞬きした。  十六歳一歩手前。沙帆の人生はこれからが本番なのだ。 「おじさんさあ、このまま奥さんやっちゃうわけ、ずーっと」 「奥さん、ってなんだよ」 「だって奥さんじゃん、野菜買ったり御飯つくったり、掃除したりするんでしょ」 「自分で食べるものを調理したり、自分が汚したところを掃除したりするのは、生きている以上誰でもやらなくちゃならない、当たり前の仕事だよ。別に奥さんの専売特許じゃないさ」 「まあそりゃそうだけどぉ」 「君はママに任せっぱなしなんだろ。そろそろママの手伝いをしてもいい年頃だぜ」 「説教くせー」  沙帆は顔をしかめて見せた。その表情がとても可愛くて、雄大はどぎまぎした。 「でも沙帆ちゃんはやっぱり、ママが好きなんだろ」  雄大が言うと、沙帆は意外なほど素直に頷いた。 「まあねー。カノジョも苦労してっからさ」 「携帯にママ、って打ち込んだのは、ママなら助けてくれると思ったから?」 「ってゆうか、他に思いつかなかったの。今考えたらさ、コマツ、って打てば一発だったんだろうけど、いつあいつに携帯見つかるかわかんなかったしさ。実際、途中で見つかって取り上げられちゃったもんね」 「賢明だったよ。コマツ、と打っていたら、あの健一という子が沙帆ちゃんをどうかしたか、考えるとちょっと恐いからね」 「うん、でも、あいつ、人殺しは出来ないヤツだったと思うよ。ちょっと可哀想かな……あのおじいちゃんがボケてるなんて、あたし知らなかったんだ。知っていたら、騒いだりしなかったんだけど。だっていつもはあのおじいちゃん、すっごくまともだったんだもん」 「立ち入ったこと訊いてもいいかな」 「どうぞ!」 「沙帆ちゃんがパパの子じゃないなんて嘘を教えたの、小松のおじいさん?」  沙帆は頷いた。空になったコップの底を覗き込んだままで。 「バッカだよね、あたし」沙帆は笑った。「ボケたじいさんに騙《だま》された」 「騙すつもりはなかったんだろうね」  雄大は溜息をついた。 「小松さんは、本気でそう思っていたんだ、たぶん。小松さんは青桐さんを憎んでいた。でも沙帆ちゃん、きっと君のことは好きだったんだよ。昔から可愛がってくれていたんだろう。小松さんは、君が青桐さんの子供ではないといい、と思った。そして小松さんの頭の中で、願望が妄想になっちゃったんだ」 「いずれにしたって」  沙帆はにっこりした。 「あたしがバカだったことに変わりはないからさ。これからの人生、バカの償いにちょっとは親孝行、しちゃうもんね。でも良かった。あたしさ……やっぱパパのことも好きだったもん。パパの子だってわかって、ほんと、嬉しい」  もうひとつ訊きたいことがあったけれど、雄大は訊かずに我慢した。君のパパは、君のことをサッちゃん、と呼んでる?  バナナを半分しか食べられない女の子の歌を、きっともう、沙帆は嫌いじゃないはずだ。  また呼び鈴が鳴った。  今度こそ、鳴尾夫人だった。 「そろそろ参りましょうか」 「そうですね。おい、沙帆ちゃん、仕事だぞ!」  雄大はキャスターのついたカートを持ち出し、鳴尾夫人と廊下に出た。 「じゃあね、おじさん。またねー」 「あ、こら。逃げるな!」  沙帆は驚いている鳴尾夫人の横をすり抜け、笑いながらエレベーターに消えて行った。 「ちぇっ、運ぶの手伝わせようと思ったのに」 「今の娘さん、青桐さんの?」 「ええ。なんかなつかれちゃって、たまに遊びに来るんですよ」 「草薙さん」  鳴尾夫人はなぜか、くすくす笑っている。 「草薙さんは、青桐さんにお会いになったこと、あります?」 「え? あ、ええ、一度沙帆ちゃんのことでご挨拶に見えました。お礼だと」 「お気づきになりませんでした?」 「……何がですか」  鳴尾夫人はまた笑って、言った。 「青桐さんって、草薙さんによく似てますわよ」  なんだ。  雄大は、気抜けがして、込み上げて来た笑いを押し殺した。  沙帆が自分に興味を抱いて近付いたのは、要するに、それだけの理由だったのだ。  そりゃそうだよな。  雄大は、自分がもう若くはないのだ、ということをあらためて納得した。三十三歳。沙帆にとっては、父親と同じようなものだった。  あの若さを眩しいと感じるのは、自分がその若さから少しずつ遠ざかりつつある証拠だった。だが雄大は、そのことが残念ではなかった。  本当の意味で、自分は大人になる。その季節が来ているのだ、と思う。  三人の誘拐犯たちの公判も、来週には結審する。執行猶予は難しいらしいが、雄大も鮎美も減刑嘆願書にサインした。  一片の憎悪もないと言えば嘘になるが、いつの日か彼女たちともう一度、向かい合ってみたいと思う気持ちはある。そして、その日までに、もう少し大人になって、変化していたいと、雄大は自身に誓っていた。  鳴尾夫人の熱心な勧誘で有機栽培野菜の配達は会員が増え、駐車場にはかなりの数の主婦が集まっていた。  野菜の配達車が到着するまでの間、いつものお喋りが駐車場中に響き渡っていた。 「……ってまたなんですよ、ねえ草薙さん、どう思います?」 「絶対に許せないわ。生ゴミの日も不燃ゴミの日も、ちゃんと守らない人がいたんじゃ……」 「でもあれって伏見さんじゃなかったのね」 「そうね、伏見さんが引っ越しされてもまだ……」 「あら、あたしは伏見さんは濡れ衣だと思ってたけど。それより四〇六号室のほら、ひとり暮らしの」 「ああ、あのOLさん? そうよねぇ、最近の若いひとはずぼらだし」 「だいたいどうしてOLがひとりでこんなファミリー向けのマンションを買ったのか、わたしねいろいろと……」 「そう言えばあの人、毎日真夜中にタクシーで帰って来るのよ、知ってました?」 「まあ、どういうことなのかしら。そんなに毎日タクシーで帰るのを認めている会社なんてあるわけな……」 「ちょっとみんな、ストップ」  雄大は、手をパン、と打って言った。 「前にも言ったと思うけど、証拠がないのにそういうこと言うの、やめませんか。それよりゴミ出しの問題はちゃんと解決しないといけないんだから、どうしたらいいか考えませんか」 「考えるって、犯人を捕まえればいいんでしょ」 「だったら張り込みしない?」 「あら面白そう!」 「それはいいけど、犯人が見つかったとしてですね、ただ文句を言うだけでは問題は解決しないかも知れない」 「どうしてですの、草薙さん。規則を守らない人が悪いんだから守ってもらえばいいわけでしょう」 「守れない規則なのかも知れない、ってことなんですよ。人にはそれぞれ生活のパターンというのがあります。それとそれぞれの勤務先や仕事、生活事情によって、常識と非常識の境目もずれてしまうものです。さっきのタクシーのこともそうだ。世の中には、終電に間に合わない時間に仕事をしているのが当たり前の業界だってたくさんあるんです。犯人を見つけるのはいい。いいけど、どうしてその人が規則を守ることが出来なかったのか事情を聞いてあげるつもりがなければ、ただその人をここから追い出して終わりってことになっちゃうかも知れない。みんな、それでもいいですか」 「追い出すだなんてそんな、人聞きの悪い、ねぇ」 「前みたいなことは嫌だわ、あたくし」 「前みたいって、ペット騒動の?」 「そりゃうちは規約改正に賛成しましたけどね、でも反対した人に出て行けなんて言うつもりはなかったんですよ、ほんとに」 「そうよねえ。あの時だって、ペットぐらいのことで出て行く人がいるってわかっていれば、もう少し他に方法がなかったのか考えたものねぇ」 「あらでも、規則を守れない人が出て行くのは当たり前なんじゃないの?」 「あたしもそう思うわぁ。規則を守るのが嫌だったら出て行けばいいのよ、ねぇ」 「それはどうかしら。そういうのってなんだか、数が多い方が全部正しいみたいで、感じ悪くない?」 「でも規則は規則でしょ、だから……」 「草薙さん」  竹下が、笑顔で手を振りながら現れた。 「ご苦労さまです。どんどん盛況になりますね」 「駐車場でやるのは迷惑ですかね。これだけ人数が増えてしまうと」 「そうですね、少し考えましょう。業者とも話し合って、一階の集会室を使えるようにするのはどうですか」 「有り難いです。すみません、私的なことなのに」 「いやいや」  竹下は雄大のそばに寄り、声を潜めた。 「放火犯ですが、どうも逮捕されたようですよ。今、あの須原という刑事から電話がありました」 「ほんとですか。それで犯人は」 「うちのマンションの人ではありませんでした。ホッとしましたよ。裏のアパートに住む浪人生だったようです」 「ひとまず、良かったですね」 「ええ、ほんとに。でも廃品回収の問題は何とかしないといけませんね。回収場所に覆いをして放火されにくくするとか。またお知恵をお借りしたいんで、時間のある時にお茶でも飲みにいらっしゃいませんか」 「寄らせていただきます」  竹下は、雄大の手を握った。 「頼りにしています。草薙さんがいてくれて、心強いですよ」  野菜を運んで来たトラックが姿をあらわした。女性たちの喋り声が一層賑やかに響き、その真ん中で、近郊農家で栽培された見事な有機野菜が次々に車から降ろされる。何かのはずみに箱から飛び出した、よく熟れた赤いトマトが、アスファルトを転がって雄大の足下に到達する。  雄大は、手を伸ばしてそれを拾った。鮎美の大好きな野菜。鮎美にこのトマトを食べさせてやりたい、と、雄大は思う。よく冷やしてスライスして、鳴尾夫人に作り方を教わった特製のドレッシングをたっぷりとかけて。  鮎美が喜ぶ顔が、雄大の頭の中に大きく映る。  誰かを愛すること。それは、その人の笑顔を見たいと思うこと。いちばん大切な問題は、いつだって自分の足下にある。  試練は、まだ続いているのだ。鮎美をどうやって愛したらいいのか。鮎美とふたり、間違っていたことをひとつずつ正していくにはどうしたらいいのか。雄大は自分の本心を知っている。また会社に勤めて働きたい。ばりばり働いて、出世がしたい。どんなに愚かだと言われても、あの喧噪と怒号の中に帰りたい。  だがその前に、自分は知らなくてはならないのだ。  自分の足下に何があるのかを。  自分が最低限しなくてはならないことが、何なのかを。  笑い声と甲高い喋り声。伸ばされる手。運ばれる野菜。読み上げられる明細。  決して忘れてはいけないこと、それは、自分もそうやって、その甲高い声と忙しく動き回る手によって育てられてきた、ということだった。食べて着て眠る。そのもっとも基本的な部分に差し伸べられる手が、すべての未来をつくる最初の手、なのだ。  視線を感じた。雄大は振り返った。  制服を着た少女が立っていた。内藤由美。その子のことを意識し出して初めて、雄大は気づいたのだ。自分がその少女に憎まれていると。  雄大は、少女を見つめた。それから黙礼した。  不意に、氷のかけらが溶けた。  少女が、ぎこちなく頭を下げた。持ち上がった少女の頬には、ほんの僅かに微笑みが浮かんでいた。  少女は駐車場を横切ってマンションの中に入って行った。  今確かに、彼女は自分に近づいてくれた。  雄大は、込み上げてきた熱いものを呑み込んで、騒々しい輪の中へと向かう。  その先が愛する人へと繋がっている、愛する人と同じ地平を抱いている、女性、という世界の方へ、一歩ずつ、近づいて行く。 単行本 二〇〇一年十月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十六年十月十日刊